10 四月三日二十三時五十九分から三十分程度。

 夜。

「さて、答え合わせをしよう。先輩。わかりきっていた答え合わせを」

 僕は感情を殺す。


 僕は何もなさぬものの友人。

 無能な者たちのカンビュセスの籤、無尽講そのもの、純粋なる幸運、努力の否定者。

 インスタントな感動の商人、十把一絡げの命をまとめるもの、生命の代行者。

 人生の脱出口、最終電車、やがて行き着く場所。

 世界の裏の不幸、行間の死、見て見ぬふりの権化。

 僕は、僕こそは、生きる都市伝説。月曜日よりの使者、夕錆色の魔王。

 ただの人間として生まれた、“気合”仕掛けの神。


 あなたが僕を望んだ。望んだから僕が生まれた。

 けれど、あなたは望み切れなかった。

 友人がほしいのか、恋人がほしいのか、父が欲しいのか、母が欲しいのか。

 自分を許容してくれる存在がほしいのか、自分を高めてくれる存在が欲しいのか。自分を守ってくれる存在がほしいのか、自分を裁いてくれる存在が欲しいのか。

 それは、葛藤。

 例えば、あなたには本当に好きな人がいた。心の底から好きな人がいた。けれど、それはまだ存在していなかった。まあ、平たく言えば君は恋に恋していたのだ。だから、本当に好きになる人なんて出てきてほしくはない。けれど、恋愛の練習をさせてくれる相手はほしい。いやでも、それは本当に恋愛なのだろうか? それなら、例えば自分を応援してくれる友人が欲しい。

 決まらない。

 例えば、理由なく大嫌いだった両親の死。それを心から晴れやかな気持ちで迎えたあなたは一人きりになって、ようやっと一人ではどうやら生きて行けそうにないことに初めて気付いた。両親は要らない。けれど、自分の庇護者は欲しい。それもなるべく面倒くさくないやつを。けれど、両親ではない庇護者とはどんな姿をしているのか。思えば、両親も、先生も、いわゆる君を守る存在全てを君は嫌っていたのではないか?

 わからない。

 そんな、葛藤。

 さらには、幸運を望んでおきながらも、その幸運を手にすることへのためらいもあった。

 このつまらない世界と自分をぐちゃぐちゃにぶち壊して、新しい世界に連れて行って欲しいという想いがあった。恋愛でもいい、事件でもいい、何かもっと楽しいことを。これじゃないもっと良いものを。そんなことを願っていたにも関わらず、努力の果てになにがしかを勝ち得たかったのだ。

 だって、苦しかったんだから。

 ここまで積み上げてきたものの上に、立つ自分。そんな自分が願ってきたものを、叶えたいという想いがある。こう表現するとなんだか酷く尊いことのようだけれど、それはむしろ自身が感じた苦しみや、苛立ちや、怒りが無に還すということへの嫌悪だった。こんなに苦しい思いをして生きてきたのに、そんなに簡単に救われてたまるものかという自身の固執だった。最初から、与えられたものであれば手を伸ばせた。あるいは何かを担保にした博打であれば、ためらわずに手を伸ばせた。

 けれど、そうではなかった。君に舞い降りた幸運はギャンブルの勝利ですらない、ただただありとあらゆる努力を否定する存在だった。君の人生がいかなるものであったかなど関係なく、君に舞い降りた幸運だ。

 そう、心の奥底では望んでいた、全て他者をあざけわらうただのラッキーだ。

 今まで積み上げたもの全てを破壊してしまってほしい。自分も、他者も全て等しく薙ぎ払うただの確率論だ。積み上げたものなんて、無視して降って沸く幸運。全ての努力をあざ笑う悦楽。

 うさぎの前に突然スーパーカーが与えられ、カメをひき殺す。

 キリギリスの前に突然暖かな家と業火の食事が登場し、アリは厳冬で全滅する。

 ただの無能が異世界に転生し、すべての男はひざまずき、すべての女が腰を振る。

 そんなただの幸運。

 だから、何もあなたは望めなかった。

 つまるところ、あなたは、どうすれば自身が満たされるかを、知らなかった。

 既に無上の幸運たる僕を呼び寄せながら、なお、他人の努力をコケにすることを嫌い、それなのにその幸運を手放すこともせず、だから、味わい尽くすこともしない。

 なんてわがままな。

 だが、そう在ろうじゃないか。ほかならぬあなたが望んでくれるのであれば。

 僕の姿もあなたの好みから大外れすることなく、けれどあなたが臆することなく話しかけやすい程度に設定された。

 そう、あなたは僕の性別をきっと知らないよね。

 それはそう。あなたが望まなかったからだ。

 おかげさまで僕は自分の性別すら決められずに今日まで来てしまった。


 決断の時だ。

 曖昧な存在で在り続けた僕は、その曖昧さによって消えようとしている。

 このまま無為に消えるのだけは、僕は耐えられない。

 僕をあなたの何かにして欲しい。

 あなたが望むなら僕はまあ、おおよそ、なんだってできる。そういう風にできている。あなたさえ、望んでくれるなら。

 樽に満ち満ちていたあなたの幸運は、この一年で垂れ流されるように消費され、今にもそこを尽きそうだ。それでも、なお、魔王・魔神という規格外の存在である僕は、その使命を果たす機能は残している。

 あなたが望むのならば、僕は明日も働き、君を生かし続けよう。君の物言わぬ保護者として、君を守護し続けよう。

 あなたが望むならば、僕は明日もあの部屋で先輩の為の紅茶を用意しよう。僕は君の良き、ただの友人として君を慰めよう。

 あなたが望んでくれるならば、僕は僕の想いを成就させ、誰にはばかることなく、君の恋人として、君の隣に立つこととしよう。

 そして、望むのならば、まだ見ぬあなたの想い人との恋を叶えて、僕は消えようじゃないか。


 さあ、どうする?

 あなたが望んでくれたはずの存在の僕は、この一年の結論として、一つの解答を求める。こんな予定じゃなかったかもしれないけれども。

 どうか答えてほしい。

 どうか望んで欲しい。

 僕は何者であれば良い?

 僕の名を呼んで欲しい。

 僕の在り様を定めて欲しい。

 僕は君に何を与えればいい?


 答えはなかった。


 先輩が、踵を返す。

 この部屋を出て行ってしまった。


***


 走る。

 ひたすらに走る。

 どこまでも走る。

 大雨だった。


 足を止めることは、ない。

 しないのか、できないのか、したくないのか。

 とにかく、進み続ける。


 何も言えなかった。

 言いたいことも。

 言わなきゃいけないことも。

 言いたいけど、言ってはならないことも。

 言わなきゃいけないけど、言いたくないことも。

 何も決められなかった。


 言いたかった。

 いろんなことがあった。

 たまには隣で一緒に紅茶を飲んでほしい、とか。

 見た目ばっかりカッコつけて、毎回、味が安定しない紅茶がすっかり癖になってしまった、とか。

 またあのへたくそなクッキーを焼いてほしい、とか。

 たまには私の意見ではなくて、君のしたいことをして欲しい、とか。

 ――――だとか。

 言えなかった。


 だって、私にそんな幸運が訪れるなんて思っていなかった。

 だって、私がこれ以上、生きていけるなんて思えなかった。


 脈拍を全身で感じられるほど、心臓は強く、速く打つ。

 腕の振りは大きく。疲れたと、休もうとする脚をいやでも回す。

 熱が煩わしい。まるで体内の熱量が絡みついてくるようで、脚を取られそうになる。

 前へ前へと、体を倒し続ける。倒れたくなければ脚を前に出すしかない。


 それと同じように。

 走ることができたから、走っているだけだ。

 走りたかったわけではない。

 むしろ、走りたくはなかった。

 どこに向かっているかも定かではなかった。

 いつ終わるのかも定かではなかった。

 だからやめたかった。


 走るのをやめたら、もしかしたら彼が心配して追って来てくれるのではないか。

 それでも走っている。


 思う。


 そうこれは――逃走なのだろう。

 計画された退却でもなく。

 次に繋ぐための撤退でもなく。

 逃げて逃げて、逃げるということからすら逃げる。

 そんな愚鈍なる暴走。


 この上なく、憂鬱になるけれど。

 いつか必要なくなる日まで。

 きっと逃走は続く。

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