最低。
大石 陽太
最低な男
「君は最低なやつだな」
年に一度のめでたい日。
今日でこの学校を旅立つ彼が放った一言がそれだった。あまりに予想外な言葉に「ぇ?」と間抜けな顔で固まってしまう。
いつも気さくな彼からネガティブな言葉など聞いたことがなく、冗談でもこんな風に言われたのは初めてだった。
彼は冗談だとか、嘘だと言う様子もなく、他の生徒にいつもの明るい笑顔を見せた。
ネタバラシをしないドッキリ番組を見た時のようなモヤモヤを感じた。
めでたい日だというのに空気を読まず、いつも以上に気合の入った練習を敢行した勇気ある顧問に唾を吐いた帰り道、頭の中から彼の言葉は消えなかった。
帰ってから普段しない家事を手伝おうとしたが気持ち悪がられて拒否されてしまった。
翌日もやはり『最低』という言葉は頭から消えておらず、寝起きから妙に頭が冴えていた。
別にどうということはないが、いつもより少しだけ大きく「いってきます」と言った自分が気恥ずかしい。
人間、一度気になると中々どうして忘れられないもので、いつもは見過ごすであろう視界の端に落ちていたゴミを拾って捨てたり、通りすがりの人に挨拶をしたりした。
自分のことを聖人だと思ったことはないが、親しい人間にわざわざ正面から『最低』と言わせてしまうほどに自分の人間性は酷かったのかと不安になる。もしそうだとしたら、今まで彼は同じ部活だからと無理して接していたのだろうか。
しかし、記憶の彼はとてもそんな風には見えなかった。そう思いたくないという自分の願望が入り込んでいる可能性は否定できず、今まで疑う余地もなかった彼との記憶は真実だと言い切れなくなった。
考えていても答えは出なかったので、直接聞こうとしたが、つい昨日この学校を旅立ったばかりの彼とは今までのようには会えなかった。かと言って、わざわざメッセージを送るのは躊躇われた。
まぁいいか、と少しだけ安堵する。
間を置きたかった。
もし本当に、自分が『最低』な人間だと理解できた時、少しでもダメージを少なくできるよう自分で気づくための時間が欲しかった。
あと、彼から『最低』という言葉を聞くのが怖かった。
それから自分のことを『最低な人間』だと思って生きるようにした。
自分が今まで無意識にしていたことは全て最低な人間がしていたことだと思い、意識的に行動を変えるようにした。
困っている人がいればすぐに助ける。人が嫌がるようなことは進んで引き受け、マイナスな言葉をやめた。
サッカー部の練習ではいつも以上に声を上げ、キャプテンとしての自覚をいつも以上に持って臨んだ。
霊がいれば未練を聞き成仏させ、異世界に飛ばされればその世界を救った。
良いやつになろうとしてるわけではなく『最低なやつ』でいたくなかった。
ただ一つ。
釈然としないのは、これら全てが普段の自分とそこまで違いがないことだ。
別に今までだって、困っている人が目の前にいて知らないふりをするようなことはしなかった。面倒くさいことは避けていたが、やらなければいけないことは文句を言いながらもしっかりとしていたし、愚痴だって、たまに溜まったものを吐き出すくらいでそうそうは言っていなかった。
ただ事実を並べているだけのはずなのに自分を美化して誤魔化しているような気がして一人なのに気まずくなった。
ある日、いつものように部活動に勤しんでいたときのこと。
後輩の一人が簡単なシュートを外した。顧問が集中しろと喝を入れる。後輩は苦悶と悔しさの混じった表情と苛立ちを抑えた声で顧問に返事をした。
よくある光景だったが、その日はなぜかよくあるものとして処理されなかった。後輩の表情を見ていると忘れていたものがふんわりと浮かび上がってくる。
そういえば、自分が一年の頃、同じようにうまくいかない時期があったような。
薄い記憶の奥に過去の自分が映し出される。
なぜ忘れていたのだろう。この苦悩を。
そうだ、あの時に声をかけてくれたのが彼だった。何気ない励ましの言葉だったけど、周りのことなど見えず、躍起になっていた当時の自分にとって、それがどれだけ救いになったか。
そんな懐かしいはずの思い出は今や苦味を伴う。
「おつかれ。はい、アイス」
帰ろうとしていた後輩を呼び止め、買っていたアイスを差し出す。
「寒っ……ありがとうございます……」
露骨に嫌そうな顔をされた後、二人して適当な段差に腰掛ける。夕暮れ時のひやりとした空気が部活終わりの体を冷たくする。
「最近どう? 上手くいってる?」
後輩はアイスを舐めると小さく肩を震わせた。
「あんまりスね……なんか、思ったように体が動かなくて……ムカつきますよ」
後輩の内から溢れ出る熱量に心の中で苦笑する。一年前の自分もこうだったのだろうか。一歳しか変わらないはずの後輩がやけに若々しく感じる。
「たしかに、体重そうだもんな。最近」
気のせいだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。後輩は「わかります?」と続けた。
「最近寝れなくて……疲れてるんですけど……枕が悪いのか」
「授業中居眠りしてるからじゃないの?」
冗談で言うと後輩はハッとした表情をした。謎が解けたようだった。
「そうかも! ちょっと居眠りやめてみます!」
ありがとうございます、と律儀に頭を下げてくる。何か違うような気がしなくもないがスッキリしたようで何よりだった。
「なんか、最近上手くいかなくて、ずっとイライラしてたから、誰かに相談するとか忘れてましたよ」
アイスはまだ半分以上残っているが溶ける様子はない。
「同じような時期あったからわかるよ。マジで視野狭くなるよな。顧問にも相談できないし」
後輩は分かりやすく頷いた。
「そうなんスよ! 集中しろとか俺が一番わかってるよ! って。誰でもわかるようなことを大声で言ってんなよー! って余計にムカついてムキになっちゃって」
それからは後輩の愚痴を聞いた。話が終わって家に帰ると親に心配され軽く叱られた。そういえば連絡を入れるのを忘れていた。
翌日から後輩は徐々に調子を戻していき、成績も上がったと喜んでいた。
先輩のおかげです! と感謝されたが自分は話を聞いただけで何もしていない。
素直なやつだと思うと同時に、もっと早く声をかけていればよかったと後悔した。
こういう時『最低』という言葉が頭をよぎる。
その年の夏。
特に番狂わせもなく、チームは県大会準決勝で敗退し、我が学年は涙の引退となった。
最後の試合、鉄壁のディフェンスを誇る相手から唯一点を取ったのが寝不足で調子を落としていた後輩だった。今大会で一番活躍していたと思う。
ちなみに一番泣いたのもこの後輩だった。
「これ落ちてたけど、そう?」
「お、私のだ。ありがとう〜」
最初はからかわれていた積極的な親切も何も言われなくなり、まるで今までずっとそうだったかのように錯覚をしてしまう。
最近、自分について考え込む時間が増えた。もしかしたら、彼はただ冗談で言っただけで、会ったらすぐに「冗談だよ」と笑い飛ばされるかもしれない。
だけど、もし本当に彼から見た自分が最低だったなら、納得できる答えはあるのだろうか。
そう思うのは当然だと思える理由があってしまうのだろうか。もし、そうなら自分は今まで『最低な人間』として生きてきたことになる。それはやはり嫌なことだ。
今まで自分について深く考えることなど一度もなく、なんとなくで生きてきた。だが、それでも漠然と自分のことは正しい側にいる人間だと思っていた。
しかし、それが今回のことでそれが大きく揺らいだ。疑う余地が生じた。もしかしたら、自分は正しくない側の人間なのかもしれないと。
そうは言っても人間一人からの言葉に過ぎないが、彼とは仲が良かったのだ。彼という人間に信頼があった。そんな彼からの言葉を一人の意見と割り切ることができるだろうか。
「肌荒れてね? 寝不足?」
隣の女子に一人の男子がデリカシーのカケラもない発言をする。呆れ果てた言動だ。だが、差別的でもなく、悪意もない。加えて、そんなに仲良くもない隣のクラスから来た男子。前の自分なら見て見ぬフリをしていた。
「あのさ。他人に、ましてや女の子にそんなこと言うもんじゃないよ」
座ったまま、できるだけ攻撃的にならないように努めて冷静に告げる。男子は一瞬ムッとしたが近くの友達が「お前が悪い」と男子を
べつに、自分が言わなくてもよかったなと。
本当は褒められたいだけじゃないのか。ヒーロー気取りで他人を救った気になっているんじゃないかと自己嫌悪が襲ってくる。
わかっている。あの男子は女子に気があっただけだと。
悪気はない。結果悪かったとしても。
やはり、口出しすべきではなかったのではないかと思い始めてしまった。
「ありがとう」
考え込んでいた思考はたった一言で消えてしまった。
迷惑になっていないのならそれでいい。
女子の安心した表情を見てそう思った。
☆
学校を出ると日が落ち始めていた。
息抜きに後輩たちの様子を見に行こうとしたが、離れていても分かる熱気に、軽い気持ちで顔を出すのが申し訳なくなったのでやめた。その代わり、少しの間、遠くから練習を眺めていた。
頑張っている人間を見ているとやる気を貰える。
らしくもない熱が湧きつつも、自分達がいたはずの光景に切なさを感じた。
その全てを心の奥に仕舞って、グラウンドを後にする。
駅まで歩いている時、見慣れない車が隣で減速した。
「久しぶりだね」
本当に久しぶりに見る彼は以前と変わりのない笑顔を見せた。
彼は髪を染めていた。
とりあえず染めてみた感満載のくすんだ茶髪が見慣れない。
送るから乗れと言われ、親の車らしい軽自動車に乗り込む。
「どう? 受験勉強は」
「……まぁ、ぼちぼちですね」
そんな、他愛もない導入など後回しにして、本題に移りたかったが、本人を前にしていつも以上に『最低』という言葉が頭をよぎった。
「“無難”な返しだね」
ふと隣を見ると彼はタバコを咥えていた。これもまた見慣れない光景だった。
「君もどう?」
箱から一本だけ伸ばしてこちらに差し向けてくる。彼も自分もまだ未成年だ。それに吸いたいとも思わなかった。
「いや、いいです」
きっぱり断ると彼は一言「そう」と微笑んでタバコの入った箱を握り潰し、咥えていたタバコを吐き出した。
「僕は多分、一生吸わないと思うな。タバコ」
いつものように気さくに笑って見せると、タバコをゴミ箱に捨てた。
呆気に取られて状況を掴めないでいると、彼は棒つきの飴を取り出して咥えた。
「別に試したわけじゃないよ。ただの思いつき、ドッキリだね。この飴も十年ぶりくらいに舐めた」
なんだそれは、と心の中で文句を言う。こっちは真剣なんだ。そう思いながらも、やはりそれも口にしなかった。もし、彼に『最低』と言われていなかったら自分はどうしていただろうと考えたから。
信号が赤になった時、彼は突然切り出した。
「最低だな、君」
どきりとした。
今年の春、初めて彼に『最低』だと言われた時のことを思い出して苦しくなる。毎日、昨日のことのように鮮明に思い出していたはずなのに、気づかないうちに随分と淡く、薄くなって褪せていたようだ。
「もう忘れてるかな?」
忘れているはずがない。
あれから一日だって忘れたことはない。その何気ない、たった一言を。
「思い出したんです。
晃さんは「そんなことあったかなぁ」とぼんやり呟く。
「その時、わかってますよって言い返したんです。酷い態度でした」
思い返せば、最低なやつだった。わざわざ気遣ってくれた先輩に悪態をついた。
「でも、あとで謝ってくれたよね」
驚いて晃さんの方を見る。視線は前、表情は変わっていない。
「覚えてんなら言ってください」
今思い出した、と口の中で飴が転がる。信号が青になる。
「それで自分のことを最低だと思った?」
『最低』と言われてから、今日彼に会うまでのことを思い出す。本当に長かった。自分のことを疑う毎日だった。
「べつに……。いくらでもいたんです。そう思えてしまう自分は。本当に……毎日のように」
ただ、今まで気づいていなかっただけ。気づかずのうのうと生きていただけだった。
あの日、晃さんに『最低』だと言われていなければ、一生そのままだったかもしれない。
――もしかしたら、気づかずに死ねたかもしれない。
「最近『良いやつ』って言われることが増えました。でも、ただ隠してるだけで俺自身は何も変わってない」
人間は変われる。
中学の時、偉そうに語っていた顧問の顔が浮かんでくる。今ならわかる。人間がそう簡単に変われるはずがない。一見変わったように見えても、本質は同じ。簡単に変われるような人間には元々何もなかったのだ。
「無意識に生きることほど怖いことはないよ」
はっとして彼の顔を見る。やはり表情は変わらない。彼は時々、言葉に余白を作る。考える余地を与える。
「無意識のまま死ねるなら、幸せじゃないですか?」
できるなら、俺もそうありたかった。きっと、以前の自分には戻れない。
そんな気がした。
「君は最低じゃないよ」
ずっと聞きたかった言葉だった。
この言葉を聞くためにどれだけ悩んだだろう。この一言でどれだけ救われるか。
「もう、俺がそう思えない」
彼の顔を見ることなく、俺は深く項垂れた。
最低。 大石 陽太 @oishiama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます