増田朋美

その日も、寒い日だった。本当に寒いなと感じさせる日だった。なんだか暖かい日は夏の初めくらいを感じさせるくらいに暖かいのに、寒い日は、本当に冬みたいに寒い日が続いてしまう。なんだかどうも極端すぎるというか、そういうところが変というか、そんな気がしてしまう。もう少し、アップダウンの少ない日が続いてくれれば、もっといいのではないかと思ってしまうのであるが、そういう日はもう来ないのかなという気がする。

杉ちゃんは、いつもどおり、水穂さんに食事をさせる世話を続けていたのだが、相変わらず、水穂さんがご飯を食べようとせず、食べても咳き込んで吐き出してしまうという状態が続いていたので、

「もう、いい加減に食べろ!本当に食べないと、体が持たないぞ!」

と、でかい声で言ってしまうほどであった。ちなみに、他の製鉄所の利用者たちは、結局、杉ちゃんに世話を任せきりにしてしまう。それまでは、意欲的に世話をしていた利用者も、水穂さんに音を上げてしまうのであった。そういうわけで、自動的に水穂さんの世話は杉ちゃんの担当になってしまうのであるが、その杉ちゃんまでが、いい加減に食べろと言うのだから、相当、ご飯を食べない状態が続いているのだろう。

「本当にな、食べ物を食べないんだったら、もう何もできなくなっちまうぞ。そのうち、動けなくなって、体がだめになるよ。それじゃ嫌でしょ。ほら、食べるんだ。」

そう言って、杉ちゃんは、水穂さんにおかゆのはいったお匙を無理やり食べさせたが、水穂さんはやっぱり咳き込んで、赤い液体と一緒に吐き出してしまった。本当は言っては行けないけれど、思わず杉ちゃんは、

「ほらあ、馬鹿野郎!ちゃんと食べるんだよ。食べるの!」

と言ってしまうのだった。水穂さんは、何も返事もしないでまた咳き込んでしまった。内容物を杉ちゃんは、布巾で丁寧に拭き取った。

「そんなに吐き出しちまうんだったらな。理由があるだろう?食べない理由を言ってみな、ほら!」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、細い声で、

「食べる気がしなくて。」

と、言っただけであった。

「食べる気がしないって、お前さんさ、食べる気がしないんだったら、生きていける気もしないってことだよな。それじゃ、困るんだよ。お前さんの存在が無いと、困ってしまう利用者さんたちはいっぱいいるよ!」

「そうよ、杉ちゃんいいこと言う。あたしたちは、水穂さんに散々励まして来てもらったもんね。」

一人の女性の利用者が、心配そうに言った。この女性も水穂さんの世話をしていたが、水穂さんに音を上げてやめてしまった女性の一人であった。

「水穂さんがいなくなったら、製鉄所は、困ってしまいますよ。」

と、もうひとりの女性の利用者が言った。

「ほら、それほど、皆さん気にしてくれるんだから、ちゃんとご飯を食べてしっかりしろ。あーあ、本当は、誰か世話するのを手伝ってくれる、家政婦さんか、女中さんでもほしいくらいだな。誰か、いてくれないな。でも、どうせ、水穂さんに音を上げて、すぐに辞めてしまうんだよね。長くて一ヶ月持てば上出来。」

杉ちゃんはとても現実的なことを言った。

「そうねえ。いくら女中さんを雇っても、仕事になってしまうと、また考え方が違うのかもしれませんね。ほんと、たしかに長続きしても、長続きしないわよねえ。」

先に発言した利用者がそういうことを言った。

「それでもう悩まなくても済むかもしれませんよ。ただし、家政婦ではなくて、家政夫とよぶべきかもしれないけど。」

いきなりジョチさんがはいってきて、そういうことを言ったので、皆びっくりする。ジョチさんは、こちらに入りなさいと言って、一人の男性を連れてきた。

「はあ、メイドじゃなくて、ボーイというわけか。あるいは、フットマンとかスチュワートと言ってもいいのかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「呼び名はどうだって構いませんが、ここで働かせてくれというので連れてきました。お名前は、」

「橋本融と申します。あの政治家の方とは、同じ名前ですけど、字が違うんです。橋本はブリッジの橋に、本は本、融は、融点のゆうと書いて融。よろしくおねがいします。」

と、ジョチさんの話を続けて、男性が言った。確かに、はしもととおるという名前は、政治家にも有名な人が居るけれど、その人物とは、全然雰囲気が違っている。有名人の政治家の人は、なんだか政治家という感じが見え見えではあるけれど、この男性は、なんだかそういうことには全く縁がなさそうで、音楽や、美術などに関心がありそうな、繊細な感じがする男性であった。

「了解しました。それでは、早速、水穂さんの食事を手伝ってもらうか。もうなんにも食べてくれないからさ。なんとかして、食べさせてやりたいんだけど、食べさせるのを手伝ってやってくれ。」

杉ちゃんは、でかい声でおかゆのお皿を顎で示した。

「お食事、食べられないんですか?」

と、融さんは言った。

「そうなんだよ。もう食べてくれないから、困ってるわけ。こういうときには、誰か他人の言う事なら聞くかもしれないから、食べさせるのを手伝ってほしい。頼むぜ。」

杉ちゃんがそう言うと、融さんは、おかゆを丁寧にお匙で取って、

「どうしても、周りの方が、水穂さんに食べてほしいそうなんです。食べてください。」

と、水穂さんの方へ持っていった。水穂さんは口にしなかった。

「そうですか。それなら、電子レンジで温めましょうか。それなら、食べていただけるでしょうか?」

融さんがそう言うと、水穂さんは、それでは食べなければと思ってくれたらしい。やっとおかゆを一口、口にしてくれた。それを見て、杉ちゃんもジョチさんも、大きなため息をついた。

「じゃあ、もう一度食べてください。」

水穂さんは、ちゃんと口にしてくれた。でも、食べ終わったあとで、咳き込んでしまった。

「食べるものが体に入るというイメージに、恐怖があるんでしょうか?」

融さんが、水穂さんに聞いた。

「どうして、そういう推理を思いついたんだ?普通のやつであれば、そういう事は思いつかないよな。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「いえ、僕が想像で思いついただけのことです。他には何もありません。」

と、融さんは言った。はあ、答えに詰まっている杉ちゃんを尻目にして融さんは、こう続けた。

「食べ物は、体にたまるけれど大事な栄養を持っています。それは、体を作ったり、体を動かしたりするときに必要なものです。どうしても必要なものであることは、疑いありません。その大事なものは、食べ物で取らないとだめなんです。だから、しっかり食べましょう。」

「はあ、うまいこと言うな。だけど、水穂さんに果たして通じるかな?」

杉ちゃんがそう言うと、融さんは再びお匙を水穂さんの前に差し出した。水穂さんは、食べなければならないと思ってくれたのだろうか。おかゆを口にしてくれた。今度も咳き込んでしまうかなと思ったら、そのようにはしなかった。

「ああ良かった。水穂さんにやっと、お話をしてくれるやつが出たぞ。これからも、水穂さんの世話をしてもらおう。」

「杉ちゃん、少し黙っていたほうが良いのではないですか?」

発言した杉ちゃんに、ジョチさんが少し止めるように言った。その間にも、融さんは、水穂さんにご飯を食べさせることを続けている。融さんの説得が効いたのか、水穂さんは咳き込まずにご飯を食べてくれた。

「バンザーイ。完食だ。」

杉ちゃんが思わずいうと、

「良かったじゃないですか。本当にありがとうございます。やっと水穂さんが、食べ物を食べてくれるようになってくれて、僕も嬉しいです。」

ジョチさんも思わず言った。

「いえ、大したことありません。僕はただ、当たり前のことを言っただけのことですよ。当たり前のことを当たり前に行うのは、大事なことじゃないですか。それはやっぱりちゃんと実行したほうが良いと思うんです。別に、なにかの宗教にはいっているとか、そういう事はありません。でも、当たり前の事は、当たり前にしたいんです。」

融さんは、にこやかに笑って言うのだった。その顔は、本当に風流人という感じがして、一般的な人という感じではなかった。

「ええ、ありがとうございます。確かに当たり前のことを当たり前に行うということは大事ですね。それは、誰の教えでも謳われております。」

ジョチさんがそう返すが、融さんは、それだけのことですといった。

「そうかなあ。お前さんくらいの年齢でそんなふうに達観しているような男は、そうはいないよ。絶対なにか、わけがあるだろう。もし、可能であれば、それを話しちまえよ。お前さんも、支えていること話して、楽になっちまえば良いんじゃないの?」

と、杉ちゃんがそう言うと、融さんは、そんな事ありませんとだけ言った。水穂さんが布団に寝転がったまま、それ以上は聞かないほうが良いと言った。杉ちゃんは、そうだねえと言って、でも何かあるなという顔で融さんを見た。

「まあ、良いじゃないですか。今どきの若い人が、いつもチャラチャラしていて、ヘラヘラしているだけの人間ばかりでは無いと言うことですよね。ちゃんと、彼のように真剣に考えている人も居ると言うことでしょうね。」

ジョチさんは、感心したように言った。

「じゃあ、次は、水穂さんに、薬を飲ませてだな。あと、着るものを着替えさせよう。体も拭いて。今寒いから、電光石火でやらなくちゃならない作業だぞ。手伝ってくれるな?」

杉ちゃんがそう指示を出すと、

「はい。わかりました。なんでもお申し付けください。僕は、何でもしますから。」

融さんはにこやかに言った。その通りに、薬を飲ませることも、体を拭いて着物を着替えさせることも、融さんは手伝ってくれた。それに、みんなが嫌がる憚りの付き添いまでちゃんとやってくれる。

「介護人の離職が多いというが、彼のようにちゃんとやれるやつも居るんだな。本当に介護人に向いているやつかもしれんぞ。」

と、杉ちゃんがいうほど、彼はテキパキとやってくれるのだった。その翌日も、ちゃんと決められた時間に製鉄所に来てくれて、水穂さんの世話もしてくれるし、庭の掃除もしっかりしてくれた。彼が不平を言うのを杉ちゃんたちは、聞くことがなかった。

それから、数日たって。いつもどおり、杉ちゃんたちは、融さんが製鉄所に来ることを待っていたが、いつまで立っても融さんは現れなかった。おかしいなと杉ちゃんたちが思っていると、製鉄所の玄関前に、ピカピカの高級車がやってきて、一人の女性が、製鉄所の建物内にやってきた。年は、50代から60代くらいの女性で、結構財があって、何でもできそうな女性という感じがした。

「失礼いたします。こちらが、製鉄所と呼ばれている建物ですね。」

女性は、いかにも身分の高そうな感じで言った。

「はあそうだけど、お前さんは何者だ?」

身分を関係なく話せるのは、杉ちゃんだけだった。

「ええ、私、橋本融の母で、橋本純子と申します。」

と、女性はいった。

「は、はあ、お母さんなのね。それで、今日は、僕らになんのようなんだよ。」

杉ちゃんが思わずたじろいでしまうほど、その女性は、身分が高そうで威厳があった。とりあえず、ジョチさんが、

「玄関で話をしても始まりません。応接室に入りましょう。」

と言って、彼女を、応接室へ招き入れた。女性は、

「こちらは、段差が全く無いんですね。車椅子の方がいらしているからでしょうか。それは、発展を妨げることになりますよね。」

なんて言っている。杉ちゃんは、

「妨げだなんて、僕らはちゃんと生きてるんだけどな。」

と言ったのであるが、ジョチさんが、杉ちゃんの発言を止めた。

「それで、今日は、こちらになんのようでしょうか?あなたは、どんな用事でこちらにいらしたのですか?」

ジョチさんは、橋本純子と名乗ったその女性を、椅子に座らせた。そして、ジョチさんも、椅子に座った。世話好きな杉ちゃんが二人にお茶を出した。

「用事と申しますのは、息子の融が、こちらで雇用契約を結んだそうですが、それを解除していただきたいんです。」

と、純子さんは言った。

「はあ、そうか。でも、融さんだっけ、あいつは、本当によく働いてくれるし、何より介護の仕事が楽しくって仕方ないって感じの顔していたけれど、それは、違うのかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、それは違います。融が他人の世話をして、なにかをするということは、まずありえませんもの。あの子は、昔から、体も弱かったし、精神面でも、軟弱な子で、そういう仕事には向かない子でした。だから、すぐに辞めさせたいのです。本人ができないのなら、親である私がしなければならないでしょう。」

と、純子さんはそういうのである。

「そうかも知れませんが、本人はとても楽しそうに仕事をしてくれますし、水穂さんの世話だって、しっかりしてくれます。確かに、軟弱な人かもしれませんが、それは、本人がなんとか解決する方法も学ぶと思いますから、それは、あえて手出しをしなくても良いのではないでしょうか?」

と、ジョチさんがそう言うと、

「いえ。楽しそうだなんて。そんな事、絶対にありません。融は、昨日から、また妄想の症状が強く出てしまうようになりまして、それで私が今日、こちらに行かせるのをやめさせました。これ以上、症状が悪化してしまったら、おかしくなってしまうかもしれない。それでは、いけませんから。」

と、純子さんは言った。

「うーん、そうだけどねえ。確かに症状があるのかもしれないけどさあ。でも、僕だって、ご覧の通り、足が悪くて、歩けないけど、周りのやつに手伝ってもらいながら、それなりに良い生活させてもらってるよ。だからねえ、僕が思うに、人が人に迷惑をかけるのは、当たり前だと思うよ。それで、多かれ少なかれ、誰かに迷惑かけて良いと思うけどね。それは、誰でもそうなんじゃないの?だから融さんだって、多少妄想じみたことをいいながらも、ここへ働きに来てくれてもいいんじゃないのかなあ?」

杉ちゃんがそう言うと、純子さんは、

「そんな事は絶対にありません!融が、妄想を口にすることで、私達は、これまでたくさんの人に頭を下げてきました。もうこれ以上、お詫びをするわけには行きません。それでは、いけませんから、雇用契約を解除していただきたいんです。」

と、言い張るのだった。

「たくさんの人っていいますけどね。それなら、今まで何人の人に頭を下げたのか、ちょっと教えてくれるかな?」

杉ちゃんが言うと、純子さんは、

「病院の先生や、精神保健福祉士さん、看護師さん、その他いろんな方に、お世話になりました。」

と答えた。

「何だ、たったそんだけか。それなら僕のほうが迷惑をかけているぞ。だって僕、階段登れないから、一緒に登ってくれって、だれかに声をかけたことはなんぼでもあるし、エレベーターのボタンを押してくれって、言ったこともあるし、スーパーマーケットで、ビニール袋が取れないから、取ってくれと頼んだこともあるよ。それが毎日だからね。何百回、誰かのお世話になっていると思ってるの?でも、そうしなくちゃ、階段を登れないし、エレベーターで目的地も行けないし、スーパーマーケットで魚のフライを入れる袋が無い。だから、やむを得ず知らない誰かに頼んでる。それで良いと思うけど?もし、お前さんの考えることが正論なら、僕は、外へ出てはいけないことになる。違うだろ?」

杉ちゃんの意見はもっともであるが、純子さんはこういうのだった。

「いいえ、あなたのような、やむを得ずそうしなければならない人と、うちの子は違います。あなたは、仕事もしているし、ちゃんと社会で認められているから、そういうことが頼めるのでしょう。ですが、うちの子は、そうじゃありません。働けないし、周囲の人からは白い目でにらまれますし。何よりも、自分の力で、自分のことがわかっていないから、誰かが止めてやらないと、大変なことを起こしてしまうんです。事実、自分をコントロールできなくて、ガラスを割ったことだってあるんです。」

「だったら、そうならないように、居場所を作って上げることも、必要なんじゃないの?人間はさ、何処か行くところがあれば、また幸福感は違ってくるぜ。」

と、杉ちゃんが言った。

「お母さん、決して、僕達は、彼の症状を悪化させてしまう原因を作ったとは思っておりません。それに、彼が一生懸命働いて、本当に嬉しいんだと言うことを、態度で示してくれました。それは、本当にありがたいと思っています。だから、彼を解雇というのは、正直したくないんですよね。こちらといたしましても、せっかく、仕事を引き受けてくれた人材が、いなくなってしまうわけですからね。」

ジョチさんは、雇い主らしくそういうことを言った。

「もし、彼が妄想の症状を出すのであれば、その時点で早退させるなりしますので、またこちらに来てもらうように言ってくれませんか。彼は嫌がる仕事も引き受けてくれて、きちんと仕事をしてくれました。だから、僕達としては、手放したくないんですよ。」

「そうかも知れないですけど、あの子は、感情をコントロールして、うまく処理することができないんです。喜びも悲しみも感じすぎて、自分で気持ちを切り替えたり、次のことへ進もうとか、そういうことができない子なんです。だから、社会に出すと言うことはとても。それは、無理なことなんです。」

純子さんは、ジョチさんの意見に反対するように言った。

「そうかも知れないけどねえ、、、。僕達は、貴重な人材だと思うけどねえ。それがなくなっちまうのは、本当に残念でしょうがないんだけどなあ。」

杉ちゃんがちょっと悔しそうに言うと、

「でも、親御さんのもとでなければ、融さんは暮らしていけないのもまた確かですよね。」

ジョチさんは、小さな声で言った。

「まあ、そういうことがお望みなら、そうしましょうか。」

ジョチさんがそう言うと、純子さんはありがとうございますと言った。それはとてもうれしそうだったけど、本当に嬉しそうなのかわからない顔つきだった。

「あーあ、僕達は、いい人材をなくしたな、本当は来てほしいのにな。」

杉ちゃんが、高級車を運転して帰っていく純子さんを眺めながら言った。

「本当は彼のような人材を、もう少し活かせる場所があるといいんですけどね。」

ジョチさんも、そういったのであった。



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増田朋美 @masubuchi4996

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