空耳がくれるもの

つくも せんぺい

ラクダのネクタイ

 アタシは所謂ではない。


 でも時々、後ろからふと声がかかったような気がして立ち止まる。振り返る。

 その声は、ささやかな声量でわっとイタズラされるみたいな、そんな感覚。

 かと言って、耳に息を吹き掛けられるような不快さはない。


 友だちや家族に、なにか言った? と聞くたびに、いや? と、否定されるから、これはそういうものなのだろう。

 でも悪いものじゃない。

 多分呼び声の主を、アタシは誰だか知っているから。


  ――わっ


 そう囁くような呼び声に、顔を上げるけど誰もいない。いつもは雑踏の中や、学校や家族といる時に聞こえて、アタシ自身も気のせいかな? と思っていたけど、今日はそうはいかないようだった。


「ふむ」


 いまアタシが一人で居るのは、引っ越しの転居先。

 築半世紀? そう疑うくらい古いアパート。安い。荷物は明日の搬入で、着替えのカバンが一つ。スマホもマナー。見回す意味はない。


  ――……わっ

 

 そういうことだろう。

 なんとなく視線を引っ張られるように、まだ閉じられたクローゼットに目が行く。

 相変わらず嫌な予感はしなかったから、開けてみると赤い何かが丸まっていた。

 つまみ上げると、ネクタイ。

 赤が基調で、真ん中に大きなラクダが肩口くらいからアップで刺繍されている。状態は良かった。


 なぜこんなに目立つのに忘れたのよ。

 そう呆れにも似た感情と同時に、一つの驚きがアタシの中に湧いてくる。


「これ、おじいちゃんのネクタイと同じだ」


 小さい頃に居なくなってしまった祖父。その祖父の形見としてアタシがもらったネクタイは、確か祖父にとって特別な思い出があったはずだ。

 いまもカバンに一緒に持ってきている。


 そして引っ越し先のこの街は、昔祖父の働いていた街だった。


  ――わっ


 今日は今までにないくらいの呼びかけが届く。きっと、アタシにこの意味を知ってほしい……そういうことだと思った。

 だからと言ってできることは、まず不動産屋に忘れ物として届けることなんだけど。



 幸いなことに、このアパートを契約した不動産屋はアパートを少し下ったところにある。


「すみませーん」


 田舎アパートの田舎不動産。失礼かもしれないけど、そんな古い引き戸の店内はベルもない。


「はーい」

「今日からお世話になります。あのこれ、お部屋に忘れてありました」


 幸いすぐに出てきた店主は、真っ白な髪の毛を綺麗にセットした、アタシから見たらおじいちゃんと言える歳の男の人だった。簡単に挨拶し、要件を伝えてラクダのネクタイを手渡す。

 すると店主は驚き、呆れたように笑った。


「あらぁ、これ大事だからって最後まで持ってたのに、結局忘れてしまっているじゃないか。いや、わざわざありがとうございます。私の方から届けておきますから」


 そう店主は柔和な笑顔を見せる。


「このネクタイって特別な物なんですか? これ、祖父も持っていたんです」


 そう言って、アタシの持っているネクタイを見せると、驚いた店主からおじいちゃんの名前を尋ねられた。母方だから、自分の苗字よりも一字多いその名を応えると、


「はいはい! おじいさん、前住んでた人の先輩だよ」


 と、懐かしむ様に目を細めた。


「この街の造船所に勤めている人で、設計図が引ける技術者が退職する時に送られる物の一つが、そのネクタイなんですよ。

 広大な海原を進む船と、広大な砂漠を歩むラクダ。対称的なイメージを重ねた、なかなか洒落た記念品とは思いませんか? まぁこれを忘れた人は、老眼で受付の文字なんて見えなくなるから、OB会の目印替わりだろうって冗談言ってましたけどね」


 初めて会ったのに、ネクタイのお陰で親近感を抱いてくれたのか、店主はお菓子まで並べてもてなしてくれた。アタシは、おじいちゃんがこの街に住んでいたことは知っていたけど、造船所で働いていたなんて初めて聞いて驚く。


「設計技術者は、とても少なかったんですよ。新聞でも船の竣工記事の度に設計者は名前も載っていました。すごいおじいさんだったんですね」


 店主の言葉にアタシはおじいちゃんのことを思い出す。


 いつもニコニコして、一緒に二階のベランダのミニトマトを食べさせてくれた。

 料理は苦手で、遊び行くとお昼には袋のラーメンで、それがおいしかった。

 怒られたことは一回だけ。

 幼いから知らなくて、一人で車で待っていてサイドブレーキを外してしまった時だ。動き出した車に駆けつけて助けてくれた後に、聞いたことない大きい声で叱ってくれた。

 そしてもう起きなくなった日、泣いていたアタシに「わっ」と後ろから声を掛けてくれた。

 そんな優しいおじいちゃん。


「はい」


 言葉にするのは恥ずかしくて。アタシは店主にはそれだけ答え、再度お世話になりますと店を出た。


「自慢したかったの?」


 帰り道、アタシは呟いた。

 返事なんてない。

 けど、指先に伝わるネクタイの心地よい手触りに、この街の一人暮らしは寂しくなさそうだと、そう思えた。


「今度おじいちゃんの仕事場、眺めに行くね?」


 空に告げると、また優しいあの囁きが聞こえたような、そんな気がした。

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空耳がくれるもの つくも せんぺい @tukumo-senpei

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