槙事務所の清掃日報 購入者特典
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Ep/001 交差点
眠らない街の灯りが次々と車体に反射し、黄金の飴細工のように伸びては千切れタクシーが走り抜けていく。タクシー運転手の荻野(おぎの)は注意深く客を探しながら大通りを走っていた。ふと背の高い男が手を振り、体を投げ出さんばかりに車の前に躍り出た。随分と強引なやり方だ、と荻野はいささかむっとしながら歩道に車を横付けし、後部座席のドアを開けた。
「やっと拾えた。雁掛(かりかけ)交差点まで」
その男は身を縮めるように乗り込み、手短に行き先を告げた。雁掛交差点。そのあたりは郊外で、目立つものは何もなかったはずだ。自宅が近くにあるのだろうか。昨今は自宅を特定されたくないゆえに近くの駅や施設を指定することは女性客にはよくあることだが、交差点の指定は珍しい。
(珍しい・・・というか、怪しい客かも知れない)
職業的勘が働くような気がして、荻野はバックミラー越しにその客をさりげなく観察した。上下黒の安そうなスーツにノーネクタイ。ビジネスバッグのような荷物は持っていない。かなり癖のきついくせ毛が目深に伸びていて、すき間から薮睨みの目が覗いている。鼻梁はすっきりとしているが頬も唇も薄いさまからはどこか酷薄な印象を受けた。そして男らしさを主張するような顎髭が、(まともな会社員ではないかもな・・・)と荻野の警戒心を刺激した。
「雁掛交差点・・・自宅の近くですか?」
「ええまあ、そんなとこ」
タクシーは繁華街を抜けて郊外へ向かう。深夜23時。郊外の店はとっくに灯りを落とし、時折通り過ぎるコンビニの青白い光が道路を照らしている。タクシーは住宅街を走り抜け、うら寂しい郊外へ入った。住宅の合間に畑が点在するような道、営業しているか怪しいガススタンドを通り過ぎる。道路を照らす街灯の間隔も遠く、ヘッドライトの灯りだけが前方を照らしている。
「もうすぐですよ。」と客に声を掛けた。雁掛交差点まではもう5分をかからないがこの男は深夜、こんな場所に何の用があるのだろう。「あの・・・大丈夫ですか?この辺本当に何もないですよ」
「ええ。大丈夫です」
確信を持った口調で男が答える。バックミラー越しに、目が合った。荻野はなんだか不安になってきて、運転手仲間の間では稀に聞くことがある話を思い出した。
(まさか俺は幽霊を載せているんじゃないだろうな)
幽霊がタクシーに乗る話。若い女を載せ、家の前まで行ったらその客の葬式をやっていたとか、行き先が深夜の墓場だったとか。荻野は身震いした。営業所でそんな話を聞いた時は与太話だと笑っていたものだが、実際に直面しているのではないかと思うと背筋がピリピリと痺れ、ハンドルを持つ手が妙に冷える。交差点に着くのが怖く恐ろしく思えてきて、荻野はアクセルを緩めた。
「お客さん・・・支払いはどうされます?」
木の葉のお金じゃないが、幽霊だとしても運賃を踏み倒されては敵わない。自分を落ち着かせる意味も込めて、荻野は恐る恐る聞いてみた。
「カードで。出来ますか?」
「ええ・・・勿論です・・・」
これ以上の乗車を断る理由も特になく、雁掛交差点に到着した。しかし荻野の体調は最悪だった。手が震え冷や汗が止まらず、頭痛もしてきた。交差点(ここ)は嫌な感じがする。しかしもうすぐだ。仕事が終わればこの、幽霊みたいな怪しい客ともこの場所ともおさらばできる。
「着きましたよ。・・・5600円です」
「あれ・・・運転手さん、体調悪いですか?」
すぐに降りてくれればいいのに、余計なことを。そう思うが相手は客だ。
「いや・・・大丈夫ですよ。5600円になります」
「思い出しましたか?」
「はっ?」
何のことだ。さすがに苛っとして、勢いよく男の方を振り返った荻野の顔は右半分がグチャグチャに潰れ、剥き出しになった骨にも肉にも無数のガラス片が突き刺さっていた。左の眼球も潰れかけて真っ赤に充血し、白っぽいどろりとした塊が頭部の裂傷を伝って血まみれの制服にぼとりと落ちた。
「此処で何があったか。荻野大河さん」男は眉ひとつ動かさず荻野を見ている。「どうも、除霊師の槙です」いつもの癖なのか槙と名乗る男は慣れた手つきで名刺を差し出すが、荻野は受け取る気になれなかった。
「おっと失礼」
慌てて胸ポケットに仕舞っている。
「こっちです」
槙は車を出て、交差点の反対側を指さした。枯れかけた沢山の花や飲み物の缶が街灯に照らされ色褪せた様子で闇に浮かんでいる。
「一か月前、客を乗せたタクシーと右から来たトラックが衝突する事故がありました。運転席が潰されたタクシーの運転手は即死だったそうです」
言われてみれば・・・と荻野は記憶を辿った。いつもと同じ夕方のラジオを車内に流しながら客を目的地に運んでいた。この交差点は車通りも少なく信号のない交差点だ。ただ、右から左へ抜ける道路がカーブになっており見通しが悪い。此方が優先道路で本来なら相手に一旦停止義務のある交差点だった・・・が、相手は急いでいたのか魔が差したのだろう。荻野が交差点に侵入した時にはすでに運命が決まっていたのだ。
「よくあることです。突然の死が認識できず、霊体だけが現世を彷徨い生前と同じ行動を繰り返してしまう。
思い出しましたね?あなたは此処で死んだんです。」
ぼんやりと花の方を見ていた荻野がゆっくりと槙に向き直った。
「通りで、なんだかおかしい気がしたんだ・・・」
荻野の車と姿が、夜に溶けるように消えた。
除霊師の仕事がひとつ終わったのだ。
槙はシャツのポケットから煙草を出して火をつけると、肺の奥まで煙を満たして儚い酩酊を味わった。
「お疲れさん」
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