わたしにも書けるものがあるのかもしれない
丸毛鈴
何十回目かの春分の日に
十七歳の春分の日近く。わたしはマンションの手すりにしがみついていた。「わたしのからだが、十階からわたしを落とそうとした」。おかしな表現だが、そうとしか言えない現象が起きていた。たしかにわたしは毎日「死にたい」と思っていた。でも、そのときは――。わたしの意志とは関係なく、からだが、わたしをマンションの下へ落とそうと動いた。希死念慮というやつだったのだと思う。当時はそんなことばは知らなかったけれど。
からだをなんとか動かして窓際から離れられたことを後悔した日もあれば、よかったと思ったこともある。
紆余曲折あって大人になってからも、社会に馴染めなかった。何ができるのかわからなかった。
「人生、先が見えないとつらいんだな」
そんな当たり前のことに気がついたのは、フリーター時代だった。新卒で勤めた会社をクビになり、とりあえずはじめた接客バイトの仕事。意外なことに、それは自分に向いていた。目の前のお客さんが求めるものを、なるべくなら解決しようと、フロアを走り回る。それはわたしに充実感を与えてくれた。
ただ、その職場には先がなかった。正社員は狭き門だったし、なれても求められるのはマネージメント業務だ。そういった業務が合わないことは、火を見るよりも明らかだった。なぜならクビになった仕事は、編集者だったからだ。編集者の仕事とは、各所に発注をかけ、その進捗を管理するマネージメントにほかならない。それがわたしには、まったくできなかった。
ここには「先」がない。わたしはだんだん笑えなくなった。
いまでも覚えているのは、春分の日のことだ。暖かい風が吹いて、それでもわたしはブクブクのダウンコートを着ていた。次の季節の服装を考えなければいけないことが、心底めんどうくさかった。
「春なんて、来なけりゃいいのに」
次の季節の到来を喜べない自分に驚いた。それまでの人生にはなかったことだったから。
わたしはそんなわけでアルバイトを辞め、会社勤めのライターになった。具体的なことは何一つわからないまま飛び込んだ世界だったけれど、雑誌での商業ライティングの世界は、わたしに社会における居場所を与えてくれた。
すてきなものや人にふれて、それを文章で読者に伝える。雑誌の文章は、読者に「誰が書いているか」を考えさせたら負けだ。主役は紹介されているものや人だから。でも、その“スポットライト係”が性に合っていた。「自分の内からわきでるもの」ではなくても、書けばなにがしかを発散できた。
ライターになって、やがてフリーランスになって、人生は安定した。世間から見てどんなに不安定であっても、わたしにとっては安定だった。はじめて「つづけられる」と心から感じられた仕事だったから。結婚して、さらに情緒は安定した。
しかし、中高年の域に達した昨今、迷いが生じた。
「わたしはこれから、どうすればいいのだろう」。
一ライターとして記事を書いていきたい。が、出版不況の中、それをつづけていけるのだろうか。もちろん、ウェブ時代にあってもプロが書いた文章は求められてはいる。ただ、ウェブで情報を発信するメディア側のスタンスはあまりにもいろいろ過ぎる。「こうしたい」がないと、泳ぎ切れないように感じられた。
同年代の同業者たちは、どんどん専門性を身につけていく。自分は何かの専門家になりたいのだろうか。「こういうこと、もうすこし詳しくやってみようかな」と口にすると、いつもことばが上滑りした。
依頼に応じて書く、いまの仕事は好きだ。ずっとつづけていきたい。しかし、つづけるためにもビジョンが必要だ。
仕事とは別に、小説やエッセイはときどき書いていた。ただ、そういった文章を書いていること自体、肯定的にとらえることはできなかった。自分が何を書きたいのか、書ける人間なのかもよくわからなかった。
プライベートでは、主にわたしのふがいなさから子どもを(なかば)あきらめたこともあり、未来が急に見えなくなった。「いま」に満足していても、未来が見えないと、人生に倦む。「いまのままをつづけたい」と心底思えるなら、それはそれでビジョンだ。でも、どこかでそうは思い切れない自分がいる。
変えたい、では何を?
変化を求めていたからというわけではなく、まったく別の衝動からなのだけど――。
コロナ禍に、いままでとは違ったタイプの小説を書き、のちにカクヨムに投稿しはじめた。
カクヨムに長編を投稿したことで、「読んでもらうための更新回数の大切さ」を思い知り、放置気味だったブログの更新頻度を上げた。
ブログに軽い気持ちである悩みを書いたら、驚くほど情緒不安定になって、カウンセリングに通いはじめた。
仕事の激務期間のストレスで、なぜかエロ小説を書いて18禁OKなサイトに投稿をはじめた。勢いだけで原始的な手法で物語を書いたことで、創作全体の出力が上がった。
出力が上がった結果、KAC2023に参加し、いくつか短編をアップすることができた。
短期間のうちに与えられたお題に即して書いたそれらの作品は、いままでにない題材で、テイストはバラバラでありながら、どれも「自分だ」と思えるものとなった。とはいえ、わたしの作品はエンターテインメントからあまりに大きく外れているように思われた。わたしはときに、比喩表現ではなく、泣きながら書いた。
「なんでこんな内容の物語を書いてしまうんだろう」
「だれにも読まれないのに」
なにより、物語に登場する人物は誰もが痛みを抱えていて、それがつらくて泣いた。
ある朝、もっともいびつな短編を書き上げた。詰め込み過ぎだし、主人公が抱える葛藤は異常だし、0PVだろうと思ってアップした。それが意外に、読まれた。数は少ない。それでも、「これはもっと読まれてほしい」「ほんとうによかった」と書いてくれた人がいた。暴投かもしれないと思っていたものが、誰かのミットにすっぽりおさまった。
うれしかった。
その短編だけではない。KACを通じて書いた何篇かの作品により、わたしははじめて、「自分が何を書いてしまう人間なのか」を知った。それらの短編に感想をもらったことで、生まれてはじめて、「わたしにも書けるものがあるのではないか」と思えた。上手いとか、売れるとか、プロになるとか、そういうんじゃない。そのもっと手前の話。
書いていて、よかったのかもしれない。
春分も近い、ある日のカウンセリング。カウンセラーの先生は、一連の流れを聞いて、「巡っていますね」と言った。
「小説の内容が、たとえあなたが抱える問題と直接関係なくても。心のどこかが巡っていれば、必ず違う箇所にも循環があらわれます」
ああそうか。「先」というより、人生には「循環」が必要なんだ。そして、すべてはつながっている。ライターになったことも、ずっと創作をするのをやめられなかったことも、カウンセリングに通ったことも。仕事の先は見えないけれど、巡っていればなんとかなるだろう。
飛び降りかけたことは――つながってはいるけれど、肯定的に見るつもりはない。希死が個人の意思を塗りつぶす。あれは誰の人生にもあってほしくないことだからだ。
わたしが何者か? そんなもんはいまだもってわからない。でも、「書く」人ではあるんだろう。十七歳の春分から、ずいぶん遠くへ来たものだ。何十回目かの春分を迎え、わたしはまだ生きていて、何かを書いて暮らしている。
わたしにも書けるものがあるのかもしれない 丸毛鈴 @suzu_maruke
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