ごうもんごっこ

ホルマリン漬け子

第1話


 さわやかな秋の日差しだった。


 二階にある部屋の窓からは、町並みが見下ろせ、見下ろした先には漁協があり、港があり、海があり、島がある。


 どこにでもあるような田舎町で、高校はなく、コンビニもなく、事件もなければ災害もない。

 父がいて母がいて、兄がいる。

 父は公務員で母はパートをし、兄は医大に通っている。

 なに不自由なく育ち、ピアノと書道と数学は塾にも通わせてくれた。


 そんな家庭環境の中で、地面の底に埋められた種から芽が出て、やがて地上に出るように、私の心の奥底にいつの間にか芽吹いた情熱は欲望となって身を焦がし、自らの進むべき道を燦然と指し示すようになった。

 

「よし、お兄ちゃんを拷問にかけよう」


******


「そんなわけで、兄に拷問を施すため、医学部に進学しとうございます」


 父と母が帰宅し、夕食後に進路希望調査表を見せて言った。


 テーブルを片づけて、ノートパソコンでなにやら文章を作成していた父の目が点になった。母は夕食の食器を洗ったり、明日の朝食の下ごしらえをしている。


「は?」

「いえ、ですから適切な拷問を加えるには、高度なメディカルケアが必要なのです。人間はすぐ死にますゆえ」


 私は、お兄ちゃんを殺したいわけではない。拷問にかけて苦しむさまを眺めたいだけだ。

 そのためには、適切に治療しながらでなければならない。


「いや、だから、どうした突然」

「おかげさまで、私ももう高校二年生です。自らの心の声を聞き分け、進むべき道を求める時が来たようです」


 テーブルの脇でフローリングの床に端座し、襟を正してから私は厳かに申し述べた。


「いや、だからっつって、おまえ。おまえも医大に?」

「もし、ご懸念が学費のことでしたら心配ご無用なのです」


 こんなこともあろうかと、町の教育委員会から奨学金制度の冊子をもらってきたうえ、国の育英会の書類も取り寄せてある。


「町の奨学金で医師免許を取得後、五年の間に帰ってきてこの町の医者になれば返済が免除されるそうです」


 そういった制度を利用すれば、ほとんど両親に負担をかけずに医者になれる。


「いや、そうじゃなくてだな。拷問? あいつ、またなんかやったのか?」

「ナンカ? ですと?」


 私は心の深奥より湧きいでたる、ドス黒いオーラを眼差しに込めて父を見上げた。


「奴が私に施した悪行の数々を、お忘れですか」


 奴は医学知識のない私をたぶらかし、こともあろうか乳ガン検診と言って、乳を揉もうとしてきた。

 その前は、大腸ガン検査と称してパンツを強奪し、さらにその前は、唾液による腫瘍マーカーを調べると言い出してリコーダーをパクっていきやがった。


 医学知識がないせいで、人はかくも容易にだまされることを私は身を持って理解した。


「で、でも、もうだいぶん前の話しだろ? 今やあいつも医大生として県外で一人暮らしなんだし」


 さらっと、私の黒歴史を流して父は肩をすくめた。


「そこです!」


 油断した父の態度を、私はばっさりと切り捨てた。


「奴が居なくなり、私は初めて落ち着いて自分を見つめ直す時間がもてたのです」


 医学を悪用するような兄を、このまま医師にしてよいものか?

 私を、だますような兄をこのまま放置してよいものか?

 否。断じて否。

 変態死すべし。


「社会にでる前に、世間の厳しさを教えてやるのが兄妹愛というものです!」

「でも、お前、こないだ誕生祝いだってあいつが送ってきたチョコレート、喜んで食ってたじゃないか」

「それはそれ。これはこれ」


 と、話ししていると母が包丁を持ったままやって来た。


「あらあらまぁまぁ。奴を拷問にかけるために医学部に行きたいんですって?」


 母は、にこやかに私の横に正座して、包丁は膝の前にそっと置いた。


「いや、だから、なんでお前ら、床に座るんだ!? そして、その包丁は!?」

「いいから、あなたもちょっとそこにお座りなさい」

「え、いや、俺も?」

「そういえば、前から思ってたんですよね。奴には一度、キチンと拷問にかけた方がいいんじゃないかって」


 母は悟りを開いた高僧のような顔をした。


「ですよね」


 さすがは母上さま。物事が分かってらっしゃる。それに反して、どうしてこう男どもと来たら物分かりが悪いのか。


「いやいやいや! ちょっと冷静になれよ!」

「そもそも、奴は産まれた時から、おっぱいの吸い方がエロイと思ってたものです」

「マジか! って、いや、そんな訳ないだろ!?」

「あなたは、そんなにこの娘を医学部にやるのが嫌なんですか?」

「違ぇよ!」

「分かりました。あなたも、そういえば男性でしたね。趣味で乗ってる自転車にしてからエロエロとかいう自転車ですし」

「そんな自転車ねーよ。ピナレロだよ。ピナレロってメーカーのロードバイクだよ!」

「そうでしたっけ。まぁ、そのピナエロのホイールがいつの間にか新しいものになってますわね」

「!?」

「わたくし、色々忙しいもので、そのホイールが一体おいくらぐらいするのか、まだ調べてないんですよね」


 と、エプロンからスマホを取り出して、包丁の横に置いた。


「あなたが、ご自分のお小遣いで購入されたんですよね。働かれているんですものね。”少々”自分の趣味に好きに使っていいですよね”少々”」

「…………」

「ホイールって、百万円近くするものもあるんですってね。そう言えば、そろそろ奴の学費の納入時期ですね」

「……………………」

「メーカーと品番で検索かけたら、お値段って分かると思います?」


 母は、無垢な処女マリアの微笑みににも似た笑みを浮かべ、脂汗にまみれて正座する父を見つめた。


 そんなわけで、医学部に行けることになった。


******


「というわけで、お久しぶりです。お兄さま、ふふふ」


 私は無事、医学部に入学し、兄は医師国家試験に通り研修医をやっているある日。


 ついに実家で、運命の邂逅をとげた。


「どういうわけだよ!? それになんで、俺はイスに後ろ手で縛られる!? ってか、お兄さま!?」


 月日は人を成長させるのだ。


 勉学に励み、母上さまから習得した対人スキルと、父上から巻き上げたカネの前に、今や私に隙はない。


 久しぶりに実家に帰省した兄を二階の部屋に案内し、イスに座らせ紐で縛り付け、通販で購入しておいた手錠で両手を拘束してやった。


「手は前で縛るより、後ろで縛った方が行動力が段違いに低下するからです」

「それは、聞いてねぇよ!」

「お父さまも、急遽お母さまに拉致られて夜まで帰ってきません」

「それも聞いてねぇってば!」

「お仕事は、お忙しいですか?」


 私は、慌てふためく兄を後目にかねてから用意していた器具類をステンレスパレットの上に並べていった。


「ああ、医者ほどブラックな仕事はねぇな。って、なんでここにオペ用の器具がある!?」


 切開用のメスから、血管を縛る鉗子、糸。その他、大量の器具類を用意した。これだけあれば、膵臓の奥にできた腫瘍でさえ取り出せるかもしれない。輸血用の血液を用意できなかったことだけが悔やまれる。


 あらゆるコネを使い、カネを使い、ネットも使って集めに集め、研ぎに研いで研ぎまくったのだ。


「努力の賜です」

「努力の方向が間違ってる!?」


 楽しそうに喚き散らすお兄さまを無視して、私はオペ用のゴム手袋をゆっくりと装着した。


 思わず、口元からこぼれそうになった唾液を舌先で嘗め取り、こぼれまくる笑みは大脳を刺激して麻薬様物質をたれ流す。


 お兄さまの不安そうに動き回る眼球を凝視していると、得も言われぬ快感が下部脊髄から脳幹にまで駆けあがってくるようだ。


「お兄さま、拷問は始まる前から始まっているんですね。私、知りませんでした」

「俺だって、知らねぇよっ。ってか、そんな哲学的な感想いらねぇってば」


 お兄さまは、まるで恐怖にひきつるカエルのような顔をしたが、私には分かる。あれは、喜んでいる顔だ。お兄さまは、昔からそういう慎ましいところがあった。ことにしよう。


 窓まで歩いていってカーテンを閉めた。それでも、よく晴れた日の光は隙間から部屋に差し込み、薄暗くも妖しげな雰囲気を醸し出した。


「お兄さま、人間の感覚が一番過敏な箇所って、どこかご存じですか?」


 私は、引き出しから桐の箱に入れておいた、とっておきの書道の筆を取り出して、毛先を丁寧に撫でた。過敏な箇所こそ、最も痛いはずだ。


「そりゃ、受容体の分布密度から言って、手のひらだろ?」


 突然の医学的な質問に、お兄さまはむしろ冷静さを取り戻したようだった。


「確かに、解剖学の教科書にはそう書いてあるけれど、本当にそうでしょうか?」

「な、なに?」


 私は、お父さまに借りて着ていたワイシャツのボタンを、上から順に二つ外した。


「そう言えば、今日は暑いですね」

「そう言えば、なぜ親父のワイシャツを着ている?」

「そう言えば、胸のサイズがまた大きくなったんですよ」


 胸の下で腕を組んで、今にも泣き叫びそうになっているお兄さまを見つめ、さらに視線を下げて意味ありげに股間を見下した。


「もうヤメテ。ホント、ごめん。俺が悪かった。なんでもするから、ともかく許して」


 本能的に、何かを察して謝り出したが、死んだ人間が生き返らないように、覆水は決して盆に返らないのだ。これで、お兄さまも一つ賢くなるだろう。


「さぁ、お兄さま。寝言ほざいてないで、一番敏感なところをパオーンなさってください。私も、お手伝いしますから」

「あほかああああぁぁぁぁああああああああ!!!!」


 有無を言わさず、ズボンに手をかけた。


「もうゆるしてぇぇぇええええええええぇぇ!!!!」

「お兄さま、無駄に叫ぶと体力を消耗しますよ。先は長いんですから」

「ぃああぁあぁぁああああぁぁぁっぁあああああ……」


 半開きの口から魂が抜けていくような顔を確認してから、私はお兄さまの太股の間に滑り込んだ。


 膝立ちで顔を見上げながら、研ぎすませたメスでスラックスを裁ち切っていく。


 トランクスの向こうで眠る、未だ姿を見せない夢見るクトゥルーに思いを馳せながら、筆先で露出した内股を撫で、ピアノレッスンで習得したタッチで肌をさすりあげていった。

 ビクンビクンと痙攣しながら、お兄さまは仰け反って、あっと言う間に悶絶した。


「お兄さま。もう聞いてなさそうですけど、この筆の毛先は私が赤ちゃんだったころの髪を集めて、お母さまが作っておいてくれたんですよ。将来、こんなこともあろうかと」

「母チャン、俺ガ悪カッタ。モウ勘弁シ▽○×#$%&……」


 言葉にならない言葉を吐いたところで、この場にいないお母さまに赦しをこうても無駄だ。ツケというのは、いつか必ず支払わされるからこそ、ツケと言うのだ。


「さぁ、お兄さま。知られざる生命の秘密を今こそ白日の元にさらすのです」


 トランクスに、メスを入れようとした時。


 ブツブツとつぶやき続けていたお兄さまが、夢遊病者のごとく立ち上がった。

 くくりつけられたイスのせいか、別の重要案件のせいか、姿勢は前かがみだったが。


「……&&%$#%$#。そうだ。そうこそ。ブロードマンの脳地図における機能局在性からみる神経分布の体部位比率を考慮すべきだ」

「え?」

「細胞構築学の特徴上において情報処理特性に起因した外世界要素を大脳皮質に表面展開させているとするならば」

「え、え!?」


 うつむいて、つぶやきながら向かってくる恐怖に私は怯えて思わず後ずさった。

 もしかすると私は、目覚めさせてはいけないものを目覚めさせてしまったのだろうか?


「医学的に最大過敏箇所は、口腔粘膜と舌だ!」


 くわっと顔をあげ、血走らせた目をかっぴらいた様は、みまうごとない変態だった。


「仕方がないな! 知らなかったのならば、仕方ない!!」

「え、え、え、え!?」


 口を開いて、舌を実に不気味にうごめかす変態に、私は壁際にまで追いつめられた。


「兄ちゃんの口を貸してやろう。医学とは自ら経験するもんだ。一番過敏な箇所はどこか、お前も自分の舌で確かめてみ――」


 訳の分からないことをほざきながら、みるみる近づいてくる顔に思わず両目をつむって全身に力を入れた時。


 プス。


 音がした。ような気がした。


 右手の先で、何かを貫通して、何かに何かが突き刺さった手応えがした。

 おそるおそる目を開けると、そう言えば右手はメスを握ったままだった。

 刺さった部位は、どうやら左胸のようだ。

 胸骨の際、第五肋間あたりで、それはつまり心臓の上ということで。


「き……」


 行動を停止させた兄は、ただ静かに自分の胸元を見つめている。


「き?」


 思わず、兄の発言をオウム返しに私は繰り返した。


「ぎゃーーーー!」

「ぎゃーーーーー!!」


 兄の叫びに驚いて、私も絶叫した。


「いてぇ! バカ野郎!」

「野郎じゃないもん!」

「どーでもいいから、治療しろ。手錠外せ。損傷部位の確認してくれ」

「治療の仕方なんて、医学生に分かるわけないじゃん! 手錠の鍵はなくしたし! 動脈出血はしてないっぽい。はい、以上!」

「なんで、鍵がないんだよぉぉ! 嘘だろおおーー!」

「てへっ」

「バカ野郎ーーーーーーー!」


******


 精根尽き果てた。


 結論から言うと、損傷深度は1センチもなく、動脈も肺も大丈夫だった。


 兄が持っていた往診鞄から出した生理食塩水で患部を洗い流し、局部麻酔をしてから三針縫った。

 ただ縫合するだけだったが、生まれて初めて他人の皮膚に針を入れるのは、想像を絶する精神力が必要だった。


 周囲には水が飛び散り、ポタポタとほんの少しだが血痕が跳ね、兄はシャツとスラックスの股間部分が切り裂かれ、私は脱げかけのワイシャツ姿のまま、ぶっ倒れた。


 気がつけば全身汗だくで、荒い息をすることしかできない。部屋には、異様な熱気と臭気が充満している。もはや誰が見ても事後だ。


「なぁ」

「なに、お兄ちゃん」


 イスに縛り付けられたまま転がる兄が言って、ぶっ倒れたまま私が答えた。


「いや、何でもない」

「うん」


 そのとき、家の前で車が急停止した音が聞こえた。誰かが慌てて玄関の鍵を開け、大丈夫かお兄ちゃんと言う声と、待ちなさいあなた、という声が聞こえてきた。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「私、真面目なお医者さんになろうと思う」


 廊下を走って、階段を駆けあがってくる音が聞こえる。気がつけば、カーテンの隙間から夕日がさしていた。


「そうか、奇遇だな。俺もだ」

「うん」

「医学は悪用しちゃ、いかんな」

「だよね」


 そして、扉が開いた。

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ごうもんごっこ ホルマリン漬け子 @formalindukeko

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