【弐拾参】桜も散ったのでおしまい
上り坂では、自然と足が遅くなる。
風に乗って遊んでいる花びらを浴びながら、ゆら子は急ぐでもなく足を動かした。
まだ伝えきれていないことはないだろうかと考えて「嗚呼」と思い付く。
「どうして、今だったんだろうって思います?」
「今?」
「四年も経った今だったんだろうって」
「……ああ、うん。言われてみれば気になるな」
理由はふたつある。
まず、死体は朽ちるのに時間がかかる。
元の形が残っているより、朽ちてしまった方が痕跡が少なくなって都合が良かった。その方が真実から遠のき、目的を達しやすい。
そして、ふたつ目は……
「母が亡くなったんです。梅の花が咲く、少し前に」
正弥が首を傾げる気配がして、確かにこれでは伝わらないとゆら子は続ける。
「姉が死体役なら、母は糾弾する役……真相を解き明かす探偵役、とでも言いましょうか」
「……そうか。つまり、ゆらちゃんはその代役を務めたんだね」
「とても的確な表現ですね。そう、これは私の役割ではなかったんです。そもそも、私の役割なんてなかったはずなんですけどね」
まぁ、とゆら子は心の中で付け足す。
きっと春子は、こうなることを見越していたのだろう。
筋書きを作ったのは春子だ。梅子の体調ではとてもこなせないことをわかっていたはずだ。それでも、最初に役を振ったのは、彼女の復讐心を誰よりも理解していたからに違いない。本懐を遂げられない母――否、同志への手向けといったところか。
だが、どちらもそれで終わりにするつもりはなかった。
それで終わりにする必要もなかった。
ちょうどいい代役がいたのだから。
「最後は自分の手で成し遂げたいという母の願いは叶いませんでした。……あの人は、最期になんて言ったと思います?」
「知らない人の言葉は紡げないよ」
くすりとゆら子は笑った。
本当に、真面目な人。
真面目で真摯で、お人好し。どこまでも損をする人。
「私の名前を呼んで……『ゆら、ごめんね。後をお願いね』って」
ゆら子は、母の最期に立ち合っていない。
衰弱しきった梅子は、親子で暮らしていた離れから連れ出されて本邸に連れていかれた。伯父は、良い環境に移そうとしたのだろうが、その晩に彼女は亡くなった。唯一残された娘からも引き離された彼女が何を思ったのか、それは娘であるゆら子だって知らない。本当の最期の言葉も、知らない。
「だから、あなたに会いに行ったんです」
投げ出すには、盤上に駒が揃い過ぎていた。
状況は整っていて、後は手順通りに進めるだけ。
決まった順番に駒を置いて、取って取られて……王手をかける。
幼い頃、姉と遊んだ詰将棋と何も変わらない。いや、それ以上に簡単だった。答えは最初から明らかで、隠されてすらいなかったのだから。
幾つか想定になかった事も起こったが、それでも春子の筋書きは揺らがなかった。
いや、違う。
ゆら子が揺らがせなかったのだ。多少の変数があろうと、今のゆら子は状況を支配して乗り切る力を持っていた。
「正直、迷ったんですよ。こんなこと、する意味があるのかなって」
家族に尽くすことは、ゆら子にとって苦ではなかった。
愛されていたと思うし、愛していたから。
でも、父との思い出は遠くてはっきりとしない。
大好きだったはずの母は、少しずつ恐ろしいモノに変わっていってしまった。
何より慕わしかったはずの姉も、ゆら子を一番に想ってはくれなかった。
「家族を愛していたはずなのに、これは私の復讐にはならなかったんです」
まるで物語をなぞっているかのような疎外感。
その疎外感は罪悪感に似ていて、ゆら子の心の奥底でいつも燻っていた。
今も、涙と一緒に流れてはくれない。
「……後悔しているのかい?」
「いいえ。少なくとも今は、していません」
これから、する日が来るかもしれない。
「ただやっと終わったなって……思っています」
今の気持ちを“終わった”という言葉以外でどう表現すれば正しく伝わるのか、ゆら子はわからない。感慨も達成感も安堵もなく、もっと凪いでいて淡々とした浅い感覚。でも、何も思うところがないかと問われればそれも違う……そんな感覚だ。
ただ一点だけ、この状況に感謝していることがある。
寿々乃のことだ。
彼女が櫻木の家から解放されて幸せに歩んでいけるのなら、ゆら子にとってこれ以上のことはない。間違いも、犠牲もそのためなら小事だ。
不意にゆら子は、そう思ってしまう感情の延長線上に、復讐があるのかもしれないと思い至った。
最愛と自己憐憫の先に求めた救い、のようなものがきっと梅子と春子にとっては復讐だったのだ。それなら、彼女たちが止まれなかったのも無理はない。
「これが私の知っている真相、その全てです」
ゆっくりと登ってきたふたりは、ついに一本桜へと辿り着いていた。
満開を過ぎた桜は、際限なく花びらを散らして春の終わりを告げようとしている。
つい先日掘り返された場所は、埋めなおされて
裁かれるべき罪が隠されたのなら、新しい罪で裁かなければならない。
……と、考えた者たちがいた。
そして、彼女たちは罪を暴いて裁きを与えた。
だから、もうここには何もない。
空っぽになった土の手前でゆら子は足を止めて、正弥を見やった。
「悪い人は裁きにあってこの話は終わり、にしたいのですが、どうでしょう?」
「なら、僕はどうすればいい? 僕の行いに対する贖罪は何ひとつ出来ていないよ」
「私には、あなたの罪がわかりません」
「君のお姉さんを――櫻木春子を殺した」
「正弥さん」
「煙に巻くようなことはしないでくれ」
ふっと笑ったゆら子を制したのは正弥だった。
詭弁を弄しようとしていたことはお見通しだったらしい。いや、正確には詭弁――間違ったことを正しいと押し付けようとしたのではなく、彼女にとっての正しさを押し付けようとしたと表現する方が正しい。
ともかく、正弥は寛次郎のように説得されてはくれないようだ。
「自首したいんですか? それが行いの代償になると?」
「……そうだったら、よかったんだけどね」
「あなたが殺した人はそれを望んでいませんでした」
「それは話を聞いて理解できたよ」
「よかった」
いつの間にか、正弥からは悲痛さが消えている。
ゆら子はそれが嬉しかった。巻き込まれただけの優しい人が、これからも苦しんでいくだなんて、きっとゆら子の方が耐えられない。
「……じゃあ、君は?」
問われてゆら子は首を傾げる。
てっきり、さっきので話は終わりだと思っていた。
だから、何故、自分に話が振られたのかわからない。彼自身の苦痛が鳴りを潜めたのは、現実を――ただ道具のように利用されただけだと受け入れたからというわけではなかったのだろうか?
それとも、ゆら子の罪を問うているのだろうか?
「まだ君の望みを聞いてない。全て終わったら、知っていることと君の望みを聞かせてくれる約束だっただろう」
「私の望み……私が、あなたにどうしてほしいか?」
「せめて、君には償わせてほしいんだ」
なんて切実なのだろう、とゆら子は思った。
そして、ようやく己の罪を理解することが出来た気がした。
春子は巻き込んではいけない人を巻き込み、ゆら子はその人の傷を抉ったのだ。
決して、消えない深さまで抉ってしまった。
「どんなことでも、いいの?」
「もちろん」
「じゃあ……今回のことを全部忘れて。幸せになることを恐れないで」
「……それは」
脱力し、「出来ない」という言葉を吞み込んで蹲る正弥の手を、ゆら子は放さなかった。
繋がったままの手に額を預けて、縋る様にしている彼をじっと見つめる。瞬きしないように、一瞬たりとも、玉響の間も見逃さないように。
「とても、難しいね」
「決して投げ出さないで。私」
ずっと繋いでいた手を解き、ゆら子は正弥の頬に触れて持ち上げた。
「私、近くで見てるから」
これから、ずっと。
もしかしたら一生、罪の意識に苦しむ彼を見届けること。
それがひとりの人間の人生を台無しにしたゆら子の罰。
罪過なく生きていくべきだった人の人生を壊したのだからそれが直るまで、幸せを幸せだと忌憚なく享受出来るようになる日まで、見守る。
それが誰にも教えるつもりのない彼女の償い。
「いつか必ず償い切ってみせて」
「……ああ。いつか、きっと」
ゆら子が手を差し伸べると、正弥はそれを頼りに立ち上がる。
短いもので、先日咲いたばかりの桜の花は、その最後の花びらを落とそうとしていた。
「帰ろう」
どちらともなく呟くと、ふたりは連れ立って一本桜に背を向けた。
今年最後の花びらが舞う。
ひとつの物語の終わりには相応しいだろう。
梅が咲いてから桜が散るまでの物語 七瀬美桜 @nanasemiou
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