9 四月二日十七時五十分程度より同十八時三十分程度まで。

 目を閉じて、僕は闇の中にいた。

 何一つ、光が射すことがない不思議な空間。

 太陽にも、月にも、うたれることのない、その優しき闇はどこにあるのか。

「おい、来たぞ」

 ゆっくりと目を開ける。

 夕方の親水公園。目に痛いほどの西日を背にヒロが立っていた。

「なんだよ、用事って」

 ためらいは、ある。

 たぶん、これはきっと本来、僕の出番ではないのだと、出しゃばりな行為なのだろうと、そう思う。これを口にすることで、ヒロはおそらく傷つくだろうし、彼の運命は変わってしまうだろうという確信がある。

 そして、何よりもはや、先輩にも僕にも直接の関係はないことのはずだった。だから、おそらくは盟約違反である、けれど。

「僕には時間がなさそうだから。君とも決着を付けなくちゃあと思っただけだけよ」

 ヒロは怪訝な顔をする。

「千秋ちゃんの眼球を返してあげて欲しい」

 それでも、僕はこの言葉を口にした。

 これは、たぶん、僕なりのけじめだった。

 彼には迷惑をかけたと思う。先輩のこと以外、あまり気にしないように出来ている僕ですら、若干、申し訳なく思う程度には、なんだかんだ一緒にいてくれたし、僕の事を好きでいてくれた。本当のところはどうか知らないけれど、僕の事を好きでいてくれると錯覚できるような付き合いはしてくれた。

「急な話だな。何を証拠に」

 目が泳いだ。

 ヒロは嘘をつくのが下手だと思う。いい奴にもほどがある。

「証拠はないんだよ。けど、確信だけがある。

 ねえ、ヒロ。君は宝物はどこに置いておく?」

 そう、明確な証拠は何一つない。

 いわゆる状況証拠、という奴だけだ。

「僕はさ、本当に大切なものは決して離さず、持っておくと思うんだ。

 というか、離せないというべきかな。大切なものを手に入れてしまえば、失う不安が常に付きまとう。

 君は、生まれて初めて、トキコさん以外の大切なものを手に入れたんだ。だから、片時も手放すことができなかった」

「何を理由にそんな」

「証拠というより、理由でしかないけれど。気付くのに随分と時間がかかってしまった。この話は君には、したのだったかな?

 僕には暗闇が見えていたんだ。その座標を追っていた。

 その座標のことごとくに、君がいた」

 ヒロは何も言わず、うつむいて、拳を強く握りしめている。

「全部、シンプルな話なんだよ。

 眼球を拾った翌日、僕のところに来たのは、眼球の話をしにきたから。

 その日から数日、例の女子大生の周囲を確認していたのは、事前に何かが起きていることに気付いていたから。

 そして、昨日の廃校舎。あれも、また君の仕掛けだったんだろう。

 君はあれを祓おうとしていたのではないんだね?

 あれは、ほかならぬ、君が創り出した仮想的な地獄だった。花子さんという存在を軸に、学校という空間に紐づいた未練、怨嗟、負の感情を集めて閉じ込めた、小さな地獄だった。

 僕がそれを開放してしまったことだけが誤算だった。

 こんなことができる人間は、ごくわずかだ。

 そして、眼球を必要としているのは、僕が知る限り、君だけだ」

 沈黙するヒロに、僕は何を言えばいいのだろう。

 左目の傷、また新しくなっている、それに触れていいものか。

 だが、その話を避けては進められない。

 つまり、その傷こそがヒロが眼球を手にした理由だったはずだから。

「君は、オカルト世界を視ることの出来る眼球を、欲したんだ。だから、千秋ちゃんの眼球を拾ったんだね?

 左目の傷は、そういうことなんだろう?」

「違う」

「そう、違う。君は、そうしなかった。本当に立派なことだと思う。君は思いとどまってくれたたんだろう? 先輩が傷つくことに君は気付いてくれていた」

「違う。そうじゃないんだ。

そんな、綺麗な話じゃない。入れるのは、どうせなら姉貴の眼が良いと、そう思っただけだ。

 義姉さんと同じ視点を、同じ視野を、同じ視覚を、同じ視座を望んだんだ。

 そんなものはないと、分かっていながら」

 間が開いた。

「他人に、興味を持てとつい最近、聞かされたんだった。ねえ、ヒロ。僕に聞かせてくれないか? どうして、そんなことをしたのかを」

 不思議と沈黙は心地よかった。

 ヒロは沈黙ののちに、きっと何かを話してくれると、そう思えたからだ。

 地平線に夕日はゆっくりと沈みゆく。

 中ほどまで、沈んだ時、ヒロが口を開いた。

「兄貴がいたんだ。俺なんか、比較にならないほど、すごい人だった。俺を育ててくれた人だった。平たく言うと、もともと、うちは祓う家系だった。義姉さんは、視る家系だった」

「うん」

「それが、殺された。義姉さんには聞けなかった。何も言ってくれなかったし、辛そうだったから。俺にできる範囲で分かったのは、白熱と呼ばれる魔術師と、夕錆色の魔王と呼ばれる存在だった。五年かけてそれしか分からなかった」

 ああ。

「眼球を拾ったのは偶然なんだ。嵐の、あの日、たまたま、拾ったんだ。血だまりの中、眼球と目が合った。だから、思わず、拾い上げてしまったんだ。

 その時、視えたんだ。何かが。

 ようやっと、一つ、進めるかもと、そう思った。

 それに、あるいは義姉さんの苦しみをほんの少しでも理解できるかも、と。そう思ってしまった。きっと俺のよりは使える目だと思ったから。

 けど、それをしたら、姉さんを正面から見れなくなると。

 そう思ってしまったんだ」

 ああ、そうか。

「あの廃校は、酷く単純な話だ。

 魔王の召喚の儀式だ。どうかしてたんだよな、俺も。

 あれだって、姉さんにばれてたら、どんな目で見られるかわからないのに」

 いや、とっくにばれてたのかな。なんて、ヒロは力なく笑う。

 そうだろうね、と僕は同意した。

 そう、何も気付けない馬鹿は、君と僕だった。

「夕錆色の魔王。色んな名前があるという。何もなさぬものの友人。努力の否定者。生命の代行者。ハンギングディーヴァ、栄光なきイシュタム――ダメ人間にだけ、微笑む幸運の女神だ」

 ああ。

「俺になら、呼べると思った。何も出来ない、俺になら。何でもできる兄貴を超えるには、何もできないことを活かすしか無いと思ったんだ」

「お兄さんを殺した相手なんだろう? 敵対する可能性もあったんじゃないのか」

「呼ぶことさえすれば、どちらでも良いと思った。幸運の恩恵に預かれるのでも、兄貴を超えるチャンスが与えられるのでも」

 ヒロは泣いていた。

「馬鹿だなあ。ヒーロー。君に呼べるわけないじゃないか。君みたいなヒーローに、ダメ人間の為のどうしようもない神が呼べるわけないじゃないか。それは何も為せぬものの友人だ。理由はどうあれ、地獄を作り上げるような君に、呼べるわけはないんだよ」

「そうだよなあ。馬鹿だな、俺」

 ああ、そうか。この友人は、見えているから、そうだと気付いていないのか。視えないものだけを追い求めたから、目の前の存在が望むものだと気付いていないのか。

「そうだ。そして、僕も馬鹿だった。何も知らないのは、きっと君と僕だけだ。

 僕ら二人が勝手にバカ騒ぎしてたんだ」

 泣いているヒロを見て、僕は小さな覚悟を決める。

「ヒロ。やっぱり、それを千秋ちゃんに返してあげる必要はないや。代わりに」

 交換しよう。

 本当に、愚かだった。

 僕も、ヒロも。

 ヒロは、見えているからこそ、気付けなかったのだ。

 こんなにも明らかな、僕という異邦者に。

 僕は、ヒロが何食わぬ顔で隣でいたからこそ、気付けなかったのだ。

 こんなにも、切実に僕を望んでくれている人が隣にいたことに。

 左目の目頭に人差し指と中指を、目尻に親指を突き入れる。

 お互い、随分と遠回りをしてしまった。

 激痛。

「おい! 馬鹿野郎。なにしてる!」

 ヒロが叫んでいるのが聞こえる。馬鹿だなあ。まだ、気付かないのかい。

 僕は君の近くにいた。

 夕錆色の魔王は君の近くにいたんだよ。

 眼球を取り出すために指に力を入れる。が、痛みに震える指先が思うように動かない。痛い。怖い。まだ、眼球を摘まめるほどにも指は入っていない。

 もっと深く、もっと力強く。

 力を籠め、肉をまさぐる。鋭い痛みが走り、思わず、指を眼窩から抜いてしまいそうになる。

「助けてやる」

 低い声が耳元で聞こえた。

 ああ、僕は甘えてばかりだ。

 指に力が入る。まるで自分の物ではなくなったかのように、眼窩をまさぐる。

 指先に感じる液体は涙か、血液か、添い例外か。筋繊維が、眼神経が、油脂が絡みつく。

 生暖かいピンポン玉を三本の指がしっかりと捉える。視神経だろうか、ぬめる細いビニールひものようなものを引きちぎった。


 恐怖による卒倒や不可思議な力による昏倒は慣れっこだったが、痛みに気絶するというのは、初めてかもしれない。

 どれくらいたっただろう。息も落ち着き、顔を上げる。

「ありがとう」

「礼なんて言うな馬鹿野郎」

 声から察するに、そこにいるのはクロさんだろう。

 余りの痛みゆえだろうか、右目すら、ほとんど見えていない。

 そこにいるであろうヒロへと、震える手を伸ばす。

「ごめんよ。もう少し綺麗に取れれば良かったんだけれど。魔王の瞳だ。どうしたって、他人と同じものは見れないさ。それでも、これさえあれば多少は、彼女の世界と似たものを見れるんじゃないかな」

 ヒロは、僕が何を言っているのか。酷く、理解に時間がかかっているようだった。

「なあ、なんでお前だったんだよ。なあ、なんであいつだったんだよ」

「そればかりは何も言えないや。ごめんよ。さあ、交換しよう」

「君がいてくれたおかげで、僕は彼女を愛せたんだ。

 君たちがいたから、なんとか辛うじて、僕は今日まで自分を保つことができた」

 右目の視界は、もう何も見えないほどに滲んでいた。

「受け取ってやれ。魔王の遺物だ。大したアーティファクトだぞ」

 クロさんの声。手にした眼球が、ぬるりとヒロの手に渡ったのを感じる。

 一仕事終えた気持ちになって、目を閉じる。限界が近かった。

「ヒロ。千秋ちゃんの眼をクロさんに」

 ごそごそと音が聞こえた。たぶん、渡してくれているのだろう。

 三方一両損ではないけれど、僕が仕掛けておきながら誰も得しない取引だなと思う。

 じゃあ、なぜこうしているのか、と聞かれても答えられない。ただの意地だ。千秋ちゃんの眼を返すことなど、深い意味はない。

 ただ、しいて言えば、先輩が助けてといった少女を助けた、という自己満足だろうか。ついでに、マヤさんにも頼まれた。

 願われた以上、叶えられるのであれば叶えるのが僕なのだから。

「なあ、あんた」

 ヒロと、クロさんが何事かを話しているのが聞こえる。

「そうだな。お前の兄貴を殺したのはほかならぬ俺だ。俺も俺で、複雑なんだよ。

 三回も夕錆色の魔神に祝福されてりゃそうなるさ。元は、お前らと変わらない、その辺のやる気ない高校生だった。超絶ダメ人間だったから、三度も夕錆色の魔神に会った。その結果が、これだ」

「どうして護衛なんかやってるんだ」

「胸糞悪い話だぞ?

 あの子に恋をしてもらうために。

 今時の地獄は穢れなき聖人の崇高な死じゃ満足できないのさ」


 もうすっかり日も落ちて、夜だった。

 ヒロも、クロさんも、僕が少しは回復するまで、隣にいてくれた。

 頑張れよ。

 最後までクロさんは不器用だった。

 三熱の騎士が一人、白熱。黒弓の射手。人工汎用炉神『ヒルコ』。

 聞いてて恥ずかしくなるような大仰すぎる異名と、その名に違わぬ強大な力を持つ男。にも拘わらず、生きていくのが下手糞すぎる青年。

 結局、この人を、僕は嫌いになんてなれそうにはなれなかった。

 それじゃあな、俺も行く。悪かった。

 ヒロが背を向けた。

 それにしても、ヒロは最後まで主人公だった。

 繰り返すけれど、本当に僕はヒロに感謝をしている。

 ヒロが主人公だったから、僕は運命に引き寄せられて、先輩の元に降り立つことが出来たのだとすら思う。

 夕錆色の魔王たる、僕は。


 かなり消耗している。

 それでも、まだ、辛うじて、動く気力は残っている。

 さあ、先輩に愛を伝えに行こう。

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