カルビのあなた

猫浪漫

豚の夢

 わたしはよく、小さな小屋の中で豚から嘲われる夢を見た。

 今でもその夢をみている。六畳ほどの狭い暗がりの中で、わたしは豚と暮らしていた。


 わたしはそこでオークの鏡台の前に座り、身動きの少ない豚の傍らで、見たことのない誰かのための化粧をしていた。



 淡い夢、朧げな希望。


 少なくとも、わたしは自分の顔に惚れることが出来た。


 それがわたしの浮かばれる道だと漠然と思っていたが、確信はなかった。

 


 ちなみにこの豚は人語を解し、日本語を話すことが出来た。夢の中のせいか、そのことには違和感を感じない。


 この豚の名前をわたしは知らない。聞いたことも名付けることもしなかった。


 さしたる理由もなかったが、わたしは豚を見下していた。わたしの感情の中に豚を可愛がるだけの思いやりは微塵もなかった。


 多分、豚そのものを下に見ていたからなのだと思う。醜い者の隣を恥じる劣等な差別する感情にそれは似ていた。



 しかしどうして豚が下等に見えてしまうのか?


 豚はクサイから、不細工だから――などと色々理由をつけてみても、わたしには検討もつかなかった。



「なあ、オレは美味いかな?」


 それが豚のいつもの言葉だった。


「オレの肉はどこを切っても美味いさ。オレの肉ほど『エマラ・焼肉のタレ』が似合う肉はねえだろ?」


 豚は自分のをよく気にしている風だった。


『自分がどの様に調理され、どんな味付けをされるのか?』


 それがこの豚の興味の全てであるように思えた。



「どうよ? オレを食べてみたいと思うか?」


 彼が豚である以上、それなりに「美味しい肉体」なのかもしれない。

 だけど、わたしはこの豚を見下していたものだから、彼の肉体を自分の身体の中に取り込むこと自体、生理的に耐え難く思った。



「なあ、ところでオレのライバルを教えてやろうか?」


 わたしは「なんでしょう?」とも聞かなかった。


 豚の天敵に対して思いを馳せてみたが、わたしにはもとより、それを推し量る力も興味もなかった。



「米」


 わたしの無言が障ったのか、豚が苛立ち気に言葉を放った。


 コメ?



「オレはさあ、いつも米に嫉妬しているんだよね」


 わたしが声を発したことによって、豚は少しだけ笑顔になった。


「あ、オマエ今、『お前なんか勝負にならない』って顔したな? 判ってるよオレだって、なんてったって相手は主食になり得るもんな」


 豚のいうようなことをわたしは何も考えていなかった。むしろ豚がわたしのこころの内を得意げに言い当てた心算つもりなのが癪に障った。



「ところで食品の中で神に近いものは何だと思う?」


 神?


「食品の中で一番重要なものという意味さ」


 わたしは麦と答えることにした。本当はわたしも米のことを考えたが、豚と同じ答えが嫌だったのだ。


「なるほどな、確かに――あっ、もちろん麦だって尊敬しているぜ? だけどオレの場合はやっぱり米だな。特に新潟のコシヒカリ、あれだけ健康的にウンコを吐き出させてくれる米をオレは知らない。あれはオレの中で唯一の神なんだ。だけどオマエさ――」


 豚は鼻を鳴らしながら、わたしを見据えてきた。


「トウモロコシは超えてみたいと思わない?」


 トウモロコシ?


「もちろんジャガイモだっていいんだぜ」


 ジャガイモ?


「だがな、いくら偉そうなことを云ったって、ジャガイモを超えられないんだ。オレもオマエも」


 オマエも……?


 身体が怒気に震えた。


 豚の話には興味がなかったが、彼がわたしを自分と同列にみようとする動きが、差別的なわたしには許せなかった。 

  

 それに他者のよく判らない理屈の中に当てはめられて、自分の価値を評論されるいわれもない。


「だけどイタリアなら豚は捨てるところがないというだろう?」


 その言葉は、豚の得意気な眼差しから発せられた。


「つまり俺は価値のかたまりだということだな」


 彼はわたしに自信を見せつけ、そしてそれを見せてもよい相手と思っている。

 他所でみせられない僅かな自信をわたしに見せつけようとしている。



「ところでお前は誰に食べられるべき肉なんだ?」




 わたしは誰かに食べられたりはしない。

 だって、わたしの肉はあなたのようにスーパーで売られていたりしないから。



 わたしがそう云うと、豚はにわかにニヤつき始めた。その表情からは、普段わたしが彼を見るときのような侮りを感じた。



「オマエ、自分がカワイイと思っているだろ?」


 

*

 

 或る日、豚は呼び出された。


 そしてわたしは独り、小屋の中に取り残された。


 去り際に豚がわたしの方を振り返った時の勝ち誇ったあの顔――夢の中の出来事なのに、今もわたしの眼に焼きついている。



 ただ怠けた生活をしていただけの一途なわたしの敵。

 その敵がわたしを逆転する。



 でも豚は己の死というものを最初から理解していたような気がする。

 身体を細切れにされて死んだ豚が最後にわたしにこう云った。


「オレはこの時を待っていたんだ、オレの死はこのためにある」


 ええ、そうでしょうね。


「オレの肉はどこを切っても美味いさ」


 ええ、そうでしょうね。


――きっとあなたのカルビも美味しいのでしょうね。


 あなたは自分の肉体のどこも無駄にはしない自信があるのでしょうね。


 あなたの身体は引っ張りだこです。



 わたしは謙虚にありふれていたというよりも、自惚れも自信もなかった。

 だって、わたしのかわいい顔は、いつも豚しか見てくれなかったから。



 豚の身体が縦横無尽にばらまかれていく中で、わたしは永遠の小屋に取り込まれた。

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カルビのあなた 猫浪漫 @nekoroman5

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