第2話
1Kの狭いボロアパート、勇気を振り絞って部屋に入ってみた感想は「至って普通」だった。
玄関の扉を開けると、板張りの廊下があり、両側にキッチンと洗面所がある。洗面所の奥には風呂場があり、特別綺麗というわけでもないが耐え難いほど汚いというわけでもない。
しかもユニットバスではなく、トイレは独立式になっている。正直、田端の家より条件は良い物件だった。
事故物件という点をのぞけば。
「お風呂と壁紙、あと押し入れなんかはリフォームしましたから、綺麗ですよ」
そう教えてくれたのはこのアパートの大家である
五十代くらいだろうか、少し白髪の混じった髪をゆるくまとめて、毛玉がところどころにくっついているセーターを着ている。
「あんなことがなければねぇ、問題なく住める良いお部屋なんですけど」
頬に手をあててはぁ、とため息をついた。あんなことというのはこの部屋が事故物件になってしまった原因だろう。
「その、もしよければそのあんなこととやらを教えてもらえませんか」
「えぇ、もちろん。あなたたち、その為にいらっしゃったんでしょう?しかし物好きですね、わざわざここに住もうだなんて。まぁうちとしても、これで部屋自体に問題がないことがわかればこの部屋でもいいって人も増えますからありがたいことですけどね。でも、本当に気持ちの良いもんではないですよ」
「はい、大丈夫です。一応御祈祷も朝受けてきたので!」
今朝、神社でご祈祷してもらったお
本当は事故物件を生配信するという企画上、できるだけ良い画を取る為に祈祷なんかはしないほうがいいのだろうけれど、命は大事にしたいし、祈祷は絶対に受けたいと長谷川が譲らなかったのである。
「わかりました、お話します。確か、数年前のことです。この部屋には親子が住んでいたんですけれど、その母親がひどい親でね、子供が育児放棄の末ここで亡くなったんですよ」
育児放棄、なんとも後味の悪い話だ。
背筋がぞっとすると共に、胸に重たいものがつまったような気分になる。子供が死ぬなんて話は、誰が聞いたって気分のいいものではない。
横をみると、長谷川は既に真っ青な顔をしている。おいおい、こんなことで一カ月大丈夫なのかと田端は不安になった。
「名前は
カーテンに遮られて薄暗く、ごみの臭いに混じってたちこめる腐敗臭に、いない母親と残された小さな靴。
何が起きているのかは容易に想像がつく。その後、警察官が到着し、谷本さんが聞いたのは押し入れで小さな男の子の死体が発見されたということだった。
骨と皮だけのような状態で、死因は餓死。周りには菓子パンの袋がいくつか散乱していたらしい。
男の子は検屍の結果、やはりこの家に住んでいた悠斗くんで、死後二週間以上経っていた。
母親は現在も行方不明で、おそらく悠斗くんを放置したままどこかへ行ってしまったのだろう。
「父親はいなくてねぇ、母親が一人で育ててたけどけっこう男の人も連れ込んでたみたい。私は悠斗くんを見かけたのはほんとに一度きり、外で大泣きしているのを見た時だけ。がりがりで多分ごはんもろくに食べていなかったんでしょうね。一度うちに連れてきて夕飯を食べさせてあげたけど、少ししか食べれなかったわね。胃腸が慣れてなかったのよ、そんなことありえますか?」
よくテレビのドキュメンタリーなどでこういった話をみたことがあるが、実際に聞くのとはやはり違う。
長谷川は田端の隣で真っ青だった顔がもはや顔面蒼白になり、泣きそうだったし、田端もすっかり気分が落ち込んでいた。
幽霊が出る、でないとに関わらず、こんな場所には住みたくない。
「そのあとこの部屋には誰か住んでたことがあるんですか?」
「いいえ、まだ誰も。警察が捜査しなきゃいけなかったし、その後に内装のリフォームをした時点で結構時間が経っていて、ニュースにもなっちゃったから入居者も全然いなかった。そしたら今回あなた達が住んでくれるっていうから今回企画をお引き受けしたのよ。何もなければいいんだけど」
「谷本さん、やめてくださいよ。なんも起きませんって」
長谷川は、はははと乾いた笑いをあげながら谷本さんに突っ込んだ。完全にビビっているのか、冷や汗をかき、頬がひくついて目が笑っていない。
「そうね、悠斗くんはいい子だったもの」
谷本さんの目にうっすらと涙が見えたような気がした。
大家さんというのも色々と大変そうだなと思いながら、田端は部屋の隅に背負っていた荷物を置く。
「谷本さん、ありがとうございました。あとは何か気をつけることはありますか?」
「そうねぇ、まぁ特に基本的なことを守っていただければね。あとここは壁がそんなに厚くないから、あまりうるさくしないようにね」
谷本さんから小さな部屋のカギを預かると、ぺこりと頭を下げた。
「あ、そうだ」
玄関を出ていこうとした谷本さんが思い出したようにくるりと振り向いた。
「その押し入れ、開けるときは二回、ノックしなきゃダメよ」
ぞわりと体中の毛が逆立つのがわかった。谷本さんは笑顔だ、至って普通の笑顔。
ただ、口にした言葉と笑顔があっていないのだ。
ちぐはくだ。
どう考えてもおかしいことは明白だった。だって普通、押し入れをノックする理由なんてない。
ノックをする必要があるのは、そこに誰かがいる時くらいのはずだ。
「それじゃあ」
バタンと扉が閉まり、田端と長谷川は勢いよく後ろを振り向いて先ほどの押し入れを見た。
特になにか異常があるわけではない。至って普通の押し入れだ。
でも、さっき言ってたじゃないか。この押し入れでは子供が死んでいたのだ。
母親に見放されて、飢えて死んだかわいそうな子供が。
「せ、先輩……お、お札貼っときましょう。荷物そんな多くないですから、俺、今日布団じゃなくても全然いいし……」
長谷川の声は震えていた。
「……そうだな。大丈夫だろ。きっとおれたちをビビらせようとしてるんだって。ほら、こういう企画だからさ、スパイスだよ、スパイス。今のやつ、動画とっておけばよかったな…ははは」
二人のひきつった笑い声だけが部屋の中に響き渡る。
何もいるわけないじゃないか。
あんなの、大家さんのお茶目なジョークに決まってる。ここで子供が死んだのは確かだとして、それが俺たちに何の関係がある?
「先輩、俺、もうくじけそうです」
「おい、お前が言い出したんだろ、とりあえず一カ月頑張ろう。ここがふんばりどきだ、これがバズれば色々とできることが増えるかもしれないんだからさ」
長谷川の背中を叩いて励ましてやる。
もちろん田端だってもう既にくじけそうだった。怖いのが得意なわけでも好きなわけでもない。
けどここでやめて何になる?売れない芸人の湿っぽい生活に戻るだけだ。少しでもいいからチャンスがほしい。
その為なら心霊体験の一つや二つくらい我慢できる気がした。
とりあえず、先ほど神社でもらったお札を押し入れに貼り付けようと、リュックからお札を二枚ほど取り出す。
そしてそれを貼り付けようと田端は襖に近づいた。
「まま」
襖のほんの僅かな隙間から、真っ黒な丸い目が田端を見つめていた。
「ひ、」
喉元が引き攣り、悲鳴とも言えない様な音が口から漏れる。
今すぐ逃げ出したいのに身体が動かない。皮膚が泡立ち、寒くもないのに歯がガチガチと震えていた。
本能が危険だと告げている。
これは悪ふざけで済む様なもんじゃない。
本物だ。手出しをしてはいけないものだ。
「まま、まままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままま」
「うわあああああああああああ!!」
襖の隙間から、無機質な音が田端の耳へと流れ込んだ。
人間の声とは思えないような、壊れた機械が発している様な不気味な音だった。
「せ、先輩?!どうしたんっスか?!」
大声をあげ、後退りした田端を、驚いた長谷川が受け止める。
「あ、あそこに、今、子供が……」
「こ、子供ぉ?」
田端は押し入れの隙間を指さすが、そこにはうっすらと押し入れの床板が見えるだけだった。
長谷川も怯えながら押し入れに近づくが、特に何もないと言う。
「……ちょっとぉ。カメラ回ってないんでそういうのは今いいんですけど?」
「いや、本当に居たと思って……」
「どんだけビビってるんですか。逆に俺、怖さ吹き飛んじまいましたよ。幽霊だってこんな昼間にわざわざ出ないでしょ」
夢?幻覚?
田端は頭が混乱していた。
たしかに押し入れに目玉を見たと思ったのに。それにあの声だって。
しかし、長谷川の言う通り、改めて見てみる押し入れには特に不審な点はない。
外は太陽が燦々と差していて、幽霊が出るにはどう考えても不適切な時間帯だった。
昨日は深夜まで酒を飲みまくっていたから、まだアルコールが抜けていなかったのかもれしれない。そうだ、そういうことにしようと田端は無理矢理自分を納得させた。
「あはは!さっきの悲鳴やべー!今日の夜の配信では、さっきよりもすげー悲鳴お願いしますよ、先輩!」
長谷川は田端が大袈裟に怖がったのだと思って、すっかり怖さが吹き飛んだらしい。
田端も仕方なく、愛想笑いを返す。
しかし、隙間からはまだ視線を感じるような気がして、田端はしばらく鳥肌が止まらなかった。
事故物件 茶々丸 @beansmameko
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