第14話 さようならは愛の言葉


 カラオケ店で僕とシュンは頼んだ飲み物にも殆ど手を付けず、二人とも膝に肘を置いて前傾姿勢で座っていた。

 有線からJポップの気楽な音楽が流れていて、それがより虚しさを感じる。


「…その、<タエ>さんて人が…産んだの?」


 僕は話を聞いていて当事者でも無いのに、まるで得体の知れない塊を口から押し込まれたような感覚になり、生唾でそれをゴクリと飲み下して訊いた。

 シュンは前を向いたまま頷いた。


「うん。……でも、『死産だった』って」


 そう言えばシュンはさっき「ガキがんだよね」と過去形で話していた。



 ※※※



 ホテルで俊介に妊娠を報告した時、彼女は長い体温計のような形の物を手にしていた。

 それが妊娠反応検査薬である事、そこの側面の窓に線が二本出ると【陽性】つまり妊娠している可能性が9割以上の確率なのだと教えてくれた。


 見ると、赤っぽい線が二本しっかり出ていた。


 妊娠なんて言われても、どうしていいか分からない俊介はひたすら困惑した。

 だが、そんな様子の彼を見て<タエ>は優しく彼の頭を撫でながら言った。


「心配しなくとも、大丈夫よ。この年で折角授かったんだから産むつもりだけど、旦那と上手く辻褄合わせてこっちで育てるから、は何もしなくていいのよ」


 彼女には早い段階で家の事情を伝えていた事もあり、途中で本名を伝えていた。

 それで、関係が進むにつれ俊介をそう呼ぶようになっていた。


 <タエ>の方は決して本名を教えてくれなかったが、彼もそこまで聞こうとは思わなかった。


 そして、こっちから切り出す前に彼女の方から『もう会うのも止めにしましょう』、と言ってくれて、正直かなり安堵した。

 しかし、お互いの自業自得とは言え彼女に妊娠と出産と言うリスクを与えてしまったのは彼の心にもダメージが大きかった。


 俊介はいまいち実感も湧かないが【自分の子供】という存在の顔を見てみたいと思ったので、無事出産したら連絡して欲しい事、出来たら写真もこっそりスマホで送って下さいと頼み、彼女もそれを承諾した。


「むしろ、俊ちゃんみたいに綺麗な顔で手足も長い子だったら、願ったり叶ったりよ~、旦那には適当に誤魔化すしか無いけどね」


 そう言って俊介の背中をペチッと叩くと、本当に嬉しそうにコロコロと笑った。

 亭主を騙してこんなにも嬉しそうに笑う姿に寒気を覚えたが、自分は何も言える立場でも無かった。


 彼女のお蔭で彼は毒父から離れ、母を守る事が出来、そしてーー

 ーー女を知る事が出来たのだから。


 この一件以来、彼は登録サイトのポイントの残りを換金する(現金化したらほんの僅かしか無かったが)と、アカウントを削除し、高校受験もギリギリだった(引越しなどで欠席が増えて授業や内申に影響していた)が何とか合格すると、年齢的にもようやく普通のバイトが出来るようになり、早速近場のカラオケ店で面接を受けた。


 その間、<タエ>からの連絡は無く、彼としては子供なんて本当は彼女の作り話で、とにかく関係も無くなったのだからもう早く忘れよう、と考える事にしていた。


 カラオケ店の採用が決まってバイトを始めると彼はそこで一人の女と知り合い、すぐに付き合うようになった。

 同じカラオケ店で働く先輩の<恵那えな>と言う、腰まである長い黒髪に何本かのカラーエクステを付けた、目が大きくて色白の、ややふっくらした美人だった。


 恵那は俊介より7歳年上で、本業は美容師見習いだと話していた。

 初めて彼女からカラオケ店の業務を教わる際に何故か懐かしい感じがしたが、その理由はすぐに分かった。


 <タエ>と初めて会った時に彼女が付けていた香水と同じものを使用していたのだ。


 あの時の<タエ>は恐らく張り切りすぎていたのだろう、付ける量も場所も悪く、ツンとした香りが強過ぎて閉口したものだったが、恵那は控えめに耳たぶにちょっとだけ付けているせいか、それとも元々の体臭と相性が良いのが、全く不快に思わなかった。


 受験も終わり卒業・入学前の長い休みと言う事もあり、バイトに精を出している間に二人の親密度は加速的に高まっていく。

 念願だった門限の消えた世界に開放的になった俊介は一人暮らしの恵那のアパートに半同棲よろしく入り浸るようになった。


 だが、二人のママゴト新婚のような甘ったるい生活は長くは続かない。


 恵那は独占欲の強い女で非常に嫉妬深かった。

 俊介にべったりと貼り付くような愛情表現を見せ、常に側に居る事を望んだ。

 バイトのシフトも一日でも彼女とずらすと機嫌が悪く、本業の美容室勤務で自分がシフトに入れない日に俊介がバイトするなら、他の女性スタッフが入っていない日に限り許可をするなどと、かなりな我儘を言うようになっていった。


 そして、占いや黒魔術などのやや偏ったスピ系が大好きで、似たような内容の雑誌や占い系アプリを大量に所持していた。

 毎日それら全てをチェックしてからその日の行動を決めるような事もしており、それを当然のように俊介にも強要してくるようになった。


 それでだんだんと一緒に居るのを苦痛に感じてきた俊介は、恵那から一旦距離を置こうと母親の待つ自宅へ帰るようにした。

 ところが、彼が恵那の部屋に入り浸っている間に、引越し早々独りで寂しく過ごしていた母親の方にも新しい男が出来ていた。


 見た目はまぁまぁ爽やかで優しそうな男で、母親の新しい働き先である工場の上司と言う事だった。

 今度こそまともな男かと思いきや、夕食の団欒だんらん時に酒を飲むと途端に人格が豹変する、酒乱癖のある男だった。

 どうして次から次へとこうも問題のある男ばかり引き寄せるのか、俊介は美しいが極端な寂しがり屋で男選びの下手過ぎる母親が嫌になってきた。


 実家にもどこにも落ち着く場所の無くなった彼は、カラオケ店のバイトを辞めて夜はあちこち出歩いて時間を潰す毎日を送るようになる。

 幸い、<タエ>から貰って貯めておいた金は、引っ越しなどに使ってもまだ少々の余裕があった。


 やがて入学式を迎えて高校生になった彼は、中学校の時にクラスの仲間とよく遊んだ事を思い出して、その楽しかった記憶のあるサッカー部に入る事にした。

 入部するとサッカーセンスがいいと先輩達には褒められ、何よりまた身長が伸びた彼はフィールドで特に目立つ為、すぐに人気者になっていった。


 ある日、他校との対抗試合後の打ち上げで、以前のバイト先では無いカラオケ店に部員皆で集まる時があった。

 ジュースで乾杯して歌リレーをしたり、大いに盛り上がり楽しんでいる所に恵那からの着信が何度も入ってきた。


 仕方なく電話する為に一旦店を出て、いつまでも電話の向こうでメソメソと泣きながら『会いたい』を連呼する恵那の声に『後で行くから』と言ってなだめると、ようやく電話を切らせて貰えた。


 そのやりとりに疲れて頭を押さえながらフラフラと店内に戻ると、フロントにあるベンチで同じ学校の制服を着た見知らぬ男子生徒が、こんな場所でノートパソコンを膝の上に乗っけて一心不乱にキーボードを叩いている姿に目が留まった。



 ※※※



「あー、それがあの時かぁ」


 呉峡ごきょうはダイエットコーラを飲みながら言った。

 グラスの中の氷が溶けてだいぶ味が薄くなっていた。


「…最初さー、トモっちがオニ連打してっから何かゲームしてっかと思ったww」


 そう言って懐かしそうに笑うシュンは、その時だけ目に光が戻った。

 膝の上に長い肘を乗せて組んでいた手を解いて、その時の動作を真似るように空中で両手の指をピアノの運指のように上下に動かした。


「あの時はすげーイケメン来たぞって、お呼びじゃないよ、って内心警戒したよw」


 呉峡ごきょうもその時のシュンの姿を思い出して笑った。


「マぁ?ひっでww…あんなテキトーに叩いてるみたいなのに、何か呪文みたいなの出来上がってくの、そん時俺マジ感動したんだけどww」


 二人は当時と場所は違えど同じようなカラオケ店の個室の中で、しばし共通の出会いの回想シーンを語らい笑い合った。



 ※※※



「思えば、…あの頃のシュンはまだ、普通だったんだよね」


 左耳に何枚も絆創膏を重ね貼られた呉峡ごきょうは、そこでポツリと言葉を挟んだ。絆創膏の表面にじわりと血の染みが広がっていた。


 島根はここまでの話をとても信じられない思いで聞いていた。

 自分達の見ていた<憧れの先輩>である筈の部長の姿が、まるで経年劣化した壁紙のようにその表面が剥がれ落ちていくみたいだ。

 しかし、ここまで聞いた所ではさっき放課後に遭遇した、ガナリ声を放ち目の前の先輩にこのような仕打ちをする伊能の姿とは結び付かない。


 一体何が彼をそこまで豹変させてしまったのか。


「…出来る事ならせめて、せめてあそこで終っててくれれば、良かったんだ」


 呉峡ごきょうが左耳に手を当てながら続きを話し始めた。



 ※※※



「…今回の件なんだけど…」


 ひとしきり笑った後に、再び暗い顔に戻ってしまったシュンは続きを切り出した。



 ※※※



 その日偶然出会った二人は、普通だったら絶対に接点の無さそうな、容姿も性格も趣味も全く違う、お互い真反対のグループに所属するであろう存在だった。


 俊介の目には呉峡ごきょうはまるで魔法の手を持っているように映り、呉峡ごきょうには伊能が普通なら手の届かない、キラキラと眩しい陽キャカーストの頂点イケメンに思えていた。

 お互い、滅多に手に入らないレアアイテムを与えられたような気持ちで、それぞれにある意味特別な位置付けをして繋がりたかったのかもしれない。



 俊介は呉峡ごきょうとその場で少し話をして、どんな風にプログラムが出来て行くのかを実際に見せてもらって大いに興味をそそられた。

 そんな彼にもどうやら何か事情があるらしく、普段から夜は外で過ごす事が多いと聞いてSNSのIDを交換し、今度は一緒に遊ぼうと言ってその日はそこで別れた。


 部活の打ち上げもお開きになった後は、気が進まないがさっき電話で約束してしまったので恵那の待つアパートへ行く事にした。


 部屋は入ると荒れ放題だった。

 自分が置いて行ったシャツや名前の書かれたマグカップが割れて散乱し、その中で泣きはらして真っ赤な目をした恵那がキャミソール一枚でスマホを持って座り込んでいた。

 白い腕には爪で強く引っ掻いたような傷が幾つも残っている。


 俊介が近付くと彼女は抱きついて、彼の顔を引き寄せ無理矢理に唇を合わせて来た。

 そのまま引き摺るように俊介をベッドへ誘導すると、観念した彼は彼女の豊満なバストをキャミソールの下から掴んで声をあげさせ、そのまま望み通りに彼女を抱いてやった。


 なし崩し的に再び彼女の部屋を訪れるようになった俊介だったが、彼女の束縛傾向は相変わらずだった。

 しかし少しでも別れる事を匂わせると、すぐに泣き出して自傷行為に走ろうとするのでそれもハッキリとは切り出せず、仕方無く付き合っているような状況だった。


 その為、呉峡ごきょうと一緒に夜の街を適当にぶらつくのは、本当に良い息抜きになっていた。

 彼に愚痴などを聞いて(聞き流して)もらえたお蔭でガス抜きが出来てかなり気持ちも楽になり、学校ではサッカーが拠り所だったので部活にも打ち込めた。


 そして、に穏やかな日々が続いたある日、部活を終えてロッカーからスマホを出して開くと、知らないアドレスからのメール通知があった。

 どうせ迷惑メールだろうと無視し、着替えて帰ろうとした時にSNSの通知音が鳴る。恵那からだったら面倒臭いな、などと思いながら開くとそうではなかった。

 その相手の名前を見て、『ギクッ』と全身が引きったような感覚が走る。



 SNSの送り主は<タエ>からのものだった。



 とうとう来たか、やはり嘘では無かったのか…と思いつつも時期が少し早い気もした。

 だが連絡が来たと言う事は、にとっては喜ばしい事なんだろうから、精一杯ねぎらって感謝の言葉の一つでも送っておけばいいか、などと考えていた。

 まさかもう一つの結末があるなんて事は、この時まるで予想もしていなかったから。


 だが、そこで彼は心臓をえぐられるような衝撃を受ける事になる。



『 俊ちゃん、お久しぶり。元気でしたか? 残念ですが、死産でした…でも、ちゃんとお腹の中で途中までは育ってくれてたの。息をしていなかったけど、お腹の外でも育ってくれてたら、きっと俊ちゃんみたいな綺麗な顔の、自慢の女の子になっていたと思います。』


『 約束通り写真を撮りましたが、既に亡くなった状態で生まれてきたので、白黒で送ります。こちらではもう火葬など一通り全て終ってますから、気にしないで。』


『 別のスマホで写真を撮ったからメアドが違うけど、○○○で始まるのが私からです。』


『 最後に、こんなオバサンに素敵な夢を見させてくれてありがとう。俊ちゃんみたいに綺麗で格好良くて優しい男の子と、形だけでも、ほんの僅かな間でもお付き合いさせて貰って、その上赤ちゃんまで授かれて、本当に嬉しかったです。最高に幸せな時間をくれた事に心より感謝します。ありがとう。元気でね、さようなら 』


 メールの方を開くと、さっきの通知で見た知らないアドレスは○○○で始まっていた。空メールに写真だけが添付されている。タップすると別画面で写真が開いた。



 モノクロの画像の、皺くちゃの顔の小さな小さな赤ん坊の写真。



 半開きの口に、何かを掴もうとしているかのような豆粒のような指先からは、写真でも生気が無くなっているのが感じられた。



 どこが自分に似ているんだよ。さっぱり分からないよ。




 どうしてだろう、別になんとも思っていなかった筈なのに。






 いつの間にか彼の両目からは涙がとうとうと溢れていた。

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キシンリキ 第一部・碧い狛犬の涕 子子八子子 @nekoya-neko

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