7 三月三十日の補足、および三月三十一日終日。
好事魔多し。
月に叢雲、花に風。
良いことがあった日は、残念ながら悪いこともある。
クロさんを紹介された翌日。
僕ら四人――千秋ちゃんとクロさん、先輩と僕はダブルデートという奴に出かけたのだ。意外なことに言い出した本人であるクロさんが最初は一番渋っていた。
どうやら、クロさんは自身は姿を消して――そんなことをさらっとしようとするあたり、やはりとんでもない人だ――僕ら三人を見守るつもりだったらしいけれど、千秋ちゃんの猛反発によりダブルデートと相成った訳だ。
もっとも、周囲には三人の子供と一人の保護者にしか見えていなかったと思うけれど。
実はこうして普通に遊びに行く、というのは先輩にとっても僕にとっても非常に珍しい経験で、本当に素晴らしい日だった。なんなら千秋ちゃんとクロさんの方がよっぽど遊びなれていた。
案の定、途中でオカルティックな出来事に出会ったりはしたものの、おおよそ普通の高校生として有意義な一日を過ごすことが出来たと思う。
そんな楽しかった一日の最後の最後。
マヤさんから先輩のスマートフォンに連絡がきたのだ。
マヤさんのパートナーの老爺が死んだという話だった。
***
マヤさんから連絡があった翌日。
僕らはマヤさんの店に――というより家にいた。店舗の奥の居住スペースだ。
せいぜい二人暮らしといった広さの居住スペースは、小綺麗に片付けられていて、最低限の物しか置かれていない部屋だった。青々とした観葉植物に囲まれていた店舗とはどこか対照的だった。これはもしかしたら二人の住人の気質によるものなのかもしれない。
その居住スペースにはどこか不釣り合いな精緻な刺繍が施された棺の中で老爺は深く眠っていた。
「ごめんなさい。わざわざ来てくれなくても良かったのに。業務連絡のつもりだったのよ。皆の邪魔をするかとも思ったのだけど、かといって、何の連絡もしないのも何かあったときに困るかしら、って。ただ、その子が一緒にいるのなら、問題なかったわね」
同じくらいの年にしか見えない、ともすればクロさんの方が年上に見える。にもかかわらず、その子、という表現でクロさんが呼ぶことに違和感を抱いた。しかし、考えてみれば、確かに現代に生きている人間のほとんどがマヤさんにとっては当然の年下なのだ。どんな見た目であるかにかかわらず。
そう、見た目だ。
「いえ、こちらこそ、合流できた旨、連絡もなく失礼しました。お気にかけていてくれたというのに」
千秋ちゃんが深々と頭を下げた相手、マヤさんは若い女性の姿になっていた。真っ黒な着物は喪服だろう。素人目にも随分と上等なものに見えた。
「葬儀はどうしましょうか? おそらくある程度は進めてらっしゃると思いますが、その他、うちのものがなにか手配することはございますか?」
「大丈夫よ。完全な密葬にする予定なの。参加者は私だけ。この人の友達ももう連絡取れる人いないから。近所付き合いしてた人たちに、最低限のあいさつして終わり。通夜はやらないし、明日が葬儀よ。参列者は私とお坊さんだけ」
マヤさんはそう言ってほほ笑んだ。
不思議な表情だった。悲しさを我慢して笑っているのでも、相方の大往生を讃えているのでもない。
ある種の諦念と自嘲のような優しい微笑みだった。
「昔、知り合いの葬儀で聞いた言葉があったのよ。『葬式の喪主なんて普通の人生なら多くて二回だ。慣れてないなんて当然だ』ってね。つまり、自身の両親の長く生きた方の一度と、自身の配偶者で一度。その二回きり。
珍妙な人生を送っている、私でも喪主を務めた回数もせいぜい二桁行くか行かないか。それでも、こんなに寂しいお葬式は初めて。色んな理由で参列者が少ないってことはあったけれど、今回はそもそも参列者自体がいないものね。いや、必要ないって言う方が正確かしら」
マヤさんは老爺を眺めながら、溜息のような深い呼吸を漏らす。
「悲しいとかじゃないのよ。むしろ、自然なことだなって思う。
ほら、私はなんだかんだで山姥として、山の中で生きている年月も短くないから。生命として独り立ちした後は、一人で生きて、一人で死んでいく。そっちの方が自然なことだなって思っているのよ。
私も、いつか、いつかわからないけれど、消えるときは一人で何も残さずに逝きたいと思う。けれどね、だからこそ、色んな人に惜しまれていくことこそが、人間らしいなって思ってしまうのよね。この人にはやっぱり子供に囲まれて、この人の想い出を語る人がたくさんいて、この人の想いや遺志を継ぐ人がいて。そんなお葬式をあげて」
間が開いた。
「ちょっと、違うわね。そんなお葬式をあげられる人生を歩んでほしかった。ってのが正解かしらね。たぶんね、この人の人生のほとんどが奥さんを亡くした時に終わっていたのでしょう。そう考えると、私はもっと酷いことをしていたのかも。
結局のところ、私は彼に生き返ってほしかったのだけれど、結局は死体に鞭打っていただけだったのかもしれない。流石に、彼が私といて、すごく楽しかった、とも一切楽しくなかったとも言わないけれど。一人残されるのは慣れたけれど、幸せにしてあげられなかったと思わされるのは、もしかしたら初めてかもしれない、なんて。思い上がりなんでしょうね」
マヤさんはふたたび酷く深いため息を吐く。
僕は何も言えない。
定型文という奴は便利で、だからこそ使いにくいな、と思う。
『この度はご愁傷様でございます。急なことでお慰めの言葉もございません。心よりご冥福をお祈り申し上げます』
まさしく、この言葉の通りなのだ。
それ以外に何を言えばいいのだろう。
だから、こんな時にでも周りに気を使えるマヤさんは凄いのだな、と改めて思う。
「聞いてくれてありがとうね。
本当にごめんなさいね。いよいよ大詰めというタイミングで。
あなたたちも気まずいでしょうし、お帰りなさいな。その子がいるんなら大丈夫でしょ。私も最後くらいは流石にこの人をゆっくり送りたいしね。
大丈夫、心配しないで。何かあったときはちゃんと仕事はするから」
僕らは無言で互いの顔を見合わせ、退出しようとした時だった。
視界の奥に、マヤさんのパートナーの老爺がいた。
店側へ向かう通路に立ち、何か慌てているようで『ちぇっとこっちゃ来い』と必死に手をこまねいている。
ちょっと幽霊にしては妙に活発でひょうきんな動きだった。
「どうした? 何か見えてるのか?」
挙動不審になった僕にそう声をかけたのはクロさんだった。
クロさんは僕が見ていた方向を見ているが、何も見えてないらしい。
え。
「見えてないの?」
「ああ」
「……ちょっと見てくる」
僕が立ち上がったことを確認したのか、老爺はそのまま店舗の方に出ると、繰り返し入り口を指さしている。
僕はそれに導かれるまま、外へと出た。
正直、どこか幽霊という存在にしては間の抜けた様子だった老爺に油断していた。
「え?」
そこにいたのは、正しく放心といった様子で涙を流す女性――先日、知り合った女子大生だった。
悪寒が走る。
脳内で、何かのピースががちりと嵌った気がした。まだ全容は見えない。だけど、これは繋がっている。
「何かあったかしら?」
出てこようとするマヤさんを全力のジェスチャーで留める。
ほぼ本能による反応だった。
「千秋ちゃんちょっと来て!」
先輩を呼ばない理由は簡単だ。人見知りの彼女より、千秋ちゃんの方が頼りになりそうだ、というだけ。
けど、千秋ちゃんより先にどこか不満げな先輩が来る。
「君なあ。愛しの先輩より」
案の定、そこまで話して珍妙な状況に黙してしまう。
ああ、もう、これはどうすればいいのだ。
一通り、千秋ちゃんとクロさんが女子大生をひとまず落ち着かせてくれた。
その後、彼女がぽつぽつと語った内容は、男性の姿のマヤさんが死んだのかと思ったという話だった。
幼馴染と去年の春、県内からこの街に進学で引っ越してきたこと。
比較的近所だったという理由で、一度この店に訪れてみたこと。
普段はクローズドになっていた看板が、ある日オープンに変わっていたこと。
つい、気になって開けてしまったこと。
どう見ても閉店している内装だったけれど、出てきたマヤさんが気軽に応対してくれたこと。
今回は特別に、と髪の毛をカットしてくれたこと。
好奇心から、扉を開いたけれど、当然、最初は不安だったこと。
けれど、マヤさんは若いのに話も、カットも上手かったこと。
髪の仕上がりにすっかり気分がよくなって、マヤさんに次もまたカットして欲しいと、お願いしたこと。
そうして仲良くなっていくうちに、マヤさんがいろいろと面倒を見てくれたこと。
どんどん惹かれていったこと。
それを幼馴染の親友に話したら応援されたこと。
同じころ、不審者に追われるようになったこと。
つい数日前も、その被害にあっていたこと。
幼馴染も最近行方不明になったこと。
辛いことだらけで、憂鬱な気持ちで散歩していたら、ここを通りかかったこと。
忌中の文字が見えた瞬間に、感情が爆発してしまったこと――
ひとまず、マヤさんが死んだのは勘違いであることを伝えると、一気に安心した様子だった。少し悩んだ表情をした後に『本来は失礼な事なのかもしれませんが、故人の方に手を合わさせていただいてもよろしいでしょうか?』と、そう告げてきた。
マヤさんに確認をとると、多少の狼狽はあったものの是非と答える。
当然だけれど、女子大生は祈っている間、隣にいた喪服姿のマヤさんが彼女の知る男性と、同一人物だと、気付くことはなかった。
今は女性四人で僕の淹れたいまいち美味しくないであろう紅茶を飲みながら、かつての待合で――一度目にここへ来た時に僕らが使ったテーブルのある区画だ――雑談に華を咲かせているようだった。とはいえ、先輩は生来の人見知りと、動揺から、ほぼ相槌を打つだけの紅茶飲み人形になってしまっている。
心底、千秋ちゃんに感謝する。女子大生には、僕らは全員、葬儀を手伝いに来たこの家の親族・知人だという形で、納得してもらった。狭い田舎だ。そういうこともあるだろう。
マヤさんは強い人だと思う。
男性の姿の自身の姉と名乗り、女子大生の歓迎に加わったのだ。
『お通夜代わりに、故人の話を聞いてほしい』
なんて言って。
クロさんと、僕は居住区閣にいた。
案の定というか、女子大生の、主に筋肉お化けに関わる一連の流れについての詳細は既にクロさんは把握していたが。
そして、ある意味最悪なことに、マヤさんも。
「ここ数年で、たった一人の客だったって話だ。ある日、何かの拍子でクローズドの看板がひっくり返っていた。さらには、爺さんが短期入院でその日はここにいなかった。それ以来、爺さんの都合の良いタイミングでいろいろ面倒見てて……って流れらしい」
少しだけ、間が開いた。
「あのさ、せめて彼の死体、探せないかな」
「探してやれるなら、探してやりたいところだが、ほぼ無理だ。神隠しみたいなものだ。消えた結果死んだのか、死んでしまってから消えたのかの違いはあるが。
思えば思うほど、あまりに、立派過ぎる最期だよ」
少し、いらっと来た。この人がもう少し早く行動できていたら、状況は変えられただろうに。化け物染みた能力を持っているくせに、どうしてそうも他人事なのだ。
思いながらも、気付いていた。
トキコさんと一緒なのだ。きっとこの人は、その気になれば世界の裏までだって視えるのだろう。けれど、そのすべてを救うのはきっと不可能なのだ。だから、どこかでラインを引いている。
トキコさんのラインは仕事であるかどうかだった。
クロさんのラインは、何だろう、わからない。
少なくとも、筋肉お化けを生み出してしまった彼はラインの外側だった。
しかし、これは。
その結果が、これなのか。
「……業が深すぎる」
漏れたその一言は独り言だった。けれど、返事をして欲しいのも事実だった。
つまりは、ままならない現実への愚痴のようなものだ。
誰の業か。
僕か。
マヤさんか。
女子大生か。
それとも彼自身か。
「関わらなきゃよかった」
彼の首を落とした瞬間を思い出す。
あの時、首を落としていなければ、せめて彼の亡骸を探すことは出来たのではないか。彼の無念を消滅させるのは、その後でも良かったのではないか。
あまりにも遅い後悔だ。だが、口にせずにはいられなかった。
「気安く業なんて言うな。
ただ恋をしただけの少年がそんな罪深いものであってたまるか。ただの不運だ。やるせないのは認めるが」
クロさんがぼやくように応えてくれた。
一時間ほど、歓談した後に、女子大生を送っていくと言って、クロさんと千秋ちゃんはマヤさんの店を去った。
もう夕暮れも過ぎていた。僕らも、続けてお暇させて頂こうと僕が考えたタイミングだった。
「話し相手に、なれますか?」
随分と気が晴れたのか、静かに微笑んでいたマヤさんに先輩がそう言い出したのは随分と意外だった。
マヤさんは僅かに躊躇したようだった。
けれど、語り始める。
貴方たちだからこそ、漏らしてしまうのだけれども。
罪というものを償うことは本当に可能なのかしら。
私は、かつて大勢の人間を殺した。
けれど、それを悔いてはいないの。
悔いてはいないというのは、少し間違いなのだけれど、そういう時代だったし、そういう役目であったし、そういう立場だったから。言っちゃあなんだけど、相互に自業自得だとも思った。現代の感覚でいえば、私たちは戦争をしていたようなものだと思っているわ。
けれど、じゃあ、罪悪感がないかと言えば、それは別の話。
罪の意識にはずっと苛まれてきた。だからこそ、人と交じって生きるようになってからは、罪は犯さないようにしようと決めた。
もちろん、清廉潔白に生きようと思ってはいないわよ? そう生きられるとも、思っていないし。
ただ、不必要に他人を傷つけることだけは止めようと思った。
私には罪を贖うことは出来ないと思ったから。
例えば、キリストは磔刑にかけられ、人類の原罪を償ったと言うじゃない? けれど、彼は後に復活する。これはあくまでも、宗教的なお話であるけれど、これが現実で起きた殺人犯の話だとした場合、処刑されて確かに死に、そして生まれ変わった場合、その罪はどこにいくのかしら。それこそ、前世の業なんて言ったりするけれども、それが可視化された場合、罪は消えぬ烙印となる。
私はそう簡単には死なないし、私は人間とは違う尺度で生きている。例えば懲役十年と言われたところで、私の十年は人類よりずっと軽い。死刑と言われたところで、人間を殺す方法では、おそらく私は殺せない。だから、私に罪は贖えない。
私は、どうしたら良いのかしらね。
普段のマヤさんとは思えぬほど、酷くゆっくりした喋り方だった。
相変わらず、何も言えない。
ただ、マヤさんが優しい理由がわかっただけだった。
だから、このくらいの失敗、きっと許されると。そう思った。
あまりに小さな過失で、あまりに大きな結果が出たけれど、罪を問うにはあまりに小さな失敗で、あまりにも偶然だ。明確な罪人もいる。
それでも。
自身が罪だと認識してしまえば、それは罪なのだろう。明確に
「わかりません。ただ、私はマヤさんのこと、大好きですよ。
少なくとも私なんかより、ずっと立派で良い人だと、思います」
先輩らしからぬ、強い言葉だった。
「良かったら、今日は泊っていってくれないかしら。大丈夫、私は山姥だけど貴方たちを食べることはしないから。
お通夜に付き合ってほしいの」
マヤさんは疲れた顔で微笑んで、そう言ったのだった。
***
結婚式場だった。
ひとりぼっちの新郎が祭壇の前で立っていた。
「昼間は世話になったな」
それで、僕は全てを察する。
「まだ何か用事かい? 割と僕、あなたに怒っているのだけど」
この人が、何十年か前にマヤさんを受け入れていればこんな悲劇は起こらなかったのではないだろうか。
「そうだな。最後の最後で、マヤさんに酷い迷惑をかけてしまった。こんな心労をかけて逝くつもりはなかったのだけれど」
言葉とは裏腹に満足げで、穏やかな声音。
「あなたの勝手で、生きている人間は苦しんでいるのに。こんな天国みたいな場所で」
「天国、か。
天国なんて、死後の世界なんてないさ。あるのは走馬灯の中で死ぬ瞬間に夢見た光景。死ぬ瞬間の想いの残り香。私は私の人生の残像としてここにいる。ここですり切れるまで、いつまでも来ない新婦を待つ。私なりの贖罪、優しき優しき私の地獄だ」
きらきらと光る世界で、新郎の表情にだけかすかに影がさしている。
どうなのだろう。叶わぬ願いを思い続けるのは、真に不幸なのだろうか。
この新郎はここに花嫁が訪れることがないことはとっくに知っている。けれど、その一方で、いつかこの場に花嫁が訪れることも確信している。そして、それでいいと思ってしまっているのだ。
いつか来る。きっと来る。
決して来ない、その瞬間を待ちながら、想いが擦り切れて消える瞬間まで、ここに佇むことをこの幽霊は――この幽霊の元なった老爺は、逝く瞬間にそれを良しとしてしまったのだ。
幽霊や、魔王、そして、山姥が。オカルトが蔓延る、この世界でいつか花嫁に再会できる幻想を夢見てしまった。
なんて、ロマンチックで身勝手な人だろう。
「マヤさんに伝えて欲しい。遺書がある。マヤさんが絶対に触らない場所に」
「自分で逢いに行けば良いじゃない。喜ぶよ」
操を立てるにしたって、そのくらいはしてあげていいじゃないか。
「出来るなら、そうしたい。けど、それは出来ない。今の私は、もう新婦しか待っていない。君も、君だから、辛うじて会えただけだ。これは正しく、私だけの愛しき地獄なのだから」
それと。
新郎はいいかけて、言葉を選ぶように少し間が開いた。
「いや、やめよう。これはきっと俺から伝えてはいけないから」
「やめてよね、そういうの」
「誰から伝えられるか。というのは重要な事だよ。さて、悪いんだけれど、そろそろ起きてあげてくれるかい? 私は良いんだが、マヤさんが気にしそうだから。」
何の話だろう。
問を発する前に、新郎は何かを僕に差し出してきた。
「最後に、これを」
渡されたのは一通の封筒だった。
「これは?」
「同窓会の招待状だ。皆に届いている。私の友人が迷惑をかけているからね。これくらいしか出来ないけれど、許してあげて欲しい」
マヤさんに迷惑をかけられた記憶なんてなかった。まあ、定型句のような物だろう。
それより、気になった単語がある。
「皆って?」
「皆は皆、だ。君の家にも届いていただろう? 気合入れていきなさい。
いや、違うな。君にはこう言ってあげた方が分かりやすいか」
友人の罪を許してあげなさい。それは、君にしかできないことなのだから。
くすりと皮肉気に笑う。
はたと目覚める。手には一通の封筒が握られていた。
周囲を見渡す。
いつもとは逆だった。
僕が、マヤさんに用意された布団に横になっている。隣の先輩用に用意された布団は空っぽだ。
そして、先輩とマヤさんは、話し込んでいる途中に眠ってしまったのだろうか。食卓に突っ伏して、二人とも目を閉じていた。マヤさんも先輩も、酷く消耗していた。仕方のないことだった。
僕は伸びをして起き上がると、僕の布団と先輩用の布団から毛布を引っ張り出して、二人の背にかける。
もしかして、起こしてしまうかな、とも思ったけれど、眠りは深いようだ。
そうして、棺の横に、片膝を立てて座る。
ろうそくと、線香を交換する。線香は八割ほど、燃えたところだった。あと、五分程度で燃え尽きていただろう。
「……ほんと。気軽に夢枕に立たないでよね」
僕は夜明けまで、そこに座っていた。
***
翌朝、まだ日も昇らぬうち。
目を覚ましたマヤさんと僕は、先輩を起こさないように待合のソファーで話をしていた。
マヤさんの淹れてくれたインスタントコーヒーを啜る。夜明けのコーヒーだなんて、耽った翌朝の暗喩に使われていることが多いけれど、現実で早朝に摂取されているカフェインは得に色っぽくもない徹夜の作業のお供だろう。
取り留めないことを考えてしまい、頭を振った。
流石に、少し疲れている。
マヤさんと目が合った。
「疲れているみたいね。これ、あげるわ。香典返しみたいなものよ。旦那に飲ませようと思って、あの泥鰌から買ったの。出来なかったけど」
僕にどこかで見たような淡く七色に光る鮮やかな液体を渡してくる。
少し、悩んだ。僕がこんなものを持っていても。
「いざというとき、先輩ちゃんと一秒でも長く一緒にいられるわよ?」
その逡巡を見抜いたかのように、マヤさんはクスリと笑い、そんな風に追撃してきた。悪戯っぽいその笑みも、随分と精彩を欠いていたけれど、それでも相変わらず有無を言わせぬところのある言葉だった。
それに、先輩とのことを言われてしまっては、受け取る以外の選択肢がない。
「ありがとうございます。貰っておきます」
「ええ。そうして頂戴。私が思っていたより、左目の同調も進んでしまっているようだし。私が仕組んだことだけれど、全く、難儀な性質……いや、性格かしらね」
「まあ、僕はそういう体質なんでしょうから」
苦笑する。
こればかりはどうしようもあるまい。
「気付いていると思うけれど、私、本当はあなたを千秋ちゃんの代わりにしようと思ってたのよ?」
「知ってましたよ。まあ、それはそれで、本望です。ちょっと寂しいですけど一対一対応です」
出来ればこの命は先輩の為に使いきりたい。
けれど、残念ながらどうも時間が足りなさそうである。それであるならば、千秋ちゃんを生かせる選択肢になんの不都合があるだろう。
マヤさんが僕の眼帯を外し、覗き込んでくる。
「まったく。そんなんだから、あなたはこんな目にあうのよ。もう少し欲張りなさいな」
「言うほど、酷い目には合ってないですよ」
「……良い? 千秋ちゃんの眼を探しなさい。まだ、間に合う。もうすぐ、辿りつく。私が願ってあげる」
「何をしたいのかわからないことを願われても、どうしようもないですよ」
「悪役ならば、悪役らしく、足掻きなさいな」
見えない左の瞳にキスをされた感覚があった。
悪役らしく、か。
そんな彼女に僕は老爺に頼まれた言葉を伝える。
マヤさんは店舗の一角、色褪せた新郎と新婦の写真を外した。
裏面を見た彼女は、朝日の中で涙を流し始める。
「失礼しますね」
店舗から居住部へと移ると、僕はまだ眠っている先輩の隣にぺたりと座り込んだ。
「伊達男に碌な奴はいないねえ」
一人ごちる。
春休みもいよいよ終わる。
まだつぼみの桜の木々、茶色の幹がかすかに薄桃色に色づいて見える。
東北にも遅い春が来そうだった。
そろそろ決着を付けなければ。
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