こわいよこわくないよ
香久山 ゆみ
こわいよこわくないよ
「それ」は気づいた時にはすでにいた。曲がり角から、草むらから、塀の上から、気づけばじっとぼくを見てる。ゴムボールくらいの大きさで黒くて丸くて、ずっと「ねこ」だと思ってたくらい。気づくといつもそばにいた。
こないだまで視線の先にいたのが、最近は足元に丸くなっていたりする。なんだか本物のねこに懐かれたようで、悪い気はしない。それは目も鼻もしっぽもないけれど。ぼくのあとをついてくるようになった。のろのろと。
それが、いつの間にやら右肩にのっかっていた。黒くて丸くてどろりとしている。時々「キョキョ」と奇妙に鳴く。けれど、ほんのたまに鳴くくらいで、重さもなく、邪魔にならないのでそのまま放っておいた。「なんだそれ」と気に留めるような友だちもいない。
ずっといっしょにいるせいか、ことばがわかるようになった。最初に声を聞いたのは、学校帰りにいつもガウガウ吠える犬のそばを通った時だ。
「キョッ」
右肩で鳴き声がした。と思ったら、
「……キョワーい、ヨ」
こわいよ、どろりが言った。ぼくは驚きもせず自然と返事していた。
「こわくないよ」
それでぼくは早足で遠回りしてやった。犬の鳴き声が聞こえなくなった時にようやく、あれ今こいつしゃべったぞと思ったのだ。
一度話しはじめると、どろりはたびたび言葉を発した。
先生が廊下でぼくを叱ろうとした時、
「きょワいよ」
「こわくないよ」
どろりが見つからないよう、ぼくは先生を振り切って逃げた。こら! 後ろから先生の怒鳴り声が聞こえた。
公園でクラスメート達が遊んでいる時。鉄棒のまわりに集まり通信ゲームをしている。たまたまそばを通りかかる。
「あショぼ?」
キーキー甲高いかすれ声でどろりが言う。
「あそばないよ」
連中に聞こえないようにそっと小声で答える。ぼくはゲーム機を持っていないし、そもそも仲良くないし。連中はぼくに気づきもせず夢中で画面に向かっている。
「オモちろショ」
どろりまで、ぼくよりもあいつらの肩をもつのかと思って、つい大声を上げてしまった。
「面白いわけないよ! あんなくそゲーム」
ぼくの声に、クラスメートたちが顔を上げる。じろりとぼくをにらんで、「ちっ、行こーぜ」と行ってしまった。ぼくはとり残されたけれど、一人じゃない。いつの間に移動したのか、頭の上でどろりがケッケョと鳴いた。
「パパとおデかけイク?」
「行かないよ」
「ママのオてツダいシュる?」
「しないよ」
どろりはいつでもぼくについてきた。そのころにはどろりも以前より大きくなって、ランドセルみたいにぼくの背中にひっついていた。まるでぼくの背中を守るみたいに。
実際、成長したどろりは少し変わった。
「あショぼ?」
「あそばないよ」
校庭でドッジボールする連中を横目に通り過ぎようとした。が、ぴたりと足が動かない。それどころか、勝手に連中の方へ歩いていく。見れば、ぼくの足にはどろりの黒い陰が。
「あ・ソ・ぼ!」
ぼくそっくりの声でどろりが言う。連中は少し驚いた顔をしたが、すぐに「いいよ!」と仲間に入れてくれた。とても楽しかった。
「おてツダいシュる?」
「しないよ」
ぼくの返事とは裏腹に、手が水道の蛇口を捻り、スポンジを泡立てはじめた。腕にまで黒い陰がのびていル。
「おテつだい、シュる!」
ぼくは流しにたまった食器を洗う。「あら、ありがとう!」最近不機嫌だったママが久しぶりに笑顔を見せた。
どろりといると上手くいく。ぼくの代わりにどろりがしゃべることが多くなった。もうどろりなしの生活なんて考えラれない。
「どろり、ずッといッしょにいてくれヨ」
「いいよ」
どろりが答える。いつもより声が近い。いつの間にかぼくはもう体中どろり。あとは口が残るダケ。どろりがどろどろとぼくの口に覆いかぶさってくる。ま、まッて。
「こわいヨ」
ぼくが言う。
「こわくないよ」
どろりが答える。口の中へどろどろ入ってくる。コワイヨ。そう言いたかったけれど、どれだけ叫んでもキョキョとのどが鳴るだけで、その鳴き声もじきニ消えタ。
こわいよこわくないよ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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