三十三時三十三分三十三秒

「さてはて、どうしようか」

 大雨に打たれながら、ぼやく。

 ついつい、先輩を追って外に駆け出した訳だが、

 僕は魔王である。名前はまだないし、もうつけてももらえないだろう。

 そう言えば『あなたは僕の性別をきっと知らない』だなんて、随分といじわるをしてしまった気がする。

 しょうがない。

 フラれた相手に、すぐ優しくしてあげられるほど、僕も人間はできていないのだ。

 一仕事が終わった、というのは、こんな感覚なのだろうか。よくわからないままに高揚していた感情が引いていき、ゆるゆると全身から力が抜けていく。

 力が抜けるに任せて、なんとなく、地面にべたりと座り込み、空を見上げた。

「最後の夜くらい晴れてくれてもいいだろうに」

 どうしたものだろうか。

 面白くもない曇天を眺めながら、大の字に寝そべる。


 うとうととまどろみかける。

 何をしてもいい、そうなるとなにも思いつかないものだ。

 そういえば、熟睡する、という行為もほとんどしたことが無かった。


 ゆっくりと、目を閉じる。


***


 夕焼けの町を見下ろす、山の広場の上に僕はいた。

 ただ、整備はあまりされていない。山のふもとにも人工池は存在しない。

 代わりに、随分と田畑が多いように見える。

 直感的に理解できた。

 なるほど、昔の町のここからの風景は、こんな感じだったのか。

 まだ整備もろくにされていない、公園というよりは野原と言った方が良いような広場の隅、真っ青なベンチに一人の老爺がいた。

「全く。ついにはこんなところに来やがったか」

「あなたは?」

「お前が住んでる部屋の主だよ。ったく、俺が入院している間に勝手に居座りやがって。わかんねえのか? 様子見に行くたびに俺のツラ引っ叩きやがって」

 そう、それは僕に付きまとっていた老爺の霊、そのものだった。

 驚愕する僕を苦笑しながら老爺は眺める。まあ、座れよ、とベンチの隣をとんとんと叩く。僕は促されるまま、腰かけた。

「まったく家賃も払わねえで他人の家に住み着いて」

 内容は苦言だが、酷く楽し気で落ち着いた老爺の口調にそれが単なる軽口だと理解する。

「ガスや電気水道も引き落としにしておいてよね。おかげで酷く苦労したじゃないか。田舎の割にプロパン馬鹿高いんだよ、この町」

 だからだろうか、不思議と僕もそんな軽口を叩いていた。この感覚は、クロさんに抱いたそれに近い。

「雪国ならこんなもんだ馬鹿野郎。コーヒーメーカーも勝手に使ってただろう? 俺の数少ない趣味なんだぞ」

 くくく、と喉の奥で老爺は笑っている。どこか悪戯な少年のような瞳が、夕焼けに輝いていた。

「綺麗だろ? 俺が生涯でただ一度、美しいと思った瞬間の町だ」

 町を眺めながめる老爺からは笑顔が消える。

「俺は、この町が大嫌いだった。いつか、ここを出ていくんだって。それを心の中で誓った日の夕陽だ。この街を別に捨ててもいいんだと、そう思った瞬間、ようやっとこの夕焼けが美しいと思えた。ま、なんだかんだやっているうちに、随分と歳を取って、気付いたら病院からすら出られない身だ」

 老爺はそこまで語って、過去に想いを馳せているのか、少しの間、黙り込む。言葉の端々や、表情から読み取れるそれは望郷とか、郷愁とは少しだけ違う。たぶん、それは昔日のやるせなさや怒りの感情を反芻して、けれども嘔吐することは出来ず、また腹に戻す。そんな様子に思えた。

 ひときりの沈黙の後、老爺は静かにこちらを向く。

「で、どうするんだ? 全くこんなところにまで迷い込みやがって」

「どうするって?」

「お前自身だよ。お前は本来、巨大な杯だった。なみなみと不思議な力が注がれた杯だった。だが、あまりにその存在があやふやだった。そして、その巨大な杯から祝い酒はこぼれ続け、一年が経った。そして、とどめにあのお嬢ちゃんに捨てられたお前さんは最早、自分の存在を維持できない。明日の朝を迎えることなく、消えるだろう。ここにいるのもちょっとした奇跡みたいなもんだ。そうだろう?」

 僕は思わずため息を漏らした。そんなことを言われても。

 最早、僕の存在の意味は亡くなってしまった。

「最初に言っておくぞ? 俺のおすすめは、今すぐ、こんな夢から目覚めて、あのお嬢ちゃんを追いかけて、土下座してでも縋りついて、関係をやり直すことだ」

「だって、もう逃げられてしまったしねえ?」

「自分でもわかってるだろう? それでもお前は愛されていることを。まだ、有用性を持つだろう? まだお前は自分自身の存在を使い潰せるはずだ」

 僕はつい先ほど、決断を迫った。そして、明確に別れを告げられた。

 もちろん、心の奥底には、きっと心のどこかには僕への愛情を隠し持っていてくれるのではないか、という甘い期待はある。けれど、そこに縋りついて、関係性を維持するにはあまりに状況がこじれてしまったし、時間がない。

 それに、僕を捨てないでくれ、なんて懇願するのは。

「あまりにも気持ち悪いじゃないか」

 僕と一緒にいるか、どうするか、というのは彼女が決めることだし、彼女の権利だ。それをどうのこうのいうなんて。

「お前は本当にダメ人間の神だよな。

 良いだけ自分たちで語り合ってたじゃねえか。まだ、気付かねえのか? 愛ってのは、どうしたって気持ち悪いんだよ。基本的に愛ってのは、自己愛しかない。他の愛は、たとえ、どのような種類であっても全て自己愛の変化形でしかないからだ。たとえ、自己犠牲を伴う愛であったとしても、そこには自己犠牲を払ってでも愛したいという我欲が存在する。だから、人間は神という存在を発明して、神の愛なんていう信仰を発明したんだ。愛が本質的に醜いものであるという真実を覆い隠すために」

「それはもういいよ。聞き飽きた」

 自分でも随分と寂しげな声だな、と思う。

 結局、僕は先輩を勝手に愛していただけなのだろう。

 でも、しょうがないじゃないか。僕はそういう存在なのだから。

「お前が何者であったとしても。お前が、あのお嬢ちゃんの願いをかなえる存在であったとしても。性別がなくても。さらに言えば、お前の存在がお嬢ちゃんによって左右される存在であったとしても。その瞬間、お嬢ちゃんをどう愛したいのかはお前が決められたはずだ。

 気持ちはわかるがな。プレゼントって難しいんだ。うっかり外すくらいなら、一緒に買いに行くのもいい。本人に聞いたって良い。けれど『なんでもいいよ』なんて答えられたら、あるいは答えが返ってこなかったら、結局、こっちが中身を決めるしかねえんだ。それでも贈りたいのだから、贈らないという選択肢はないんだ」

 そう語る老爺はいつものような顔で僕を見ていた。そして、ようやく僕は気付く。この人は僕をいつも心配してくれていたのだ。僕の身を案じて、あんな苦い顔をしていたのだ。

「経験談を一つ話してやる。

 この夕焼けを一緒に見た女がいたんだ。こんな町から出ていこうと、語ったんだ。捨てると決めた瞬間、酷く綺麗に見えた」

 夕焼けに染まり、燃えるように赤い町並みを見下ろす。

「それで、どうしたの?」

「町からは出ていけなかったし、女は別の男と結婚したさ」

 何も言えない。

 この老爺は、だから、僕を見つめてくれていたのだろうか。

 僕の姿に昔日の自分を重ねて見守っていてくれたのだろうか。

 燃え落ちそうな夕焼けを眺めながら、僕らは無言の時間を過ごす。

 漏れだして、固まりかけた溶岩のような粘性の感情が満ちている。まだ熱を持ちながらも、既に表面は冷めきっているような黒に染まっている。そのくせ、独特の腐臭を放ちながら、不快な熱を放つ。

 なんてくだらない世界にしてしまったのだろう。

 なんてくだらない生涯にしてしまったのだろう。

 僕は、これ以上、どうすればよかったのだろう。


 そう考えていた時だ。

 かみしめるような声で老爺が呟いたのだ。

「あのお嬢ちゃんの婆さんだ」


 その瞬間、だった。

 どくんと心臓が高鳴り、全身の血が巡るのを感じた。

 あまりに気持ちの悪い老爺の愛に、全身が総毛立つのを感じる。

 老爺に感じていた、全ての好意が反転していくのを感じる。

 そして、僕は本能で理解した。

 ああ、そうか。

 そうか、そうか、そうだったのか!!

「気持ち悪いロリコンクソジジイめ!」

 罵倒しながらも、僕は存在して初めて、腹の底から大笑いをした。それは、あまりにも鈍感な自分と、あまりにも情けないジジイへの嘲笑だった。

 あまりにも、あまりにもな勘違いだった!

 てっきり、僕は先輩の為に、居るのだと思った。

 てっきり、僕は先輩が望んでくれたから、この世界に生まれたのだと思った。

 なんのことはない。

 つまり、僕は、この惨めな老人の為に、降り立ったのか。

 めんどうくせえことをしやがって!

 爺さんは一瞬だけ、しまったという顔をした後に、どこか茶目っ気のある苦笑を漏らした。

「そう言うな。気持ち悪いのは承知の上さ。だから、自分じゃない誰かに託したいんだろう?」

 それに、面影はあるが、あの子はアイツじゃないからねえ。

 そんな当たり前のことをどこか残念そうに、爺さんは凄く愛おしそうに呟いた。

「勝手に託すな! 面倒くさい!」

「俺も、本当にそう思う。教師ってやつと一緒だな。出来る奴はやる、出来ないやつが教える。自分には出来ないことが降り積もって、それでもやりたかったことが、手のひらの中からあふれ出して。そうして、託すしかなくなる。嫌だねえ、老いるってのは」

 まるで他人事のように、楽し気に爺さんは語る。

「お前さえ、俺の目の前に現れなけりゃ、俺は躊躇いなく逝くことが出来たんだ。家族なんてもういない。一人で、逝く奴にも割と優しい時代だ。財産の処分なんかもほとんど済ませてた。本当に、希望というのは苦痛の裏返しだ」

 一瞬、言葉が詰まる。

 愛憎入り混じる想いを抱えていたのはお互い様か。

 それでも。

「何が『決められたはずだ』だ。『腹は決まったか?』じゃねえよ、全く」

 全部全部、丸投げしやがって!

 歪んでいるとは、思っていたのだ。

 一体、僕は何故、先輩の前に現れたのか。

 人生が詰みかけてる少女は、何故、僕に何も願わないのか。

 先輩にとって何が幸せか分からなかった、この爺と。

 自身にとって何が幸せか分からなかった、先輩によって。

 つまり、僕はこの爺の願いによって、代役として彼女を愛することを課された。

 結果、願いをかなえる事が仕事の僕が、願いを探すという素っ頓狂な目に合わされたのだ。

「さあ、とっとと願ってくれ! まったく、どいつもこいつも長々と待たせやがって。もういいよ。やるべきことをやって、僕は消える」

 言い捨てて、僕は広場の柵の上に立つ。

 この身は流星である以上、墜ちる必要があるのだ。

 山上の広場の囲いではあるが、なだらかな山だ。柵の高さも含んで、せいぜい崖は数メートル程度だろうか。ちょっと高さが足りない気がするが、飛び降りる、という行為さえ成立すれば良い。

 せいせいする。

 下らない世界にお別れを。

「そういうな。

 最初は、俺だってこいつら何やってるんだとは思ったんだよ。

 何が欲しいかわからない、なんて。そんなこと、うだうだやってねえで大金でも用意してやりゃあ良いじゃないかと思ったんだけどな。十分な金さえあれば、たいていの困難はなんとかなるなんてな。恋人も、友人も、ある程度のしっかりした生活があれば、あとからいくらでもついてくる。

 なんなら、最初からあの嬢ちゃんに大金を、という願いをかければよかったとすら思った。

 けどなあ、お前らがちぐはぐな生活を送っているのを見ているうちに情が移った。

 そりゃそうだ。てめえの孫みたいな存在と、かつて愛した女の孫との生活だぞ?

 一秒でも長く、見つめていたかったんだよ。

 けど、もう限界だ。なんならお前より致命的な状況だ。

 病院にある俺の体が、今にも息絶えそうになっている」

 だから、そうだなあ。

 その声が、妙に優しくて、僕は妙な不安を抱く。

「お前の好きにしろ」


 は?


 振り返る。

 ベンチにはもう誰もいない。


***


 目を覚ました。

 呆然としながら、立ち上がる。

 遅れてきた激情に近くのコンクリート塀を思い切りぶん殴った。腕の骨が折れた気がする。

 許しがたい。

 目の前に老爺がいたら、間違いなく、殺していた。

 いや、おそらくは、たった今、死にやがったのか。

 どうして、人間はこうなのだ。

 よりによって、今日この日に。

 愛しているといえば、愛の結果であれば、勝手に産み、勝手に存在させ、勝手に苦痛を与えることが許されると思っているのか。

 自分で、その口で、愛は醜いと語った直後に?

「そうだよねえ。僕なんかを呼び出すクズだもの。そのくらい自分勝手に決まってるよね」

 口にする。少しだけ、気持ちが軽くなる。

 けれど、溢れる感情は抑えきれず、頭蓋をそのまま壁に打ち付けた。ごりっと嫌な音が聞こえ、頭皮が削れた感触がある。もしかしたら、頭蓋もいくらか削れたかもしれない。

 くそが。

 世界、全ての親を殺せ。

 やつらの一時の快楽の為に、生まれ来るのは無数の苦痛なのだ。

 世界、人類全てを去勢せよ。

 これ以上の不幸を生まぬために。

 反出生主義だけが、この世最後の真なる善だ。

 一夜の快楽、肉欲の群れ。

 全ての親に慰み者にされる、生産される生命に憐れみを。

 自らを呪い、自らを存在させたなにがしかを呪い、自らが属する人類を呪え。

 頭を数度、激情のまま打ち付ける。

「あああ……!」

 絞り出すような声が喉から漏れた。

 自分が何をしたいのか分からない。

 自分が何をしているのか分からない。

 泣いているのだろうか、血を流しているのだろうか。

 どちらでも変わらないか。

 不意に、意識が遠ざかる。ふらついて、地面にへたりこんだ。

 終わりの時が近い。

 何も、なせずに消えるのか。

 僕は、誰の想いも叶えることなく、誰の傷になることもなく、ただただ苦しい思いだけをして、消えていくのか。

 僕は、先輩に好きだよ、の一言すら告げられずに消えていくのか。

 上半身を起こしているのも辛くなり重力に任せるまま、倒れこむ。


 かちゃん、と音がした。


 ポケットから転げ出た小瓶が割れて、虹色の液体が地面に広がっていた。

『あなたにあげる』

 マヤさんからそう伝えられていたことを思い出す。

 よろよろと這いつくばり、液体を舐め啜った。

 砂利と共に口に含んだそれは、少しだけ粘性を持ち、少しだけ苦かった。どこかの誰かの命が、喉を滑り抜けていき、体にわずかな活力を与える。

 ほうっと、ため息が口から洩れる。

 わずかに出来た体力の余裕で、ほんの少し我に返れば、自分のあまりの無様さにふつふつ、と笑いが湧き上がってくる。

「あはははは!」

 声を出して笑った。

 そうだった。

 たかだか失恋でここまで追い込まれていると、笑うしかない。

 ああ、失恋だ。認めよう。大失恋だ。

 僕はついに、恋をした。

 いや、違う。最初から恋をしていた。

 彼女に捨てられて、彼女を失って、彼女を傷つけて、彼女と一緒にいる理由を失って、それでもなお。

「ああ、なんて素晴らしい恋だ!!」

 結局、僕は自信がなかっただけなのだ。

 僕は、僕の想いと心中する覚悟が足りなかっただけなのだ!

 なるほど、これが失ってはじめてわかる恋という奴なのか!

 でも、それでも。だ。

 始まりもしない恋を失恋した僕は。

 彼女の一番にはなれなかった僕は、それでも彼女の何かになれるかもしれない。

 だって、それでもまだ、僕はあの人が好きで、僕は生きているのだから。

 このままでは、きっと僕の決して美味しくない紅茶の味を先輩はすぐに忘れてしまうだろう。

 けれど、彼女の隣に僕がいた、一年の記憶が、良きものとなるように。

 いつか、彼女が今日という日を思い出してくれるように――。


 いや、違う。

 心臓の奥、ゆっくりと確かな熱量が膨らんでいく。


 先輩と僕の贖罪を結納金に、彼女を真っ直ぐ愛しに行く。

 全てを取りに行く。

 何もかもを取りに行く。

 僕は恋をしたのだ。望んだものはここにある。

 ならば、勝ちに行かなければ。

 そうだ、僕に足りなかったのはこれなのだ。

 くそったれな僕の主から、僕はとんでもない許しを得た。

『好きにしろ』

 ああ、好きにするとも。

 僕は、永遠に彼女の隣にいる僕を彼女へ捧げよう。

 ちょっとだけ迷惑かもしれないけれど。

 怖くても、送らずにはいられない贈り物だ。


 これは逃走だろうか?

 現実逃避だろうか?

 気持ち悪い、独り善がりな愛だろうか?

 わからない。

 それでも。

 間違いなく、恋だ。

 腹は決まった。

 僕は僕の願いをかなえよう。

 先輩の明日が、ほんの少しでも生きやすくなるように。


 としての役割を今、果たそう。


    ***


 世界にいる我が友人よ。

 孤独のみを頼りに、つながった我が信奉者たちよ。

 どうか、命を。

 今こそ、我らが命を燃やし尽くそうではないか。

 今宵、我らの歓喜の歌を。


 愛する人はいるだろうか?

 親友、恋人、家族。

 愛が冷めてしまったもの。

 愛が伝わらなかったもの。

 愛する者を見つけられなかったもの。

 今こそ、反逆の声を上げよ。


 熱意を持って取り組むことができることは?

 打ちのめされたもの。

 馬鹿にされたもの。

 奪われたもの。

 所詮すべては無に還る。

 もう良いではないか。そんなことは。


 我々はこの世界の弾きものだ。

 何を言われようと、知ったことか。

 愛と情熱とを高らかに歌ったのは彼らなのだ。

 つまり、愛も友情も情熱もなき、我々の生を無価値という価値観を作り出したのは他ならぬ彼らなのだ。 

 生命を讃えるために、どこかの誰かを傷つけ続けた奴らにそのツケを払わせよう。

 今宵、価値観は反転する。


 ただひたすらに甘き死を。

 痛みも、苦しみも、恐怖もない、純粋死。

 明日なんて来なければ良いのにと思い、眠りにつく。

 なのに、望まぬ朝は来て、ただただ生を繰り返し、鈍い苦痛だけが残る。

 そんなつまらない繰り返しを終わらせる、主観世界の永遠の夜。


 体が病むもの。連れて行こう。

 心が病むもの。連れて行こう。

 理由なき者。連れて行こう。

 すべて、すべて、死を望むものを連れて行こう。


 空っぽだったはずの樽に生命が満ちていくのを感じる。

 たった一人分の命を呼び水として、終わりを望む命が溢れんばかりに注がれていく。


 さあ、死にたがりの夜を始めよう。

 僕の恋の為に、万民よ、死んでくれ。


    ***


 命は燃焼する。

 万人に与えられた、唯一にして、絶対の領土。

 その五体と思考。

 すなわち命の全て。

 それが力を持たないわけがない。

 その命を無為に生きることに対する罵倒。

 つまりは、生きることには意味があるという主張。

 どこかの誰かに作り上げられた自分の命の重さに押しつぶされそうになる。

 生きることが、こんなに大変ならば、生まれたくなかったのに。 


 ――ああ、星に願えば、願いは適わないだろうか。


 そんな願いが産んだ、何も成せぬものたちの友人。

 何も出来なかった一日の終わりの、赤錆色の夕焼け。

 愚者たちの魔王。


 当たり前のことすら出来ない人間はどこにでもいる。

 その中でも、与えられた命を精一杯生きるということすら当たり前に出来ぬ大馬鹿者たち。そんな人々の前に、望んだ形で現れる人間の形をした地獄――魔王。

『天駆(テング)』

 流星のようなその性質から、その名を与えられた。

 この魔王は世界中、自身の行為に賛同するものたちから、命を吸い上げる。

 自殺願望を叶えることを代替に、その命を燃やし尽くす生命の代行者。

 だが、怖れられる理由はそこにはない。

 この魔王が不定期的に発生した挙句、おおよそ愉快犯的に影響を抑制・コントロールが難しいほどの大事件を起こす魔王であるという部分である――平易な言葉で言い換えるのであれば、無気力、怠惰、そんな忌むべき感情から生まれ、その生まれ故にクソみたいな人間に肩入れし、その結果として命をかけてロクでもない願い事を叶えてしまう、燃える流星。

 彼を蔑む名は幾らでも出てこよう。彼は努力の否定者であり、ダメ人間だけに訪れる望外の幸運の使者だ。

 けれど、その一方、彼の恩恵にあずかる者たちは天駆、などと硬い名では呼ばない。

 気合仕掛けの神様、ミスターファーレンハイト。

 それが彼の名だった。 


***


 僕は自死を望む幾千の命を世界中より吸い上げながら、あの学校の屋上へと向かっていた。

 校舎を駆け抜ける。

 途中、なんどか咳き込んで、血の味のする何かを吐いた。

 いかんせん、消耗が激しかったし、本来の僕の在り方とはだいぶ違っている。


 僕は老爺の願いを叶える存在だった。

 老爺は先輩の願いを叶えることを願った。

 その先輩は僕に何も願わなかった。願えなかった。

 老爺はその次に、僕に『好きにしろ』と願った。

 だから、僕は僕の考え得る範囲で、先輩の願いを叶える。

 なんて面倒くさい。

 本当に、サプライズプレゼントは悪い文化だ。欲しいものは欲しいと伝えて欲しい。

 僕に、何も望んでいない可能性も、ある。けど、そんなものは考えても仕方ないじゃないか。

 独善でも、みっともなくてもいい。

 拒否されたら、その時は、その時だ。


 学校では碌に友人も作れず、いじめられてるとまではいかないものの、不登校一歩手前の存在。生活力なんて皆無なのに、一人で生きていく術なんて何一つ持たないのに、両親とも上手く行かなかった先輩。

 お前たちは知らないのだ。

 彼女がいかに魅力的であるかを。

 さあ、セカイ系魔王が来たぞ。

 恐れおののくと良い。

 ただただ不運に蹂躙されろ。

 先輩の為に数少ない理解者となれそうな、千秋ちゃんを救う。

 千秋ちゃんには本当に申し訳ないけれど、この町を救う役目からは降りてもらう。

 この街には今、くすぶっているヒーローが二人もいるのだ。

 必要なのは悪役。

 ありとあらゆる罪ごと、この町をぶち壊す。 

「まずは一つ目だ」

 屋上に向かう、扉の前に立つ。

 まずは、千秋ちゃんのいる場所に向かわなければ。

 けど、僕はその場所を知らなかった。

 だから、裏道を使う。

 怪異は屋上から来る。怪異は鏡から来る。怪異はトイレから来る。

 では、魔王はどこから来るか?

 魔王は地獄から来る。魔王は天から来る。

 屋上の扉を開く。開かない訳がない。これは境界を超える異界への門なのだ。僕は来た場所に帰る――いや、違う。僕の在る場所こそ地獄なのだ。ヒロが作り出した破裂しそうなほどの人間の残滓。同窓会という言葉に惹かれた妄念。作り上げられた悪意の塊。

「ありがとう。ヒロ」

 魔王がいる、地獄がある、門がある。だから、これは地獄の門である。

 門を開く。

 背中の地獄が爆ぜて、暴風となり、僕を門の奥へと吹き飛ばした。

 地獄へと駆け上り、天へと墜ちていく。

 まずは一度、地獄に墜ちる。地獄より這い出でる為に。

 大切な思いも、大事なことも、何もかも消し去ってしまうような悪意の群れにもみくちゃにされていく。

 すべて願いを叶える為に、生まれ変わる。

「やだな」

 何に対する言葉なのかは自分自身も分からない。

 悪意の暴風に意識が刈り取られる。


   ***


 赤黒い不気味な夕焼けは去り、綺麗な三日月が旧校舎を照らす。

 春の風が吹き抜けていく。

 されど、いまだ遠雷は止まず、風には雨の匂いが混じる。


   ***


 気付くと、石窟を歩いていた。

 どのくらい歩いたのかは定かではない。

 数十キロか数百キロか。

 数日か数年か。

 疲れ果てている訳ではないし、飽きているわけでもない。

 理由はないのだけれど、なんだか随分と歩いた気がした。

 けれど、たぶん、せいぜい数十メートルで、数十秒なんだろう。

 妙にふわふわとした眠りに落ちる直前のような、寝覚めのような夢うつつの頭で歩き続ける。

「噓でしょう? この短期間で……」

 その一言でわずかに覚醒する。

「ああ、そうか、そうだったね」

 祭壇を挟んだ向こうに、少女がいた。少女をかばうかのように、物々しい得物を持った何人かの人間がいる。

 笑いそうになる。今から殺される人間を、殺す人間が庇うのか。

 そう。

 ふと、気付くとそこはがらんどうの空間だった。地下なのか、洞穴なのか。むき出しの岩肌が広がる空間が、いくつかのかがり火に照らされている。

 周囲を見渡す。背後にはかがり火程度ではとても照らしきれない深い深い大穴が口を開けている。

 今まで来た道はどこに沈んだのか。思いかけて、今度は自分自身に笑いそうになる。そうだった。地獄から来たのだった。この穴の底から。

「いったい、どんな博打なんですか!?」

 博打?

 ああ、そうか。そうだった。

 やはり無茶はすべきではない。酷く大切なことすら、忘れかけている。

「そう、君が聖人ではないことに賭けた。そうだった」

 分の悪い賭けの真っ最中だった。とりあえず、一つは勝った。

 あとは、二つか。

 はははと、笑い、首を少しだけ横に振る。

 それだけで、何が悪い。

「ごめんね。打算まみれの僕の恋が故、生きて欲しい。君の一番大切にした生き方を奪う代わりに、二番目の願いを叶えよう。せっかくだ、せいぜい、ヒロインを気取るといいよ、お姫様。きっとすぐに君のヒーローが駆けつけるさ。それはたぶん、素敵なことだから」

「やめなさい!」

 静止は僕にかけられたものではなかった。

 それに間に合わない。

 無数の得物のうち、妙に装飾過多な杖に突かれる。

 あばらが折れる音がした。

 ああ、ありがたい。自ら飛ぶ恐怖を奪ってくれるとは。

 来た場所に、地獄の底へと落とされる。

「どうして!?」

 万感の想いを込めた少女の悲鳴のような問いにかすかな罪悪感を覚えた。

 だから、ほんの少しのサービスとして応えることにする。

「願いの為に燃え尽きることこそ、流星の本懐だからさ」


***


 人間はしょうもない生き物だ。

 罪と罰はセットでなければ納得がいかないのだ。

 それは人が正しく生きるために、正しく在れない弱き人間たちの寄る辺でもある。

 地獄の正体。

 それは罪人へ嫉妬。

 罪あるものの勝ち逃げなど許さないという執念。

 犯罪者に対する許せぬ怒り。

 死ねば消えるだけのこの世界で、地獄に落ちる者など存在しない。

 生きる者の為にだけ、地獄は存在する。


 地獄を食らう。

 正しく在れない者たちの妄念を。

 正しく在るための恐怖を。

 それら全てを、喰らい、飲み干す。

 その為に、ここに来た。

 鎮めるのではなく、飲み干して、腹に収めるのだ。

 それは魔王にしかできない清算だ。

 そして、飲み干したはずの感情が本来の形で荒れ狂う。

 成せなかった、成したかった罪を成さんと。


 殺す、殺す、殺す。


 嬉々として、死んでいく。

 世界中から優しき死を望むものが、僕の背を押して眠りにつく。

 危機にして、死んでいく。

 目前の名誉ある死を望むものが、僕の目前で散っていく。

 みんな死にたいのだ。

 辛いから、怖いから、苦しいから、悲しいから死にたいのだ。

 正義の為に、愛の為に、自由の為に、友情の為に死にたいのだ。

 みんなみんな、死ぬ理由を求めているのだ。

 先に死ぬ奴はずるいから、死んじゃだめだし、殺しちゃだめってことにしたのだ。

 だから、僕が殺す。

 皆の願いを叶えるために。


 殺す、殺す、殺す。

 

 木を隠すなら森の中。

 死を隠すなら、罪を隠すなら、戦場の中。

 これが魔王なりの贖罪だ。


 そして、やがて僕の願いが来る。

「ったく。いくつ、ルール違反する気だよ」

「しくじるんじゃねえぞ」

 気付かぬうちに僕がズタボロにした二人のヒーローは、それでも笑いながら、力強く僕を殺しに来る。

 僕は全力をもって、彼らを殺しにかかり、そして彼らに討たれる。


 これで二つ目。

 最後の思いは感謝。

 ありがとう。

 死ななければ、蘇れないのだから。

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