終 今日まで

 正直、どの人もわざわざ挨拶に来てくれるなんて思わなかった。

 私は、行く宛もなく、一年ぶりに『私の家』に帰ったのだ。


 何をするでもなく、スマートフォンをいじる。

 見栄を張る相手もいなくなってしまえば、いろいろとどうでもよくなるものだ。

 自分でも意外だったのは、最初に変わったものは食だった。安価なクッキーとビタミン剤で日々を過ごす。紅茶なんて、飲みたいとも思わなくなった。

 ただ、通販で購入したアルコールは随分と飲むようになった。

 市販の睡眠導入剤など、ろくに効かない。思えば、当然だ。あれは眠りたくても眠れず、翌日、辛い思いをする人の苦しみを緩和するためのものだ。私のように無理やりに眠ろうとする者に必要なのは麻酔なのだ。

 ここに思い当たり、酒を購入した。どれもこれも、あまり美味しくなかった。

 いろいろ試したが、冷凍庫に四リットルのペットボトルの安価なウイスキーを、冷蔵庫には格安のコーラを常備するようになった。

 これが飲んでいて比較的苦しくなかった組み合わせだった。


 ある日、訪れた千秋ちゃんは、ひらひらのドレスでもなく、いつかのような着物でもなく、色味の抑えられたパンツスタイルで随分と動きやすそうだった。隣にいる玄さんもジーンズにジャケットにバケットハットとラフな格好でいる。随分と大きなキャリーケースを引いている。

 しかし、千秋ちゃんは左目に眼帯をしてつばの大きなキャップと、前髪で隠そうとはしているのだろうが、やはり目立ってしまっている。

 私の視線もそこに向かってしまっていたのだろう。

「ある種の聖痕、みたいなものですよ。あの人は、全く。なんの為に私に返したのだか。おかげで何もかも殆ど奪われてしまいました」

 ふふと笑う。その微笑みは相変わらず綺麗だった。

 私は何も言えない。

 そもそも、何を言うべきかもわからない。

 だって、私は何も知らないのだから。いつもそうだった、私は何もできないのだ。

 私にだってできることがあるかも、なんて思ってオカルト世界を覗いてみたけれど、結局、私に出来ることは誰にでも出来ることしか、いや、ともすれば誰にでも出来ることすら出来なかった。私は私だから、何もできないままだ。

 ただただ立ち尽くす。

 目が合った。

「けれど、腹は立ちますが、せっかくの貰った命ですので」

 笑った。

 随分と力強い、感謝や喜びの裏に確かな怒りのこもった笑みだった。

 それも、一瞬、ふふと笑う。

「行きましょうか、玄。今日は、お話してもらえなさそうなので」

「おう」

 二人とも、深く帽子をかぶりなおす。

 ああ、そうか、こんなに分かりやすいことがあるだろうか。逃避行だ。何から逃げるのかなんて知らないけれど。

 ちょっと嫉妬する。

 最後、二人はそれぞれ深くかぶった帽子の奥から、何もかも見透かしたかのような目でこちらを見る。

「では、また会いましょうね。次に遊びにいけるのが楽しみだわ」

「困ったら、連絡してこい。それとは別に、俺個人として今回の礼くらいの働きはしよう」

 そう言った玄さんのおしりをぱしんと千秋ちゃんが叩いて、二人は消えていった。

 嫌味では無いのだろうけれど、次とか気軽に言える人間は消えればいいのに、と思った。

 

 二人がおいていった謝礼は私が一人で一年くらい過ごせる金額だった。

 最初は、少しウキウキもした。このお金で最後に何をしようか。

 けれど、意外と何もしたくない自分に気付く。

 せっかくだから、やってみたいことは沢山あったはずなのに、何もしたくなかった。

 旅をしたかった。

 富士の樹海、華厳の滝、東尋坊、足摺岬。

 生まれた場所を選べないのなら、死ぬ場所くらいは選んでやるのだと思っていた。

 最期くらい、まるで世界の終わりのように一人で儚く素敵な旅をして、終わり方を決めよう。そう思っていた。

 なんのことはない。自分の言葉が刺しに来る。

『切腹への憧れ』『腹を切れると思っていた』

 それとなんら変わらなかった。

 自分は綺麗に終われると思っていた。私は自分の平凡性を十分に知りながら、自分の平凡性に絶望しながら、なおもまだ、私は特別だと思っていたらしい。

 私は、自分自身を生存本能を振り切って、さっくりと死を選べると。死ぬことなんて大したことではないと、そう思っていたのだ。考えてみれば日本でも年に百五十万人も死者がいるのに、自殺者数はたったの二万人ぽっちだ。そこに私が入れるなんてなんて思い上がりだったのだろう。

 ふと、嫌な単語が頭をよぎった。

『寿命の浪費による老衰』

 酒の量が増えた。 

 今、私の目の前には坂がある。どれほど、転がり落ちるのか。

 次に私が人にあったのは夏の終わりの事だった。


「痩せたわねえ? ちゃんと食べているのかしら?」

 青年の姿のマヤさんは私を見るなり、そう言った。

 マヤさんの隣には、彼の――あるいは彼女の恋人である女子大生がいる。

「私たちね。この街を出ていくことにしたのよ。この街にいると、この子も私も古い話を思い出してしまうから」

 私は何も言えずに立ち尽くす。

 この人には随分と優しくしてもらった気がする。けれど、私からは何か出来たのだろうか。

「来年からもお盆くらいはあの人のたちの――私の一族の墓参りに来るつもりではあるけれどね」

 その一言に女子大生が動揺した様子はない。全て知っているのだろう。勿論、マヤさんが適当な言葉でごまかしている可能性もある。けれど、そうではないだろう――彼女たちは全て分かり合って一緒にいるのだろうという確信が不思議とあった。

 ちょっと嫉妬する。

「また、いつか。もし、会うことがあればお茶でも行きましょうか」

 来年。随分遠い話だ。滅びればいいのに。


『死にたいという奴はただ楽をして生きたいといっているだけだ』というニュアンスの言葉が嫌いだ。

 何を当たり前のことを。当然ではないか。

 そうならないから、死にたい、と言っているだけなのに、何故、いちいち厭味ったらしく説教されねばならないのか。

 結局、奴らも一緒なのだ。

 ただ、楽をして生きたい。

 それを口にする度胸がないだけだ。

 死ぬのが羨ましいのだ。

 家族を持ってしまったから。

 大切な仕事があるから。

 良き友人がいるから。

 死ねないだけだ。

 死ぬ度胸がないだけだ。

 私は明確な終わりを持っている。

 お金が尽きる。

 その瞬間を待っている。

 蜘蛛の糸が切れる、その瞬間を待っている。

 お金の減りは想像以上に早かった。風呂を減らした。光熱費を減らした。スマートフォンを解約した。躊躇い傷無く、腹を割ける者だけが私に石を投げよ。

 ただ、酒は減らせなかった。

 朝起きると、嘔吐から始まる。トイレに向かい、荒れ果てた胃の粘膜により真っ赤に染まった吐しゃ物が口から流れ出す。嘔吐が落ち着くと、酒を飲んで寝る。この繰り返しだ。

 昼も夜もない。

 次に人にあったのは冬の終わりだ。


「この街を出ていくわねえ?」

「姉貴は転勤。俺は卒業だ。俺は姉貴についていく」

 一瞬、違和感を抱く。何に対する違和感か。

 しゃっきりとしない頭で、指を折り、数えてみる。

 やはり私と同い年だ。てっきり、一つ年下だと思っていた。

 流石に二年たっていて、一つ年下の彼が卒業する、ということはないだろう。

 トキコさんはそんな私を見てクスクスと笑っている。

「何か言いたいことはあるかしら?」

 私は何も言えず、立ち尽くす。

 意地悪な人だと思う。

 ヒロは一瞬、何かを考えた後、ポケットへ手をいれ、何かを私へ渡そうとして。

「こらあ」

 ぺちん、と頭をトキコさんに叩かれていた。

 口元に指をあて、ん-、と軽く悩む動作をした後に。

「それじゃあ、さようならね。また機会があったら会いましょう」

 相変わらず、ゆるふわとした雰囲気のまま、トキコさんはヒロを尻に敷いて、消えていった。

 もう機会なんて無い。


 そして、ついに。

 貯蓄が底をつく。

 電気が止まる、ガスが止まる、水が止まる。

 確かにこの瞬間を待っていたが、心の中に、確かにこの日がこなければ、と思っていた自分がいる。

 彼がいなくなって初めて泣いたかもしれない。

 久しぶりに、酒を飲まずに眠っていた。日差しの中の布団が思ったより暖かくて、幸せだった。

 春で良かった。


 人が嫌いだった。

 他人に合わせるのが苦手だった。

 私が持っていた人間関係、そのほとんどを様々な方法で彼は処分してくれた。

 彼が残してしまった、いくつかの縁も全て切れた。

 金がないという逼迫した状況も作り上げることができた。

 ただ、その気になってしまえば、まだ生き延びて、転がり落ちることはきっとできるのだ。

 だから、最後の最後くらいは自分で処分しなければならないだろう。

 ようやっと、自分を追い込めたといえるのかもしれない。


 真夜中。

 なんとなく。

 本当に久しぶりの外出だった。

 妙に夜目が効く。

 行く場所は決まっている。

 いつか訪れた廃校の扉は開いていた。

 確信があった。

 開いていない訳がない。

 階段を登り、屋上へ向かう。

 確信があった。

 

 屋上の縁に、内側を向く形で立つ。

 せめて、最期くらい格好いいところを見てほしかった。

 腕を開き、背筋を伸ばし、後ろへ倒れる。

 満天の星空が見えてくる。

 私は一体、誰に向けて、格好をつけているのだろう。

 自分でも笑ってしまう。

 見栄っ張りにも、いまだにすっとぼけていることにも。

 平たく言えば、私は彼を信じ切れなかった。

 あの魔王は、私と紅茶を飲んでくれなかった。あの時間が一番大切だと、私は何度も伝えたのに、その大切な時間を一緒に過ごしてくれなかった。きっと、私なんて目にも入れたくなかったのだろう。

 なによりほら、本当に一緒にいて欲しい時、いないじゃないか。

 最後の最後、好き勝手に私の内心を暴いたくせに、私のして欲しいことはなにもわかってくれなかったじゃないか。

 勝手なことを言っているという自覚がありながら、涙があふれてくる。

 全部全部、私が悪い。そんな事、知っている。それでも、それでも。

 体がゆっくりと倒れていく。

 あ、もう戻れないな。

 そう思った時、心臓が痛いほどに収縮した。

 ――ああ、怖い。

 その瞬間、最後に願ったのは。


 満天の星空を二分するように、流星が奔った。

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天狗の如く、夜這うもの。 塊 三六 @adam1987

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