スマイルはおいくらから?
石衣くもん
☺️
吊り眼に細眉。薄い唇に隙さえあれば煙草を銜え、その真っ黒になっているだろう肺に反して、白く透き通る肌が悩ましい。
彼女はアルバイター、僕は客。
もう少し詳しい説明を加えよう。
彼女の名前は殿村さん。同じ大学の学生でありながら大学近辺のファーストフード店のアルバイターで、僕はそんな彼女への愛が昂じてこの店に通いつめる客だ。
ただいま、正午から十分経った授業終わり直後。学び舎の近くにある、お昼時のファーストフード店はそれなりに盛況なわけで、苛ついている彼女はそれを一切隠そうとはしない。客を客とも思わない態度で、接客というにはあまりに杜撰な対応で挑む。
「ご注文は?」
「こ、コーヒーお願いします」
「アイスとホットがありますけど」
「アイスコーヒーお願いしま」
「サイズはSMLどちらになさいますか」
「Mサ」
「一八〇円になります」
「ありがとうございます」
会話のキャッチボールは計四回。そして必ず二百円払ってお釣り二十円を貰う。今まで一度も手にお釣りを返してもらえたことはないが、もう彼女の触れた十円玉だというだけで、ギザ十より価値ある十円玉だ。
殿村さんは僕を含め、誰に対してもこのような接し方であった。名前はおろか、顔すら覚えてもらえてないだろう。彼女の隣に立って、忙しいにも関わらず、常連客に
「いつもありがとうございます!」
と、最高のつくり笑顔を浮かべている接客の鑑ともいえる、店員のお姉さんとは正反対にいるような、そんなクールビューティーであった。
だけど、僕はこれだけで満足だった。幸せだった。しかし、自分にこんな幸せが、長く続く筈がなかったのだ。
そもそも、僕が彼女に恋したのは幸せなきっかけと呼べるものではなかった。
僕はなぜだか理由は皆目検討もつかないが、いじめの対象になりやすい子供であった。親がそんな僕を心配して、たびたび引っ越しして別の土地に移っていたにも関わらず、小中高と、いじめられない時期がなかったという武勇伝も持っている。
「お前見てるとなんかイライラするんだよ」
いじめっ子たちが、男女を問わず言った、僕をいじめる理由がこれだ。彼らをイライラさせた自覚が微塵もなかった僕は、
「なんかごめんね?」
と謝ったにも関わらず、ふざけるなと顔を真っ赤にした彼らに殴られたり、蹴られたり、金銭を要求されたりした。
しかし、昔から若干のマゾっ気があったらしい僕は、殴る蹴るという暴力行為も特に苦にならず、特に女性からの暴力には変にテンションが上がってしまいそうで、それを抑えるのに苦労したくらいだ。さらに、お金をせびられるのも幸か不幸か家が裕福だった為、僕には何のダメージも与えないという始末。
結果、僕はいじめられても一日も学校を休まなかった。この妙に高い精神力と忍耐力が、さらにいじめに拍車をかけていたのかもしれない。
一番堪えたのは無視し続けられた高二の頃だったが、その時期は神様の悪戯なのか、こんな僕にも奇跡的に恋人がいた。引っ越した先のご近所さんで、おっとりした面倒見のいい子だった。僕を放っておけなかったのだろう。幼なじみの男が、僕を射殺すくらいの眼で睨みながら、何度も
「いい加減別れろよ」
と言われても、僕の傍を離れようとはしなかった。
構って、励ましてくれる彼女のおかげで逆に幸福のメーターはマックスゲージだった。今考えると、あれは恋心というよりはむしろ、お互いに母親と子供の間に築かれる類の感情だったようにも思える。
結局、彼女にまで被害が及ぶのが嫌で、別れてしまったのだけれど。彼女は元気だろうか、幼なじみのあいつとよろしくやっているのだろうか。
閑話休題。そんなこんなで大学生になっても未だいじめが終わる気配はなく、かつあげされるカレッジライフの毎日を満喫していた所に、現れたのが彼女だった。
「じゃま。どいて」
の一言から始まった彼女の喧嘩は、僕に煙草の本来あるべき使い方以外の用法を教えてくれた。煙で目つぶし、流れるような鳩尾パンチは今思い出してもゾクゾクする。
「これ、あんたの?」
「は、はい」
逃げ去った奴らが落として行った諭吉を拾いあげ、こちらを向いた彼女は見惚れる程の微笑を浮かべて
「あんな奴らにやるくらいの金なら、あたしに頂戴?」
と宣った。
その時の彼女の美しさったら、なんとも凄まじく、ミロのヴィーナスも裸足で逃げ出すレヴェルだったのだ。もう首を縦に振るしかあるまい。
かくして僕は美の暴君の前に跪いたわけだが、跪かれた側は、一万拾ったラッキー程度としか思っていないのだ。そのくらいの認識でどうこう間違いが起こるわけないし、起こしたいとも思わなかったのに。
平和ボケして緩んでいた頬に、突然グーパンがお見舞いされたのは、店に通い、コーヒーを頼み始めてから一ヶ月後のことだった。
僕をかつあげしていた一派は、
「てめぇ、あの程度のことで俺らが見逃してやるとでも思ったのかよ」
と、いかにも三下の悪役のような台詞と共に再び現れた。
彼女にこてんぱんにやられて暫くなりを潜めていた彼らは、彼女を使って僕を虐げる策を練っていたのだ。
「おい、お前あの女にスマイル下さいって言ってこいよ」
久々の鬱憤晴らしにハッスルした後、面白いことを思いついたような口ぶりで一人が言った。彼女のアルバイト先のメニュー表に「スマイル¥0」と書いてある、恐らく彼女が一度も提供したことのないものを使って彼女を怒らせ、僕を嫌わせようとしているのだ。
そんなことをしたら、きっと彼女は気に食わないで僕を殴るだろう。
三日前、彼女が喫煙場所で煙草を吸っているにもかかわらず、煙たいといちゃもんをつけてきた奴がいた。彼女はそいつを殴り、僕はそんな彼女を素敵だと思った。
一週間前、彼女に愛の告白をし、意外にも丁寧に断られて、調子に乗って襲い掛かろうとした奴も、彼女は殴った。僕はそんな彼女が好きだと思った。
そして一ヶ月前、かつあげをしている集団を殴り、僕を救ってくれたのも彼女、殿村さんだ。僕はそんな彼女を好きになったのだ。
そんなふざけたことをしてしまったら、残念な顔の覚えられ方をされて、二度と彼女の前に姿を現せなくなるかもしれない。そんなの、嫌だ。
それだけは勘弁してくれと珍しく嫌がったからか、益々奴らははしゃぎ出す。やらなかったら彼女のアルバイト先で彼女が原因の騒ぎを起こしてクビにしてやるなどと脅かしてきた。きっと念入りに、彼女がどこで何時頃働いているかリサーチした上で言っているのだ。
彼女はこいつらに渡す筈だった一万円でさえ欲し、無愛想なのに愛想一番の職場で働いている。
きっとそこまでして金が必要なのだ、クビになんかさせられない。
僕調べでは、彼女は駄目アルバイトと見なされ、店長は辞めさせる機会を窺っているようなのだ。騒ぎの原因など、千載一遇のチャンスを店長は逃さないだろう。
僕はニヤつく輩を引き連れて、講義前に喫煙所で煙草をふかす彼女の前に立った。
〝what〟ではなく〝who〟と思っているだろう彼女の表情は、表向きは眉一つ動かない。
手を伸ばせば触れる距離にいるのに、それは決して叶うことはない。カウンター越しのいつもと同じ距離に、制服姿でない彼女がいる。
そんな彼女に意を決して口を開く。きっと僕は今、最高に情けない顔をしている。
「す、スマイル、下さい」
喫煙所周りの空気がおかしくなったのを肌に感じた。あいつらはきっとニヤついて、僕が痛い目を見るのを待っているのだろう。
彼女は静かに立ち上がり、僕は痛みに耐えるべく、目を瞑り、歯を食いしばってその衝撃を待った。
しかしその衝撃はいくら待っても来ず、変わりに抑揚のない声が僕の耳をくすぐった。
「お客様、私のスマイルが欲しけりゃ、アイスコーヒー以上のもんも、たまには頼んで下さい。あんた、金持ってんでしょ」
耳元で囁かれ、驚き目を開けば、眼前には彼女の、しかも微笑を浮かべたドアップ。
それはもう凄絶に美しく、口許のみを歪めた微笑みはスマイルと呼ぶには不敵で不適で、僕は言葉を失った。
面白くないと不満げな奴らの一人を蹴り飛ばし去っていく彼女の為に、僕はこれからも散財していくのだろう。
そんな甘美な未来予想図を思い浮かべながら、ぼんやり彼女の背中を見詰めていた。
スマイルはおいくらから? 石衣くもん @sekikumon
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