8 四月一日六時より翌二日二時まで。

 朝。

 ここ数日でまた真っ黒な画像データが増えていた。

 手元には三通の宛先のない同窓会への招待状がある。

 どうしたものか。

 コーヒーを飲もうとして、カップを取り落とした。ここ数日、少し無理を重ねすぎているかもしれない。

「どうかしたかい?」

 先輩が、少し大きな声で浴室から声をかけてくれた。

「いえ、手が滑っただけです」

 こぼれたコーヒーをふき取りながら、そう答える。

 久しぶりの二人きり。

 一週間にも満たない間だったが、随分と他人に触れ続けた日々だった。先輩と僕にとっては貴重な日々だったかも知れない。もうすぐ春休みも終わり、この日常も終わる。

 僕にはもう何が正解かわからない。

 だから、何かをしよう。

「負け戦こそ、楽しまなければ」

 三通の同窓会への招待状。

「ま、せっかくのご招待だしね。のっかるとしようか」

 正直、嫌な予感しかしていない。

 けれども、行かなくてはならない理由がいくつかあった。

 昨日、帰宅後にメッセージアプリを通じて、マヤさんから連絡が来ていた。

『ありがとう、ごめんなさい。

 引き続き、千秋ちゃんの眼を探すといいわ。

 もう少しよ。頑張りなさい』

 何も知らぬまま、振り回されている気がする。

「君、大丈夫かい?」

 シャワーから上がってきた先輩が、改めて、訪ねてきた。

「ええ。大丈夫ですよ」

「なら、良いけれど。あまり不安にさせないでおくれよ」

 ところで、それは?

 肩越しに僕の手元を覗き込んでくる。

 ああもう。朝から、朝だからこそリンスの香りに妙に官能的な気持ちにさせられる。

 一度、頭を振って気持ちを切り替える。

「同窓会の招待状ですよ」

 それは名前だけが記載されていて、学校名すら記載されていない。

「トキコさんに問い合わせしてみたんですけど。やっぱり同窓会詐欺ってのはあるらしいです。で、これは詐欺ギリギリのラインらしいですね」

「帳簿屋かい?」

「そうですね、割とグレーらしいです。表向きは同窓会の代行業者で招待状のふりをして、ダイレクトメールを送る。そこに記載している問い合わせの連絡を入れる。問い合わせがあった人たちで同窓生がいた場合、マッチングしてもらえる、と。実際に、同窓会の実施実績があるので、何とも言えないそうですが、主たる収入源はそのダイレクトメールに反応してしまった老人たちの帳簿なんじゃないか、と。『手法としてはかなり古臭い手法。今時、利益が取れているかも怪しい。老人でもスマホを使いこなすウェブ全盛期とは思えないわあ。けれど、だからこそ、時代に取り残されたものはより孤独になる。時代の間隙をついた手法かもお』だそうですよ」

「ふうん。思うのだけれど、連絡も取り合わなくなった友人とわざわざ会わなければならない催しというのも、よくわからないねえ。会いたい相手とは連絡を取っているだろうし。そのせいで詐欺にあうというのもつまらないじゃないか」

 言葉の通り、つまらなそうに招待状を眺める先輩に、僕はスマートフォンを差し出す。そこには一枚の写真が表示されている。

 先輩は怪訝そうな表情をした後、招待状と写真を見比べて、にたにたと笑い始める。

「なるほどねえ。これは?」

「左目で視てみたんですよ。ああ、相変わらず僕は認識できないんで、スマホに写真が届くの待ちだったんですが。期待通りです」

 その写真の中の招待状には明確に、小学校の名前が記載されていた。

 日時も記載されているものの、滅茶苦茶な文字列となっている。

 そして、なによりインパクトがあるのは主催者の名前だった。

『花子』

 そう記載されている。

「君、これはすごいね」

「あと、これはおまけですが」

 イグジフ情報のピンを打った地図を取り出す。改めて、真っ黒な写真のピンを追加しておいたものだ。

「ああ、なるほど。この小学校は、そこなのかい?」

「ええ。そういうことです」

 この田舎町の、さらに外れ。

 ピンが集中している場所に、小学校がある。


 小学校に校舎見学の電話を入れる。

 アポを取るにあたって『通う高校の新校舎と旧校舎の違いから、学校の建築について興味を持って調べている』というでまかせは、去年の夏から利用している。学校の怪談が誰彼のお茶会界隈――つまりは先輩と僕の間で流行ったときに考えたものだった。

 高校生という立場を存分に利用している。通う高校に問い合わせがいくことはあれ、それ以上のお叱りをもらうことはない。

 その時は中学校と高校を対象にしたので、小学校は調べていなかった。

 その場で回答があり『春休みのうちならいつでも大丈夫』との事だった。そのまま、午後からの訪問の約束を取り付ける。

 片道二十キロ弱の道のりは流石に少し遠い。冬の間、眠らせていた自転車を久しぶりに出してくる。もちろん、こぐのは僕で、先輩は後ろだ。

 到着時刻は十三時過ぎ。

 正門は開いている。というより、閉じる為のフェンスがついてない。立地の関係か敷地を囲う塀もない。境界に生垣というには随分まばらに木々が並んでいるだけだ。

 校舎はしんと静まり返っている。駐車場に、車はない。校内が完全に無人であるようにも見える。

 実は先輩も僕も、この訪問が本番だとは考えていない。今、大事なのは今晩、再来訪した時の為、こっそりと忍び込む為に、どこかの窓を一枚開けておくことだった。

 つまりは深夜に不法侵入をいかに上手にするか、という話をしている。

 学校の怪談なんて、いかにも楽し気な話があるのが悪い。オカルト無罪だ。

 まあ、こんなことを繰り返しているうちに、一度、酷い目を見て以来、こういった不法侵入は減らしていたのだけども。

 さて、教員入り口側のインターホンを鳴らすと、一人のジャージ姿の中年の男性が顔を出す。

『春休み中は回り番で、今日は僕しかいないんだよ。好きに見て回っていいよ、何か用事があれば気軽に呼んで。なんせ今カップ麺が出来たところで。いろいろと話をしに後から行くから』そう語った男性は、愛想よく僕らを招き入れて、職員室に引っ込んでいった。随分、気さくなものだと思う。去年、学校巡りをした際には、セキュリティの問題で、ずっと職員や警備員と一緒に回る事が多かった。

 これも地域柄、というものなのだろうか、あっさりと目的としていた窓の鍵は開けることができてしまう。

 そんなところで、改めて中年の教師があらわれて、今度は聞いたことも聞いてないこともあれやこれやと喋り出す。

 そのほとんどが思い出話だった。

 随分と、この学校に勤めて長いらしい。

「色々と覚えていらっしゃるんですね」

「小さい学校だけれど。それでも、たくさんの生徒と、先生を見送ってきた。ほら、初任の先生って僻地に飛ばされること多いから。彼らの分も、出来る限り、僕が覚えておいてあげないと」

 中年の教師は、そうだなあ、と一か所だけ、比較的新しく塗り替えられたであろう壁に触れる。

「二十年くらい前にお調子者でいたずらっ子の生徒がいてね。家が塗装屋さんの子だったんだけど。この壁に大きな悪戯書きをした。それは小学生にしては随分と立派な花火の絵だった。それを教師が見ていない、一時間かそこらで描き上げたんだ。生徒は囃し立てたし、当時の先生たちも感嘆したんだ。こんなに描けるなんて、すごいな、と。生徒は怒られたけど、絵は残すことになった。その子のクラスの卒業写真には、この壁の前で撮った写真もあったはずだ。けれどもね、すぐにペンキがはがれてボロボロになってしまった。そして、四、五年後には綺麗に塗り替えられたんだ。絵が描かれていたことをしらない、最近の生徒たちの噂では、この壁には死体が埋まっているそうだよ」

 教師は笑いながら、壁を撫でる。花丸模様にも見えるその軌道は、きっと彼の記憶の中の花火をなぞっているのだろう。

「学校ってのはね、不思議な空間なんだ。小学校の一クラス当たりの平均人数は、おおよそ二十名と言われてる。全学年でその六倍はいることになる。人生において、こんなに大人数で過ごすことはちょっとないよね。なのに、絶対、人は入れ替わり続ける。単純計算で小学校は一年でその所属の六分の一が変わってしまう。だから、学校は変わり続ける。彼らの想い出はどんどん消えて行ってしまう」

 懐かしむように壁に向かっていた教師は、こちらを向くと、わかりやすく怖い顔を作り、怒っているかのように喋りだす。これは多分、小学校教師としての、彼の癖なのだろう。

「だから、いつでも戻ってきなさい。なんて、卒業式で言う校長がいるけど、あれ、僕はあまり好きじゃないんだよ。残念ながら、学校はそんな優しい場所ではないと思うんだ。初心に立ち返れ、という程度の意味で使っているのかもしれないし、もしかしたら、学校じゃなくて『私のもとに』という意味で言ってるのかもしれないけれど、だとしたら随分と豪気な話だよねえ」

 先々代の校長が、良くそんな話をしてたっけなあ、なんて言いながら、中年の教師はからりと笑った。

「学校はいつか帰る場所にはなれない。してはいけない。宿題が残っていることは、あるかもしれないけれどね、たまーに思い出すくらいで良いんだ」


 教師に話を聞くこと一時間。随分と長居をしてしまったような気がする。

 千秋ちゃんの質問に、表情をくるくると変えながら、身振り手振りを交えつつ、話をする演技派の教師の話に随分と引き込まれていた。マヤさんの話術がマシンガントークでなぎ倒すように面白い話をしつつも、その真髄は会話のキャッチボールのボール回しにあるのだとすると、その対極のような話術。

 一つ一つの言葉を吟味しながら、噛みしめながら話しつつも、基本的にはスピーチのような、聴かせるための語り口。集中力もまだない小学生に授業をする、その技術の片鱗に触れた気がした。

 僕らは教師にお礼を伝え、帰宅する。

 僕の家で今晩のための準備を進める。

 おそらく、あの調子なら進入路の確保は問題なさそうだ。随分といい人だった教師への罪悪感が少し浮かびかけたが、とりあえずオカルトへの好奇心で、沈めておく。

 リュックに最低限の荷物を準備する。光量を絞れるタイプの懐中電灯を二人分、水。軍手。

 ひと段落したところで、夕暮れまで仮眠をとる。

 目覚ましの入浴、ジーンズにパーカーという動きやすい服装。

 昼と違い、自転車の二人乗りで警察に声をかけられるのを嫌う。かといって、歩いては、二時間近くかかってしまう。という訳で、行きはちょっと豪華に比較的目的地に近いコンビニまでタクシーを使う。帰りは時間がかかってしまうが、散歩気分で歩く予定だ。

 田舎の歩道の整備不足は相変わらずで、さらに夜道となれば、街灯も少なく、うっかりと道から外しかねない。小学校への最短距離となる農道には歩道がなかった。少しの相談の結果、車通りも少ないということで、そのまま農道を通ることにする。途中、何者とも、すれ違うことはなかった。

 もともと、少なかった街灯がなくなり、完全に真っ暗な道となる。

 沈みかけの月が夜空にぽっかりと浮かんでいる。

「月末にしては随分と大きい月だねえ」

「まあ、太陽暦使っている訳ですから、そういうこともありますよ」

「別に太陽暦を否定するわけではないんだよ。ただ、太陰太陽暦を知ってしまうと、そちらの方が魅力的だと思ってしまうなあ。太陽の昇り降りで日を定め、月の満ち欠けで月を定める。ロマンの塊じゃないか。夜空を眺めて、日々を暮らすとすれば、太陰太陽暦で暮らしたい」

「なるほど、確かにロマンチックですね。先輩らしいかもしれません。それじゃあ、僕はその隣で流星でも待つとします」

「なあ、君」

 先輩がふと、足を止めた。不安げな声色で僕を呼ぶ。

「なんですか」

「あ、いや」

 先輩がこちらを見ているのが分かる。ただ、真っ暗な中では表情は読み取れなかった。数度、ためらった後、何かを考えるように自身の唇に指を這わせた。

「行こう。後でいいや」

 ふふと寂し気に笑って、先に行く。

 ずるいなあ。


 到着した。

 正面入り口に向かう。開いていた。

 嫌な汗が滲む。

 心霊スポットあるあるだ。

 直前の信号が青であったり、門扉が開かれていたり、普段は通れない道が通れるようになっていたり。

 迎えられているパターンは危ない。

 学校特有の、ガラス扉が何枚も並ぶ。その正面入り口の、真ん中の扉だけが、歓迎します、とばかりに開いている。それにも関わらず、中からは人の気配がしない。

「……やるねえ?」

 先輩が漏らした。

 同感だ。嫌な予感しかしない。気軽に行こう、と決めたことを少し後悔する。

 昼の教師の雰囲気もあって、忘れていた。

 入りにくいところ、拒絶される場所は案外、怖くない。それはオカルトたちの守備的行為であるからだ。じゃあ、怖いのは、どこか?

 歓迎されている場所。

 それは、食虫植物の甘い香り、ネズミ捕りのチーズと同じだ。

 そして、だからこそ。

「それじゃあ、行こうか」

 先輩が止まるわけはない。だって、心霊スポットには怖い思いをしに行くのだから。

 そう思って歩き出した数秒後、僕は今度こそ、盛大に後悔をした。


   ***


 ひどく大きな音が響いた。

 慌てて、振り返る。

 扉が閉まっている。開こうとするが、びくともしない。

 さらに気付く。はぐれている。

 先輩が一瞬で、居なくなっている。

 やらかした。

 悪い予感がしていたからか、恐怖は少ない。

 それ以上に、先輩を見失った焦りがあふれ出す。

 自分の心臓の音が強く響く。

 落ち着け、探さなければ。

 辺りを、見回す。

 絶句した。

 まるで迷路のように、廊下が、階段が、入り組んでいた。廊下は不規則に枝分かれし、窓の外は階段がつながっている。

 迷宮化した学校。出口はどこだ。

 突然に放り出された状況、ヒントがあまりにない。

「くっそ」

 焦る。過去一のヤバさだった。

 とりあえず、歩き出す。足音が反響して、複数名に追われているような感覚すらある。

 一体、どうすればいいのか。どうすれば、先輩のもとに辿りつけるのか。

 時折、子供たちのはしゃぐような声が聞こえる。ぱたぱたと走る音が聞こえる。教師のものと思わしき、怒号が聞こえる。すすり泣きが聞こえる。聞こえるけれど、何もいない。

 教室ごとに見える風景が違う。

 明るい教室、グラウンドには何百もの生徒と保護者達。どういうわけか、そのすべての人々の顔は見えない。期待はしていないが、声を出してみる。気付かれることはない。窓は開かない。

 夕暮れの教室。並んだ机の中で、中央の一つにだけ、原稿用紙がおかれている。反省文と一行目だけ書かれている。何度も書いて、消したのか。原稿の二行目以降は黒ずんでいて、鉛筆の跡が残っているが、内容を読み取ることはできない。ふと、机自体にも何か書かれていることに気づく。原稿用紙をずらす。

『ぼくはやってない』

 背中に悪寒が走り、周囲を見渡した。誰もいない。机に視線を戻した。何も書かれていない。

 朝焼けの教室。並んだ机のほとんどと教壇に一輪ずつ、真っ白な菊が飾られている。全部ではない。卒業と大書された黒板。救急車の音、すすり泣きが聞こえる。

 違和感に気づく。教室ごとに、机も、椅子も、サイズがあまりにバラバラだった。違う、教室自体のサイズ感が変わっている。 

 いったい、なんなのか。

 昼間、教師に言われたことがなんとなく頭をよぎる。

『彼らの想い出はどんどん消えて行ってしまう』

 これは忘れられた記憶たちなのか。無数の生徒と、教師たちの記憶と想い出、想像を繋ぎ合わせて、作られた継ぎ接ぎの学校だ。よく見れば廊下や教室の造形も全てがばらばらだ。

 教室のサイズ感が変わっているのではない、僕の――いや、元となった記憶の持ち主の身長が変わっているのだ。

 音楽室のピアノは無人でありながら音を響かせる。

 ベートーヴェンの目が光っていた。

 理科室の人体模型は僕が目を離すたびに、ポージングを変えていた。

 美術室の模写のモナ・リザ。無数に増え、明らかな嘲笑。嗤っている。

 すすり泣きが聞こえている。

 なんだ、なんなんだ。

 どうすれば、先輩に出会えるんだ。

 すすり泣きが聞こえる。

「ああ、もう」

 僕は、その嗚咽が聞こえる方へと足を進める。

 嫌な予感はしたけれど、仕方ない。もうそれくらいしか手がかりがなかった。

 図書室を抜け、家庭科室を抜け、僕はトイレに辿り着く。女子トイレ。

 その三番目の個室だけが扉が閉まっている。ご丁寧に縄跳びで、扉が固く閉ざされていた。

 意を決して、開くこととする。

 縄跳びを外し、扉を開く。何もいない。

 すすり泣きが、相変わらず聞こえている。

 なんとなく、そんな気はしていた。やらなくちゃダメか。

 たぶん、学校の怪談で日本で一番有名なやつだ。

 ノックは三度。

「花子さん、遊びましょう?」

 何の反応もない。けれど、確信がある。

「開けるよー?」

 中に人がいるであろう女子トイレを開けるのは、オカルトとは違う緊張感がある。そこにはおかっぱ頭、白いブラウスに赤い吊りスカートの可愛い少女が、めそめそと泣いていたのだ。


 さて、発見したのは良いものの、この先を何も考えていなかった。

 というか、状況は何一つ改善していない。

 先輩を探さなければ。

 小学生のサイズに合わされた低い手洗い場でパシャパシャと顔を洗う。

 かすかに意識がすっきりとした。

 やれることなど、大して、ない。

 だから、その大してないことをやることとする。

「花子さん。君はどうしてここにいるんだい?」

「わからない」

 泣きやんだ花子さんは寂し気な顔でうつむいたまま、答える。

「いつから、ここにいるんだい?」

「わからない」

「君はどうしたいんだい?」

「わからない」

 帰ってきた言葉はほぼ予想通りだった。

 で、あれば、やはり出来ることは一つだ。

「ん。じゃあ、一緒に行こうか」

「どこに?」

「知らない。けど、ここにいたって仕方ないじゃないか」

 二人で、校舎を歩いて回る。

 読経、煩悶。恨みつらみの籠る声。

 空襲の犠牲者。

 校庭の落ち武者。

 図書を燃やす二宮尊徳。

 首級を挙げる独眼竜と、首を返して欲しい毬付き少女。

 嘲笑、悲鳴。肉体のひしゃげる音。

 磔刑にされた大人の死体。

 打ち捨てられた子供の死体。

 次々と割れるガラス。

 爆ぜる蛍光灯、襲い来る全裸の巨漢。

 無言、黙殺。破壊されたラジオ。

 首を吊る死体の群れ。

 屋上から降る生体の雨。

 林立する背を向ける人々の群れ。

 全校集会のど真ん中、誰も僕らを見てくれない。

 誹謗、中傷。気軽に奏でられる耳障りな不協和音。

 机に書かれた罵詈雑言。

 黒板に大写しにされる痴態。

 校内放送から繰り返し流れるのは嘲笑と忍び声。

 休み時間の雑多な人込み、顔だけがこちらを向いている。

 どうして。

 どれもこれも、そのほとんどが不快なだけだ。だが、ストレスがひどい。

 わずかに穏やかな空間はあれど、そのほとんどが負の感情を抱かされる空間だった。

 どうして。

 ふと湧き上がる、教員の言葉。

『学校はいつか帰る場所にはなれないんだ』

「なるほどねえ」

 なんとなく、分かった気がした。

「なにか、あったの?」

 花子ちゃんが手を引いて、訪ねてくる。

「いや、なんでもないよ」

 花子ちゃんには言えない。

 きっと素敵な学校の思い出というものは、アルバムにしまっておくものなのだ。開く頻度は個人に差はあれ、開きっぱなしにするものじゃない。

 常々、心のどこかに住み着いている学校に関する記憶なんて、きっと碌なもんじゃない。そう、思う。

「しかし、いい加減に疲れたね。花子ちゃんは大丈夫? ちょっと座ろうか」

 丁度、廊下を抜けて窓に当たる部分から教室のような一室に出た。その一か所に置かれていた椅子に座る。花子ちゃんの為に、隣にもう一脚椅子を置く。

「ん」

 短い返答と共に、膝の上に乗ってくる。かわいい。

 それにしても、どうしたものか。

 教室を眺める。

 この部屋は夕陽が差し込んでいるような風景だった。透けた影のような人型がうごめいている。

 見える影は四名ほど。話し合い――というより、雑談だろうか。時折、その影たちは体を大きく揺すっている。身振り手振りから、きっと笑っているのだろう。ただ、ふとした瞬間にピタリと全員の動きが止まった。

 何か失言でもしたのだろうか。

 一人を三人が黙って見つめている。

 一言、二言。

 三人が教室を出ていく。一人はただただ、佇んでいる。いつまでもそこにいる。

 ああ、そうか。

「……そりゃそうだよなあ」

 これだけで気付いた自分も、なかなかだと思う。それとも、ここまでに沢山見逃してきたのだろうか。

「花子ちゃん、そろそろ行こうか。行く方向が、とりあえず決まったから」

「うん、どっちに行くの?」

「先輩のいる方に」

 そう、簡単な答えだった。様々な校舎がごちゃ混ぜになったこの迷宮に、先輩の高校の内装がちらほら見えている。それを追っていけばいい。 

 やがて、辿りついたのは屋上だった。

 正確には、屋上の一歩手前。鍵のかけられた踊り場。いわゆる階段室だとか、塔屋だとか呼ばれる部分だ。

 ほこりっぽい空気。空気は春を前にして、まだ少し肌寒い。ただ、採光窓は広く作られていて、日光があたる部分だけがぽかぽかと暖かい。

 その陽だまりの中に、ぽつんと置かれている一対の机と椅子。

 日常のドン詰まり。

 そして、そんな空間の主のようにして、その人はいる。

 退屈そうに外を見ながら。

 随分と遠回りをした。

「ああ、今日はそっちから来たのだね」

「待たせましたか?」

「いや、そうでもないよ。ここにいれば、君は来ると思ったからね。まさか、浮気されているとは思わなかったけれど」

「たまには良いでしょう?」

 僕の手を握る花子さんを見ながら、茶化すようにそう言った。僕もその軽口に応じて、笑う。

 ここは一年前に僕らが出会った場所だった。勿論、こんな異界化した場所ではなく、先輩が通っていた高校の話だが。

 花子さんが、こちらを見上げる。

「お兄ちゃんたち、友達?」

「そ、友達」

 パタパタと歩いて、花子さんは先輩の膝の上に乗った。あ、それはずるい。先輩は花子さんの頭をなでなでする。それもずるい。

 先輩を独占する花子さんと、花子さんをあっさり奪っていく先輩。その両者にわずかな嫉妬を覚える。

「で、この子は?」

「トイレの花子さん」

 先輩はわずかに驚いたような顔をする。

「へえ、君があの有名な。なるほど、聞きたいことはたくさんある気がするけれど」

 むぎゅうと、先輩は改めて花子さんを抱きしめる。

「こんなに愛らしいとはなあ」

「苦しいよ。お姉ちゃん」

「ああ、ごめんよ。まさか、憧れの都市伝説がこんなに普通の子だとは思わなかった」

 先輩はてれてれと微笑みながら、花子さんを愛で倒す。

 相変わらず、怖いもの知らずな――あるいは危険に疎い人だと思う。花子さんというのは比較的好意的に語られることも多い都市伝説だけれど、それでも人間を害する話も多い。

 そんな二人の姿を見ながら、僕は試しに屋上へつながる扉を開けようと試みる。

 鍵がかかっているようで、固く閉ざされて、開かない。なんなら、錆や経年劣化のせいで、鍵が開いていたとしても、開けるのに随分と苦労しそうな雰囲気すらある。

 それなら、これでいい。

 そう思いながら、僕は階段に腰をおろす。いわゆるリノリウムという材質で、硬くて、冷たい。

 思い出す。


 あの日は雨の日だった。

『日本では古来から、境界には魔が出る、とされるそうだね。正確には、普段生きている人々の生活圏があって、それ以外の異界がある。

 例えば、道祖神は村の境目におかれ、疫病や魔が入り込まないように監視しているわけだし、逢魔が時は昼という人々の生活の場から夜へ切り替わる境界の名前だ。

 そこには境界というものへの多分の曖昧性がある。

 現代人にとって、境界線という言葉の通り、境界は細い糸のような認識をしている。言い方を変えると、境界は領域を持たない。昔の人にとってはそれが少し違って、境界、という空間が存在したんだ。

 例えるならば赤と青の領域の境界をイメージするとして、現代は赤と青のブロックや幾何学的な模様がぎっしり隙間なく埋められているイメージ。対して昔は赤と青の濃淡で描かれるグラデーションになるんだろう。

 そして、これは時代をさかのぼれば、さかのぼるほど顕著になる。

 例えば授業で習った廃藩置県。明治四年に実施されたそれが、おおよそ現代我々の知る都道府県の形になるのは明治二十一年。もちろん、これは境界を決めるのが主眼だったわけではないけれど、実に十七年間も日本における一番大きな行政区分の境界が変わり続けたわけだ。

 境界というエリアを設けること、すなわち明確な境界線を引かないことは、ある種の無駄な争いを生まない現実的な手法でもあった。現代でも紛争地域や戦争後に緩衝地帯を設けたりするだろう? あれと同種の手法だね。

 もっとも、明確にしなかったからこそ生まれる衝突もある。時に怖い話のネタにされている、火起請(ひぎしょう)や盟神探湯(くかたち)といった日本の神明裁判は、昔は村々の境目に関する紛争や山の所有権の争いの解決方法としても使われていた訳だね。

 今日では境界は一部を除いて明確にされている。それは効率的で、衛生的で、安全性を高めるためにそうされてきたわけだ。例えば、水場やトイレなんかが非常にわかりやすい。それらの場所は現代においては上下水道の発達で、綺麗なものになった。利便性、家、部屋の間取りによってはこれらは家の中心にあることも珍しくない。

 けれども昔は違った。水気はカビや腐食を呼び、家を傷つけるものだった。もちろん、排せつ物による汚染もありえた。だから、かつては家という領域の隅っこに追いやられていた。その結果、水場や、トイレは境界としての性質をもつようになったのだという。

 現在、空間としての境界は減りつつある。境界は空間から、線となった。

 その名残で、今も残っている境界にオカルトはここぞとばかりに集中する。

 例えば、それは坂、橋、水辺といった廃することの出来ない境界、学校やトイレといった、どこか異界性の強い場所。

 そして、私のように子供から大人になる最中の思春期少年少女』

 頬を紅潮させ楽し気に語る初めて出会ったこの人に、僕はすっかりと惚れこんでいた。

 というより、これは運命なのだから仕方ないのだ。

『うわあ、それを自分で言うんですか』

『ああ、言うとも私は中二病だからね』

『高校二年生なのに?』

『そうとも』

 椅子に座っていた先輩は立ち上がって、狭い空間をくるくると歩き回りながら語る。どこか踊りだしそうな軽い足取りだった。この時の僕は当然知らなかったけれど、今思えば、この時の先輩は随分とテンションが高かったのだな、と思う。

 それと、今と違ってオカルトを語るのに躊躇がなかった。このころの先輩は自分自身をオカルトの達人だと思っていた。ダニングクルーガー効果、ネットミームでいうチョットワカルという奴だ。

『オカルトは山から来る。日本には原生林などほとんどないのに、それでも昔から住む存在が山から降りて来る。

 オカルトは水辺から来る。あやかし、という言葉は本来、海の怪異の大半を指したのだという。

 オカルトは鏡から来る。合わせ鏡の怪異や、大鏡に映る幽霊。かつては水鏡の名の通り、広がった水を鏡にしたというのも意味深じゃないか。

 そして、オカルトは』

 屋上から来る。

 僕を見ながら先輩はにたにたと笑う。

 なるほど。

『屋上、もっとも新しき都市伝説が集まる場所。もっとも近い異界であり、空への境界でもある場所。サボり、昼食、告白と、非現実においてはこれでもかと美しく描かれ、オカルトにおいては飛び降り、暴行事件、貯水タンクとこれまたいろいろ有る場所なんだ。それにも関わらず半ば禁足地として扱われる異界。そして、その建築物において、天に一番近い場所という境界性。だから、屋上にはオカルトが出る』

 先輩は僕の手を取った。

 これもまた、先輩にしては随分と距離感が近かったものだと思う。

『ねえ、君は何のためにここに来たんだい? 名前を聞かせておくれよ』

 僕は先輩のそのテンションに触発されて、思い出すと赤面物の解答をしたのだ。

『君が僕を呼んだじゃないか。僕は君の願いを叶えるために来た』

 だから、僕に名前をつけて欲しい。


 ふと、我に返る。

 もしかしたら、わずかに眠ってしまっていたのかもしれない。

 こんなオカルト全開の場所で眠ってしまうあたり、いよいよだなあ、と思う。

 先輩は相変わらず、花子さんを愛でている。床のリノリウムも体温で温まってきて、日差しはぽかぽかと暖かい。

 良くないなあ、この場所は、少し僕らと親和性が高すぎるかもしれない。

 いわゆる、食虫植物の鮮やかな色と華やかな香りみたいなものだ。

 地獄が飲み込みに来ている。

 けれども、それはまだ呑み込めていないということでもあって。

「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ここに一緒にいよ?」

 花子ちゃんが正しくそのものな質問をしてくる。

「お姉ちゃんたちは、行かなきゃいけないから、ダメかなあ。花子ちゃんもまたトイレに閉じ込められたくないでしょ?」

 そして、先輩がお手本のような返事をした。

 花子ちゃんはうつむいて、しょんぼりした後に、うんと、首肯した。

 ききっと甲高い金属音がする。閉まっていたドアが開いた音だった。

「いやあ、ちょっと焦ったよ」

 ほんの少し驚く。

 開かなかったはずの屋上への扉から入ってきた人物は、ちょっと想像とは違った人だった。

 昼間会った、教員だった。

「君たち、想像以上にミイラ取りがミイラになりそうなんだからなあ」

 さ、こっちおいで。教員が視線を下げて、花子ちゃんへ話しかける。花子ちゃんは先輩の膝を離れて、ぱたと駆け寄った。

 ほんの少し寂しそうな笑顔の先輩に、なんとなく手を伸ばした。先輩は手を握ってくれた。

「焦ってたのは僕もです。ここまで来たものの、実はこの後は打つ手なしだったので」

「君たち、雰囲気だけはプロっぽいんだけど、その実、ただの怖いもの知らずかい?」

「ええ、大体そんな感じです」

 行こうか。送るよ。

 そう言って、教員は先導を始める。階段を下りる。一度、振り返ったが、もう夜闇しかそこにはない。

 教員は喋りはじめる。

「永遠の生徒。トイレの花子さん。ある種のイマジナリーフレンドにして、被虐者の代表。そして、復讐者。“学校”という空間の暗部。この学校の最後の生徒。

 この子の帰宅をもって、僕のこの学校での仕事は完了だ。

 学校の思い出が、素敵な想い出ばかりだったら、それはどんなにすばらしいことなんだろう。でも、そうはならない。

 そうだな。君たちのようなオカルティックな言い回しをするならば、学校教育というシステムがある種の蠱毒のような性質を持つ以上、どうしたって闇は払いきれない。それが努力に起因するものか、才能に起因するものかはともかく、優れた者が輝ける場所へと送り出す場所が学校だからだ。

 夢をかなえる場所、成長する場所、切磋琢磨する場所だからこそ、芽の出なかった種、枯れてしまった花、腐り落ちた種子は闇をまとう。もちろん、それを減らそうという努力はするけれど、ね。

 集団生活が難しいことなんて、誰もが十分に承知のこの個人の時代に、集団生活に闇などどこにもなかったことにしたい人が多すぎることだよなあ。

 みんなちがってみんないい。金子みすゞが百年も謡われる理由は、それが普遍性を持ち、端的でありながら、あまりにも難しく、あまりにも尊い理想郷だからだ」

 気付くと、迷宮化していた校舎は通常の、昼に訪れた校舎となっていた。

 しかし、昼間に張られていた掲示物はなにもない。

 廃校舎だ。

 そうか、僕らは昼からずっと幻視の中にいたのか。

「究極な話、どんな人生を送るのも一人一人の自由だ。学校が楽しくなかったから、学校に行かなかったからといって、別に大したことではないんだよ。 

 傍から見れば命を無駄に浪費するような生き方すら、本人が良いなら、それで良いんだろう。あるいは、そうしたくても、出来ないこともあるさ。

 それでも、学校に来て、様々なことを学び、一つでも良いから素敵な想い出を持って卒業してほしいと、私は思う。

 だって、私は教員だからね」

 そして、辿りつく。

 入り口だった。

 教員も花子ちゃんも消えていた。


 校舎から出た僕らが見たのは、予想外の――本当に予想外であったかは自信がない。けれど、少なくとも、僕が自覚する自意識の範囲では、予想外の人物だった。

 けれど、顔を見た瞬間に、すべてを理解してしまったあたり、本当は気付いていたのかもしれない。 

「ヒロ?」

 酷く狼狽した表情のヒロがいた。

 表情からは全てを読み切れない。酷く、驚いて、悲しくて、怒っているようにも見え、どこか憑き物が落ちて呆けているようにも見えた。

 ヒロは僕らをゆっくりと舐めるように全身を見つめた後、酷くのっそりとした動きで背を向けた。

「ヒロ!」

 首だけ振り返り、こちらを見た。

「明日、時間を取ってほしい。話をしよう」

 ヒロは軽く手を挙げて、帰っていく。

 不穏。

 先輩が、強く、手を握る。

 それを払い飛ばすかのように、空から大きな音がした気がした。


 僕は視る。

 これは空想だろうか。それとも、混線だろうか。

 屋上に出る階段をゆっくりと昇る存在の視界。最後の生徒たちの出立を見届けて、きっと頬には満足げな微笑みを浮かべながら、堂々と胸を張って、誇らしげに。

 それは聖職者という幻想の存在。数多くの生徒に望まれ、教員や保護者にすら望まれる存在。余りにも軽率に描かれる素敵な悪夢。誰にでも厳格でありながらも優しい、いつも正しさを伴い、だが間違いへの寛容さも持ち合わせ、必要な時には暑苦しくお節介を焼くのに不要ならば放任主義を貫き、まるで心を読んでいるかのように生徒やその親や同僚を理解したうえ、茶目っ気もたっぷりなただの教員という、まるで当たり前のように語られる、普通の人間には到達不可能な夢。

 存在しない生徒と対になる、存在しない教師。

 オカルトは屋上から来る。そして、完璧に役割を終えた彼は、きっと屋上に帰ったのだろう。

 その空にはきっと落書きの花火が上がって、彼の花道を飾るのだ。

 できることなら、またどこかの学校に。

 思わず、そう、願った。


   ***


 青木蒼土は自宅の扉を開ける。

 躊躇いは一瞬、ナイフを握った。

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