夜が消えた日

十余一

午前三時四十七分

「およそ一年中の夜明けという夜明けを知っている」


 憧れの文筆家が記した言葉だ。十代の頃に始まった徹夜癖は一向に治らず、ほとんど一日も欠かさず徹夜していたという。ひんやりとした風が忍びこむ夜、清い風鈴の音、あわれな鈴虫の声。閃く金木犀の匂いが孤独をなぐさめる。秋の気配の立ちそめるのを感じながら、美しい夜明けを拝むまで執筆は続く。


 それにならおうとしたのか、私もいつしか真夜中に筆を執るようになった。夜通しの執筆が常となってしまった。

 兎にも角にも書き続けねばならぬという焦燥に突き動かされ、銀のラップトップに臨み、魂を削りだしては文字列として焼きつける。自分にしか書けない物語があるとも思えないが、自分には書きたい物語がある。書きつくしたいのだ。反吐を出しきりたいのだ。

 書くことと生きることが等号で結ばれていると錯覚してしまうほどに、いくつもの夜を越えた。生命を浪費するように作品を産みだし続けた。しかし、この行為が実を結んだ試しはない。


「もう、駄目かもしれない」

「駄目じゃない」

「駄目だ」

「駄目じゃない」

「生きられない」

「生きられる」

「生きたくない」

 焦点のズレた目で画面を見つめながら自問自答を繰り返す。不思議と涙は出なかった。

 冗談でも嘘でも「死にたい」とは言わない。そもそも本当に死にたい奴は「死にたい」なんて言う間もなく衝動的に死を選ぶ。そこまでの衝動もなく、ぐずぐずと問答をしている時点で死ぬ気なんて全くもってあるはずもないのだ。


 いったい何が私の背中を押していたのだろう。憧憬しょうけいか、それとも意地か。

 才能など枯渇するまでもなく、最初から備わっていなかったと認めてしまえば楽になれる。天運など尽きるまでもなく、最初から持ち合わせていなかったと知ってしまえば平らかになれる。憑き物が落ちればあとは水が低地へ流れるように安穏と過ごすだけだ。早世した作家の年にすら至らぬまま、私は自らに終止符を打とうとしている。


「すべての希望は封じられているが、文学だけは辛うじて私の生きる希望をつないでいる」

 そう言ったあの人のようにはなれない。文学は私の生きる希望たりえない。自身の創造する文学に見出したはずの存在価値も、願望がつくりだした幻にすぎなかったのだろうか。自信家にも己惚れ屋にもなれないまま、私は私に愛想をつかしてしまった。


 あきらめの朝がくる。空を薄紅梅に染める美しい夜明けだ。きっともう、私に脈打つような夜は来ない。



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