17. パン屋の店員さんについて話をする話②
◇
ある人を
はじめて聞いたときは『またまた誇張したご表現を……』などとおもったものだ。人間関係に疲れてこころを病むというのはわりとよくある話だが、
とはいえ、すべてを否定する気もない。そもそも
ようするに無知ゆえの未知というやつである。あれこれ鳴くなら井の中で。口には出さず、心にとどめておくに限る。
ちなみに、“恋煩い”という単語自体はなにも日本にかぎったものではないらしく、英語では“
……そんなところまで調べてしまうあたり、俺もしっかり
「……ふむふむ……へえぇ……ほぉぉん……。なかなかおもし……大変なことが起きてるみたいだねぇ」
正面にすわる彼は「うん、やっぱりクラスがちがうと情報はいってこないよね」などと、しみじみとした口調でコップに口をつけている。
こちらの状況を楽しんでいるのは明白。というか、隠す気もないんじゃないだろうか。にこにこぉ、にこにこぉ、とさっきから表情がとてもうるさい。
「こっちはわりと真剣に話したつもりなんですが」
「もっちろん! 僕だって真剣に聞いてますともさ。いやあこんなおもしろ……とても重大な話、一語たりとも聞き逃すわけにはいかないからね!」
満面の笑みでサムズアップするハル。その指、てめえの鼻の穴につきさしてやろうか。
……さすがに痛々しいか。目と口かいておとうさん指にしてやろうか。あん。
「それで?」
「……ん? “それで”もなにも、話はこれで全部だが」
またまたご冗談を、とハルは頭をふる。
「経緯は聞いたけど、肝心なトコロがまだ聞けてないよ」
「……えっと、つまり?」
「ず・ば・り! ついにはじめにも芽生えたんでしょ、恋心ってやつが! 最初はイヤイヤ相手をしていたはずなのに、気づけばあの子のことが頭から離れない……やだ、わたし、いつからカノジョのことを──こんなにもっ!」
「ひき殺すぞ」
「いやーおもってたんだよね、はじめには絶対ガンガンいこうぜだって、からめ手とか駆けひきとかでいくより、真正面から押せ押せでいくのが最適解だって! なんだかんだ断りきれないというか、他人の善意やら好意やらを
だめだこいつ、テンションふりきってやがる。
おもいきり冷ややかな目でにらむも、逆にキラッキラした目で見つめ返された。
普段なら『あはは……ごめんごめん』などと気まずそうな顔をして
いやまったく、なにがそんなにうれしいのか知らないが。
「水を差すようで悪いが、そんなハッピーな話じゃねえよ」
「またまたぁ。『パン屋である女の子に告白されたんだが、最近、寝ても覚めてもその子が脳裏にちらついてこまってる。これはもう、結婚すべきじゃなかろうか』なんて、はじめの口から聞かされるなんて思ってもみなかったよ」
「後半言ってないしな。……それにそんな頻繁じゃねえ」
「“ことあるごとに”でしょ。それも相当というか、もう十分だとおもうけどね」
ぎゅっと目をほそめてニコニコこちらをながめるハル。
うっとうしいコトこの上ないが……いや、まじでうっとうしいな。さすがにそろそろ殴られても文句いえなくない? これがリョウタだったら問答無用でしょうりゅうけんだったけども。
まあでも、言ってることは一理あるのかもしれない。そう考えるとあまり邪険にあしらうのもためらわれる。
そのうえで、俺は小さくため息をこぼした。
「勘違いしてるみたいだから言っとくけど、べつに付き合う気なんてないからな」
「ふーん…………。え゛?」
ぴしり、と氷の彫像になるハル。なんとなく察していたが、彼からすればそういう感じの恋愛相談だとおもっていたのだろう。気持ちはわからなくもない。俺もおなじ立場ならおなじ勘違いをしただろうから。
おもむろに、テーブルに置いたコップをもってのどをうるおす。窓の外は相変わらずの日射しだ。山側から降り注ぐセミのこえがうるさい。真っ青の空がとおく、きれいに澄み切っていて、俺はガラにもなく夏だな、なんてことをおもった。
「……まさかとおもうけど、相談内容って」
「どうしたら自然に距離を置けるかな、ってはなし」
◇
俺の長船カナに対する評価は、案外たかい。
成績優秀、容姿端麗。品行方正かつ
本心で相手と向き合うときの、裏表のない、まっすぐな眼差し。
自分の意志をはっきり伝え、押し通そうとする胆力。
ころころ変わる色彩豊かな表情と、そしてなにより、だれかのために一生懸命になれるところ。
この数か月、彼女といっしょに過ごしてみて、その魅力や長所をよく実感した。
それが必ずしも伝え聞くような評判と一致していなくたって、ほんの些細なことだ。ダイヤは腐ってもダイヤというか(そもそもダイヤって腐らないとおもうが)、たとえ輝きがルビー色になったとしても、心うばわれることに変わりはないのだから。
「──そこだけ聞くと、べつに嫌ってるようにはみえないね」
「まあ、嫌ってはない。たまにめんどくさくなるときはあるけど、元気いっぱいのウリ坊にからまれたとおもえば、かわいげもあるし」
それはどうなの……? とでも言いたげな視線は無視して、つづける。
「嫌いになったから遠ざけたい、って話じゃないんだ。むしろ逆というか、お互い落ち着いて話せるようになるまで時間がほしい、みたいな」
「……よくわかんないんだけど」
額にしわをよせてぐい、と顔を近づけてくる。思いのほか深刻なその表情に、俺はおもわず苦笑をこぼした。
「困るだろ。なんかの拍子に、うかつなことを言ったりしたらさ」
夏の魔法──なんてたいそうなものでなくとも。
少しでも、気をもたせるような発言や、態度を見せてしまえば。彼女はいったい、どうするんだろう。
「その気にさせておきながら『悪いけど、俺は付き合う気ありませんから』なんて、薄情にも程がある。ゆっくり、おだやかに風化してくならまだしも、“ひょっとして”なんて期待をさせるのはあまりに酷だ。そうなるまえになにか手を打っておかないと、っておもったんだよ。──まあ、俺の我がままであることに変わりはないけど」
そう、我がままだ。
他人の気持ちなどお構いなし、これまでどおりに接する自信がないからちょっと離れていてくださいなんて、どれだけ人を軽んじれば気が済むんだろう。
それでも、たとえ
距離を置かれていると、避けられていると知れば、彼女はどうおもうんだろう。
離れた方がいいとおもって、そうしようと決意したはずなのに……けっきょく拒み切れない自分がいる。
なんて矛盾、なんて中途半端な。こういう
「──あのさ、まず前提がおかしいとおもう。彼女が傷つかない最善手っていうなら、付き合ってあげればいいんじゃないの? その子は好きだって言ってくれてるわけなんだし。はじめの中では整理がまだついてないんだろうけど、そんなの付き合い始めてからでも遅くはないんだしさ」
「“あげる”なんて、何様だよって話だろ。俺とあいつじゃいろいろ釣り合えねえよ」
見た目も中身もさ、と付け足して肩をすくめる。
こういう言い方は卑怯だとおもうけど、まぎれもない本心だ。
「俺はそんなに、器用な人間じゃないよ」
彼女がつらそうな顔をしていたとき、なにかに思い悩んでいたとき、それを少しでも和らげてあげることが、明るく笑顔にしてあげられることが、俺にできただろうか。
──たぶん、そんなことをおもうことすら、分不相応な話だ。
重苦しい沈黙が部屋におちる。ああ、申し訳ねえな、なんて
それでも、彼の口から答えをきいてみたかった。
彼女がいるからとか、コミュニケーションがうまいからとかは関係ない。かしこさとか、常識的かどうかでもない。それは、彼がいちばん────。
ハルは薄く目をあけて、じっとこちらを見ていた。相変わらずの深刻そうな表情からは、なにを考えているのか読み取れない。怒っているのか、呆れているのか。
やがて、あきらめたようにふぅっと息をついた。形のととのったうすい唇に、困ったような笑みがうかぶ。
「──はじめはさ。他人のこと、よくみてるよね」
「……なんだよ、急に」
急なセリフにおもわずたじろぐ。場違いな賛辞はなおもつづいた。
「周囲の言葉なんて気にせずにさ、向き合って、観察して、そのひとがどんな人物なのかって見つめ直す。混じりけなしの瞳でみて、その人のいいところを見つけ出す。部長さんにしたって、僕にしたってそう。きっと、その子に対してもそうだったんじゃないかな」
どこか、遠い目をして語るハル。なにを思い出しているのか、口調にはほんのり懐かしむような響きがまじっている。
それが急に、冷たいものにかわった。
「だけど反対に、自分に対してはひどく
一歩ひいた立ち位置。自分は主役ではなく、観客なのだと。
周囲の人間を舞台に立たせて、
「ありのまま受け入れる人もいれば、そんな在り方を好ましくおもう人もいるとおもう。逆に、冷たく当たっちゃう人とかもね。ま、付き合い方なんて人それぞれだから、どれが正解かなんてわかんないけどさ。少なくとも、僕から言わせてもらうとすれば──」
ハルはいちどそこで言葉を切った。それから、なんでもないことのように、こう言った。
「──馬鹿じゃねえのっておもうよ。自分ひとりが特別なんて、自惚れにもほどがある」
ぐしゃり、と腹の底をにぎりつぶされたようだ。
ああ。ほんとうに、容赦のない。
ハルの言い分はほとんど合っている気がした。まったくの見当はずれの気もした。
無性に言い返したくなって、けれど、不思議としずかな心で受け入れている自分もいる。
「そういうところだよ」
はっとして見上げる。頭上では、いつのまにか立ち上がっていた彼が力なく笑っていた。
「いまのは、怒っていいところだとおもう」
「…………助言を求めたのは、俺だろ」
つられるようにして、こちらも笑う。
不思議と怒りはなかった。彼の言い分はともかく、怒る道理もないとおもったし、なによりそんな顔をさせてしまったことが申し訳なかった。
「……ほんと、筋金入りだよね」
そういってハルはとなりに腰をおろした。呆れ半分、ひどいことをいったことへの申し訳なさ半分、といった気配が横からただよってくる。
「俺は……
「自分のことって意外と自分じゃ見えないものだとおもうよ。それともなに、友人の言葉じゃ信用できない?」
ずいぶんと痛いところをつくものだ。苦い顔を向けると、いたずらげな笑みを返された。
「僕ははじめの過去を全部知ってるわけじゃないし、行き過ぎた卑屈さがなにを起因にしてるのかもわからない。けど、そろそろかなーっておもってるよ」
「そろそろって、なにが?」
「いい加減、知る努力をするべきだ。自分のことも、自分の周りの世界のことも。そんなヘンテコな色眼鏡は捨てて、正しい角度と多くの視野で。まあつまり、
『ユー、楽な方へ逃げるな。ちゃんと向き合え』って感じかな」
びしっと人差し指をつきだされる。芝居がかったセリフが、かえって言いたかった本心なのだと気づかされた。
「そんな簡単には、変われねえとおもうけどな」
「だれかを傷つけるよりはマシ、でしょ?」
有無を言わせぬ口調だ。となりを見ると、ふたたび怖い顔をしている。
「はじめって意外とめんどくさがりなところもあるから。自分のことについてはわりと逃げがちだよね」
気持ちいいくらいにあたってる。返す言葉もございません。
「距離を置くって話も、自分の感情に向き合うのがめんどくさくなって逃げたんじゃない?」
おっと。なんだか死にたくなってきたぞ? ……ああ、こういうところか。逃げがちってのは。
「でも」
そこでハルはふっと笑い、視線をはずした。表情とは裏腹に、つづく言葉には確信めいた響きが乗っている。
「誰かのためなら、はじめは逃げない」
…………。
それは……。
「買いかぶりすぎ、なのでは?」
「さあ? 少なくとも、僕だってそれなりに見てきたつもりだよ」
部屋にわずかにのこっていた重たい空気を、吹き飛ばすようにハルはわらう。気配り上手な彼らしい行動だ。しょうじき、自分とは比べるべくもない人格者だとおもっている。
そんな彼の、友人の言葉を、信じないわけにもいかないだろう。
「……手厳しいなあ」
おそらく、彼女から身分違いな告白を受けてから、ずっと知りたがっていた答え。それをようやく得られたのだとおもう。
敵わないなあ、とおもう。
俺たちの中で彼が一番、容赦がない。
知りたがらない答えを、聞きたがらない言葉を、問答無用で浴びせてくれる。
「やっぱ、相談するならハルだったかな」
「それ、リョウタに聞かれたら怒られるよ」
なんにせよ。彼は知る努力をすべきだ、と言った。無知を無知のままに、背をむけるなと。
その通りだとおもう。幕を閉じ、ひとり客席で縮こまっていても話は進まない。暗闇の中、他人につける傷のことをおもいわずらうというのもバカな話だ。井の中で鳴いていたってはじまらない。そろそろ海原にこぎだすときらしい。
それが俺にとって、ひどく
なんとなくふたりでソファーに寝そべった。そんなに時間は経っていないだろうに、ここ一週間分の体力をつかい切った気がする。
自分のコップに手を当て、すっかりぬるくなったジュースを力なく見つめていると、となりでハルがぽつりとつぶやいた。
「僕にもいずれ紹介してよね」
「……ご縁があれば」
数秒の沈黙のあと、どちらもぷっと噴き出した。なぜかとまらない笑いにふたりで身体をふるわせていると、下の階からどしどしと重たい足音が聞こえてくる。
ばん、といきおいよく扉がひらかれた。
「あっっっつ!! 」
まじ真夏の外はバイオレンス、白い渚でアンビバレンス~♪ などと顔中に汗をくっつけ陽気な鼻歌で部屋にはいってきたリョウタは、床にころがるふたつの死体をみて静止した。
「……おまえら、なにしてんの?」
「あー……ちょっと腹筋を、少々」
意味わかんね、とつぶやきコンビニの袋をテーブルにおく。がしゃり、と氷の音がした。
「ほい、ハルにはピノ~。ハジメには
「ありがと」
「おう」
素直に受けとる俺たちにリョウタはいぶかしげな視線を向けたが、べつに気にする必要もないと考えたのか、すぐにゲーム機を手にテレビへ向き直った。
「っしゃ、じゃあ再開といこうぜ! いやもう完璧なプラン整えたわ。次こそ逃げ切りまちがいなっし!」
「……おまえも元気だよな」
「リョウタ、そのまえに汗ふけば?」
お? そうだな、などといって服を脱ぎだす。汗をふき、部屋の入口のコートかけに無造作につまれたシャツを一枚つまんで、それをいそいそと着だす。まったく忙しないやつだ。
うちわで風をおくりながら、ふとおもって口をひらいた。
「おまえは悩みとかなさそうだよな」
「おう! なんたって心のなかにいつも女神様をいだいているからな!」
にかっとキメ顔をよこしてくる。そういうやつですよね君は、なんて適当に返事をかえした。
案外、考えなくても世界はいいように回るのかもしれない。
なんだか急にバカらしくなってきた。テーブルに頭を横たえると、袋からはみだしたアイスが目に入る。指ではじくと、ちょうど窓の向こうで風鈴がちりん、と鳴った。
パン屋の店員さんに告白された話 灯比野 ヒビキ @bikky673
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