花言葉

月庭一花

はなことば

 ……ゆい


 誰かに呼ばれた気がして、そっと振り返る。

 一面に咲き誇る曼珠沙華の海の、その向こう側に、寂しげに立つ少女の姿が見えた。

 身に纏うのは黒いセーラー服と、黒いタイツ。どこも着崩したりしていない。深紅のスカーフは胸元にきつく結わえられていて、でもなぜかそれが、とても扇情的に見えた。

 少女の長い黒髪には、まるで髪飾りのように、ほおずきの熟れた赤い実がいくつも生って、ゆれていた。

 どこまでも続く曼珠沙華の花は、野分の風にざわざわとうねりながら二人を取り巻いている。本物の海のように。赤い海のように。海鳴りに似た花擦れの音がする。そして潮の……いや、血の匂いがした気がした。


 曼珠沙華の花言葉は悲しい別れ。そして、……再会。


 この赤い花の海の中で再び出会うことは、もしかしたら最初から、決められていたことなのかもしれない。


 ……雨。


 もう一度名前を呼ばれたけれど、でも、彼女の中にはすでに何もなくて、名前も、心も、血も涙も、思い出すら……消え失せていた。この世界のことも、どうして自分がここに来る羽目になったのかも、なぜ目の前の少女がここにいるのかも、あの事件のことも、大切なあの人のことも、何もかも。

 ただ虚ろな空洞体の中に、わずかに反響を残すだけ。

 この体になって、どのくらい経ったのかも、もうよくわからない。その意味すら、もう、どうでもいい。

 少女が視線を逸らすように、振り仰いだ。釣られるように空を見上げる。

 青白い夜空に、巨大な三日月がかかっている。

 月の周りには金色の光暈。

 暗灰色の雲は渦を巻いて空の低い場所を流れ、焼け焦げて糸杉のようになった発電所跡の鉄塔を、その舌先で舐めている。

 空の上では音を立てて強風がふきすさび、雲間の星が、呼吸をするように瞬きながら、ふたりをじっと見下ろしている。

 もう、世界にはふたりだけ。

 夢の中の虚構。空虚な地獄。冷たく焼かれた、淡い幻の世界。

 これがあなたの世界なのね、と、少女がつぶやくように言った。

 それに応えるように、小さく首をかしげた。球体の関節がきしきしと軋んだ。左目から血の涙が溢れた。

 わたしの世界。その意味が、よくわからない。

 少女は自身の髪飾りのように生えたほおずきの実を一つもぎ取って、こちらに手渡すように、そっと差し出した。

 口に入った髪を払いのけ、そして彼女は小さな声で言った。

「あなたに会いに来たのよ」

 と。



 まぶたの裏が白かった。もう、朝なのか、と思った。

 なんだか奇妙な夢を見ていた気がするのだけれど、よく覚えていなかった。いつもの、あの……悪夢だったのだろうか。わからない。ただ、心がざわざわしていた、その名残だけがあった。

 植物の、濃い匂いがする。

 旅館の白い障子越しに、朝の光が畳の上の布団に、静かに届いていた。とてもとてもやわらかな光。

 全部は幻だ。そんなことはわかっている。夢とうつつのあわいに居ると、夢のもやもやがいや増してくる。ゆっくりと起き上がろうとして、でも、誰かがわたしと指を絡めているのに気づく。

 ……七緒ななおさん。

 わたしの大切な人。

 すうすうと幽かな寝息をたてながら、七緒さんが眠っている。

 少しだけ起き上がり、彼女を見つめる。はだけた浴衣の襟元から、白い胸元と、白い下着、そして、朝顔の花が顔を覗かせている。七緒さんは緑色の蔦に包まれるようにして、眠っている。まるで、繭みたいに。

 わたしと指を絡めている彼女の手にも朝顔の蔦は這っていて、それが、わたしの方にまで伸びていた。

 ふたりを結び合わせる運命の糸のようだと思うのは、わたしの驕りだろうか。

 見ていると、わたしの指のすぐ先で、そっとほどけるように、朝顔の花が開いていった。

 漏斗状に咲く、濃い藍色の、濡れたようなそぶりのその花を、わたしはじっと見つめていた。


 朝顔の花言葉は儚い恋。愛情の絆。


 七緒さんの寝顔から視線を外して、ふと見ると、自分の枕に小さな血の染みが付いているのに気づいた。

 絡み合わせた手と反対の手で耳朶に触れると、わずかに痛みを感じた。

 昨日の行為の痕が、そこに残っていた。

 指先に小さな石の感覚。

 七緒さんと同じ傷。

 南国の空と海との色を宿した、淡い貴石。

 ラリマー、という名の石だと聞いた。

 そこに込められた意味は、平和と愛。束縛からの解放。そう、七緒さんから教えてもらった。

 わたしは小さくため息をつく。

 解放なんて、されなくていい、と思う。改めてそう思う。

 だって、


 わたしは、「花言葉」しか信じない。

 

 指先の朝顔を見つめる。

 七緒さんは、まだ眠っている。

 ずっと、眠り続けていてくれてもいいのにな。

 わたしは彼女の寝顔に再び目を向けながら、そんなことを思う。彼女に咲いた花が綺麗だったから。とてもとても、綺麗だったから。


 移しちゃって、ごめんなさい。


 わたしは小さな声で呟く。

 女の人の体は不思議だ。一緒にいるだけで、周期が似通う。月の巡りが同じになる。

 わたしはもう一度七緒さんの顔を見つめる。同じように眠っているのに、七緒さんの寝息は妹の寝息とは全く違う。それがなんだか不思議だった。呼吸の深さも、リズムも、全然違う。

 けれども安心して眠るその寝顔は、なぜだろう、どこか似ているように、わたしには思えるのだった。



 待ち合わせの時間よりも早く着いたのに、七緒さんはもう駅の改札のところでわたしを待っていた。白いサマーニットに淡い色合いのサーキュラースカート、足元はラタンのサンダル。両耳には青白いマーブル模様の石の、学校では絶対にしてこない、ピアスをつけている。前髪はカチューシャで揚げていて、つるりとしたおでこが眩しい。よく見るとその白いカチューシャは、わたしが七緒さんの誕生日にプレゼントしたものだった。つけてきてくれたんだ、と思うと、じんわり嬉しさが溢れてくる。やわらかな夏めいた格好が、いかにも七緒さんに似合っていた。

 思わず駆け寄ってしまったわたしを見上げて、七緒さんがおはよう、と言った。

「おはようございます、ごめんなさい、待たせてしまったみたいで」

「ううん。わたしもさっき着いたばかりやから。気にせんでええよ」

 わたしがちらり、とカチューシャに視線を送ると、七緒さんもそれに気づいて、ふふ、と小さく笑った。

「可愛いです、七緒さん」

新音にいねはかっこええね」

「そうですか? いつもとあんまり代わり映えしない格好ですけど」

 わたしはちらり、と自分の服に視線を向けた。穿き古したタイトなブルージーンに薄手のジャケット。……胸ばかりが大きくて、どうにも悪目立ちしている。個人的にはユニセックスな服装が好きなのだけれど、この胸のせいであんまり似合っている気がしない。

「……それにしても、七緒さん、すごい荷物ですね。一泊二日分、ですよね?」

 話題を変えようと思って、わたしは視線を泳がせた。そして彼女の傍らの、大きなトランクケースを見てしまって、思わず唖然としてしまった。

「そういう新音は荷物、少ないね」

「だって、一泊ですもん」

 七緒さんの頬の産毛が、朝の金色の光に照らされて、きらきらと光っている。わたしは少し大ぶりなトート・バッグを少し掲げて見せた。

 もっとも……わたしも女だから、男性よりは多少、荷物は多くなるものだけれど。例えば、……生理用品。

「調べたらアメニティーはちゃんとしてるみたいですし、このくらいのバッグで充分足りません?」

「足らんと思うけどなぁ」

 わたしを見上げながら、七緒さんが小さく首を傾げてみせた。

 わたしは七緒さんを見下ろしながら、一つ年上のこの人の、こういうところが愛おしいんだよなぁ、と思っていた。

 七緒さんとわたしとは、高校の先輩後輩の関係だった。

 七緒さんは書道部兼剣道部のマネージャーで、わたしは帰宅部だったから、本来なら接点はないはずなのだけれど……。

 初めて七緒さんと出会ったのは、わたしがまだ中学三年生だった九月のこと。

 正式に付き合いだしたのは、去年の暮れ、十二月から。

 その間には一年以上の隔たりがあって、まさか、七緒さんから告白されるだなんて、あのときは思ってもいなかった。今でも告白されたの日のことは、夢だったんじゃないかと思うくらい、よく覚えている。

 けれどもわたしたちは女同士だ。それでなくてもわたしは身長が高くて、七緒さんは一四五センチにも満たないくらいだったから、連れ立って歩くと自然と人目を惹いた。

 レズだのなんだのあれこれ言われたり詮索されたりするのは嫌だったから。わたしたちはこの関係を、誰にも話していなかった。クラスメイトにも。誰にも。外で会うときには細心の注意を払ったし、学校でのスキンシップは当然避けた。密やかな猫たちのように、わたしたちはこっそりと交際していた。

 でも、あれは……いつだっただろう。

 まだ、寒い時期だったのは覚えているのだけれど。

 冷たい殺風景な部屋の中の、わたしたちのベッドの上で、

「姉さん。姉さんは女の人とお付き合いしているの?」

 妹の小雨こさめが、わたしの胸に鼻を押し付けるような格好のまま、そう訊ねたのだ。

「小さくて、可愛い人。見たんだけど」

 わたしはなんて答えていいのかわからず、口を閉ざしていた。

 妹の吐息が、わたしの胸に、パジャマ越しに熱く染み付いて、苛んでいた。

「……もう寝たの?」

「寝てない。まだ起きてる」

 くすくすと鈴のように小雨は笑い、そういう意味で訊いたんじゃないんだけどな。わかっているくせに。小さな声でそう呟きながら、わたしの首元に、自身の唇をそっと寄せたのだった。

 同じシャンプーやトリートメントを使用しているはずなのに、妹の髪からは甘い匂いがした。その肌からは、熟れたような、女の匂いがした。

 まだ、中学生なのに。

「七緒さんのこと、どこで見たの?」

「ふうん。七緒さん、って言うのね」

 妹はわたしの脇のところから腕を絡ませて、上目遣いに、わたしの顔を見ていた。

「高校の帰りだったんじゃないかな。夕暮れ時で、ふたり、そっと寄り添っていて。わたしには見せたことのないような顔で姉さんが笑いかけていた。本当に可愛い人だったね。花に例えるなら、何かしら」

「……朝顔」

「そうね、朝顔みたいな人だったわ」

 薄暗い部屋の中で、そう呟いた妹の目はまるで、ガラス玉みたいだった。

 首筋から頬にかけての大きな傷が、痛々しかった。

「ねえ、姉さん」

 小雨が囁くように、蠱惑的な声でわたしに訊ねた。


「もう、生理、来た?」


「ううん、今月はまだ、来てない」

 わたしの妹はわたしの言葉を確かめるように、そっと、指を動かした。

 わたしは黙って、されるがままになっていた。

 暗い、静かな部屋の中で、自分の心臓の音と呼吸の音が、やけにうるさく聞こえた。

 どのくらい、そうしていただろうか。

「姉さん。姉さんは、わたしの分まで幸せになって。姉さんの妹の分まで、恋人にやさしくしてあげて」

 濡れた自分の指先を見つめながら、小雨が小さく呟いた。

「あなただって、わたしの妹じゃない」

「そうね、そうなんだけど」

 わたしは沈黙したまま、再びわたしの胸に顔を押し付ける小雨の髪を、少しだけ震える手で、指で、撫でていた。やさしく、やさしく。細心の注意を払いながら。

 小雨が寝付くまでずっとそうしていた。

 まだ春の遠い、静まり返った部屋の中で、わたしは彼女のことを思っていた。



 ホームに並んで電車を待っていると、七緒さんが不思議そうに切符を見つめていた。

「わたしの分まで買うてくれたんはありがたいんやけど……切符、この運賃のとこまででええんやったっけ? これだと途中までやない?」

「特急券が必要な区間があるじゃないですか。だから、とりあえずはそこまで買いました」

「全部Suicaじゃダメなん?」

「旅行のときって、切符を買った方がそれっぽくて、わたし好きなんです。記念に、切符を取って置けますし。……特急券だと特別感もあるじゃないですか」

「なるほど。ええね、それ。わたしもちょっと欲しいかもやわ」

 わたしたちは顔を見合わせて、にへへ、と笑いあった。

「そういえば、新音はあと、何が残ってはるん?」

「わたしは現国と保体ですね。七緒さんは?」

「わたしも保健体育残ってるわぁ。あとは世界史と古文」

「あらら、暗記ものばっかりですね」

「そうやねぇ。あ、でも、保健体育は被るから一緒に勉強する?」

「学年が違うじゃないですか」

「実地、とか」

「……変なこと言わないでください」

 そうでなくたって、期待しちゃうんだから。

 わたしは邪な心の中を気づかれないように、照れてしまったのをごまかすように、ホームの電光掲示板を見上げた。赤く発光するする光の粒が、文字の形になって、するすると流れていく。

 それを見ていると、期末試験の最中に旅行に行く後ろめたさとか、妹を一人残していく罪悪感とかが、わたしの胸をかすめていった。

 ご飯は作り置きしてきたけれど……それでもやっぱり、気になってしまう。彼女に何かあったら、どうしよう、と。

 今まで、一度も、あの日以来一度も、離れたことがないのだから。

 ……物思いに耽りながら辺りを見渡すと、駅のホームは土曜日の朝だからだろうか、人の姿もまばらだった。ロータリーには客待ちのタクシーが止まっていて、その向こう側のファーストフードのお店も閑散としていて、それほど席は埋まっていなかった。花水木の並木には青々とした葉が茂っていた。その木漏れ日も、どこかのんびりとして見える。

「何を見てはるん?」

 七緒さんが少し首を傾げながら、わたしを見上げていた。

「のどかだなあ、って思って、見ていました」

「そう言われると、そうやねぇ」

「七緒さんはこの町が好きですか」

 わたしが不意に訊ねると、七緒さんはきょとんとした表情を浮かべ、そして少し考えてから、ようわからんねえ、と苦笑した。

「新音は?」

「わたしは……ちょっと嫌いです」

「そうなん?」

「ええ。まあ、色々。ありましたから」

 わたしがぼんやりと町の風景を見つめてそう言うと、七緒さんはわたしの手を取って、そっと指を絡めてきた。

「この町には、わたしが居るんやし。嫌なことばかりでもないよ」

「そうですよね。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 町は新しい発電所を誘致して、財政的には潤っていると聞く。関連した子会社も多く、就職先が無くて困った、という話は聞いたことがない。七緒さんの父親もたしか発電所関係のお仕事についていたはずだ。

 ここに住む人は皆、豊かで、幸せそうにしている。

 視線を上げると青い空。淡くて白い雲。

 どこまでも平和で、ここにはなんの憂いもないように見える。

 そんなものは全部まやかしだと、知っているはずなのに。わたしはつい、思ってしまう。

 この景色が、この今が、永遠に続けばいいのに、と。

 青地に白のラインの入った電車がホームに到着した。

 客はやっぱりまばらで、わたしたちは並んで腰を下ろした。

「わたし、昨日はあんまり眠れなかったんです」

「わたしもや。テスト期間中やしね。ついつい熱が入ってしもたわ」

「ええと、それもあるんですけど」

「ん?」

「その、旅行。ふたりで、って。緊張して」

「あ、うん。わたしもやわ」

「嘘、絶対嘘。七緒さんは勉強しててって今、言ったじゃないですか」

 わたしがむくれたようにそう言うと、七緒さんは慌ててそっぽを向いた。

 その仕草があまりに子どもっぽくて、わたしもつい、笑ってしまった。でも、こんな風に見えて、七緒さんはすごく勉強ができる。以前も勉強を見てもらったことがあり、今回も苦手なところを教えてもらえたら、なんて、思ったりもした。

「せめて向こうに着くまでは、勉強しましょうか」

「せやねぇ。ちょっとノートさらっててもええやろか?」

「はい。わたしも現国の教科書見てますから」

 それからしばらくのあいだ、わたしたちは黙ってノートや教科書を見返していた。ちらりと見た七緒さんのノートには、様々な書き込みがしてあった。

 七緒さんからふたりきりで出かけたい、と言われたとき。わたしはいつものデートだと思って、最初はつい、安請け合いをしてしまった。けれどもそれが、まさか泊りがけの旅行だったなんて、思ってもみなかった。

 それは六月最初の日曜日。梅雨の合間の晴れた日で、わたしたちはふたり、向かい合わせでお茶をしていた。歌川国芳の浮世絵展から帰る途中の、喫茶店でのことだった。

 七緒さんが指を数えながら、

「七月の七、八日って、新音は都合つけられる?」

 と訊ねた。紅茶の湯気の向こうに、思案顔の七緒さんが、テーブルに肘をついていた。

 今年は歌川国芳生誕百数十年という記念の年で、展覧会も大々的なものだった。七緒さんが是非見にいきたい、と話していていたのにもかかわらず、なぜか会場でもどこか上の空だったのを、わたしは少し気がかりに思っていた。

「七月七日って……確か期末テストの中日じゃなかったでしたっけ」

「え? あ、……そうやったっけ」

「はい。前に調べたので、多分」

 寝耳に水、といった感じでぽかんとしている七緒さんの目尻は、ほんのりと赤く染まっていた。

「それから、その日は……誕生日の前日、です」

「誰の?」

「わたしの、ですよ。だから予定を聞いてくれた……ってわけじゃなさそうですね」

 わたしがため息混じりにそう言うと、七緒さんはしどろもどろになりながら、そういうわけじゃなくて、ええと、と、口の中で何やらもごもごと呟いて、空中で必死に指を動かしていた。めちゃくちゃ焦っているその姿が、実に可愛らしかった。

「その、あの」

「落ち着いてください、七緒さん」

「新音……その日、なんやけどね」

「はい」

「新音とふたりで、お出かけがしたい」

「別に、構いませんよ?」

 わたしは残りの紅茶を口に含みつつ、七緒さんに向かって頷いてみせた。今日だってふたりきりなのに。そんなに意を決したみたいにしなくって、いいのに。わたしがそんなふうに不思議に思っていると、七緒さんはさらに続けた。

「お、……お泊まりしたいなって。思ったの。家族でよく行く温泉宿があるんやけど、一緒に行かへんかな、って」

「……七緒さんのご両親と?」

「……二人きりって、言うたやん」

 七緒さんちの定宿……? どうなんだろう。それって、お高かったりするのだろうか。七緒さんのご実家が取り分け裕福だという話は聞いたことがなかったが。一介の女子高校生に払えるような金額で済むならいいのだけれど。

 それから、

 わたしは心の中で指を折った。多分、大丈夫なはず。その日なら、まだ。

 ソーサーに置かれたカップを見つめながら、ぼんやり物思いにふけっていると、わたしの表情から何か察したのだろうか、七緒さんが小さな声で付け足した。

「そんなに遠いところと違うし。それにちょっと古……年季の入った民宿やから、そこまで宿泊費も高くはないんよ」

 聞けば、旅費を含めても、わたしの貯金やお小遣いでなんとかなりそうだった。でもそうじゃない。根本的な問題は、もっと別のことだった。

 あの日と重ならないか。

 長い時間一緒にいることになるのだ、あんな姿は、七緒さんには、見せたくない。

 あとは、妹の、小雨のこと。

 あの子を置いて、一人で出かけることが……わたしにできるのだろうか。ということ。

「やっぱり、ダメ、かな」

 七緒さんが、上目遣いでこちらを見つつ、しょんぼりした声で訊ねた。

「即答は出来ないですけど……お泊まりとなるとお母さんにも了解を得なきゃですから。だからええと、今日の夜にでもまた、連絡させてもらっていいですか」

「うん。……待ってる」

 こくんと息を飲み込んで、七緒さんがわたしに向かって、小さく笑ってみせた。

 どうして急にお泊まりしたい、なんて言い出したのか、結局そのときのわたしにはわからなかった。



 かたん、かたんと電車がゆれる。わたしは教科書の『舞姫』のページを開きながら、自身で書き込んだ文字を見つめていた。

「弱い人はいつまでも決断を下せず、ただ、薄情者になってしまう」

 と。

 ……わたしは、この主人公が嫌いだった。流されるように生きて、周りを不幸にしていく。それに無自覚で、そんな人生を送る主人公がどうしても、好きになれなかった。

 反感を覚えるのは、わたしがまだ子どもだから……なのだろうか。

 それとも……同属嫌悪、なのかもしれない。

 わたしは今、流されていないと言えるのだろうか。

 そんなことを考えながらぼーっとしていると、七緒さんも試験勉強に飽きたのか、車内の一点をぼんやりと見つめていた。

「七緒さん?」

「うん?」

 七緒さんはこちらを見ず、声だけで反応を返した。

「何を見てるんです?」

「あの人、お見舞いなんかなぁて」

 七緒さんの視線を追うと、百合とかすみ草、それからスプレー咲きの小さなひまわりの花束を胸に抱いた女性がドアの間近に佇んで、物憂げな表情で外を眺めていた。


 百合の花言葉は純潔、無垢。威厳。


 かすみ草の花言葉は無邪気、清らかな心。夢見心地。


 ひまわりの花言葉は熱愛、あなただけを見つめる。偽りの黄金。

 

 ……もちろん、花言葉で花を選んで、花束にしたわけじゃない、と思うけれど。

「どうしてお見舞いだと思ったんですか」

「百合の雄しべが取られてるから。ほら、花粉が病室でブワッてなってもうたら、困るんやないかなぁって」

「確かに百合の花粉って、落ちにくいですよね」

 わたしは、小雨が入院していたときのことを思い出していた。

 いつも病室には花が飾られていたけれど、そう言われてみれば確かに、花粉の多いものは除かれていたように思う。

「百合の花粉って、確か猫とかには猛毒なんやって」

「そうなんですか」

「うん。下手すると死んでしまうんやて。身近な植物にも意外と毒が含まれていること、多いみたいやし、気ぃつけんとね」

「ええ、本当に……」

 そういえば、ほおずきにも毒があった。

 思い出した。

 ほおずきの毒は、堕胎にも使われていたらしい。

 だから妹は……妹の花は、そうなのだろうか。

 わたしは七緒さんの横顔を盗み見て、毒、と思う。朝顔にも毒はあるんだよね、と、思っていた。



 特急列車に乗り換えて、横並びの席に座った。わたしは廊下側、七緒さんは窓側の席に。最初は七緒さんが握ってきてくれたおむすびを、少し早めのお昼ご飯に食べたりして、はしゃいでいたのだけれど、気付いたら七緒さんはこっくりこっくりと舟をこぎ始めていて、そのうち眠りの底に落ちてしまった。

 目を閉じた七緒さんの横顔越しに、景色が流れていく。

 民家が少しずつ消えて、起伏が現れ、緑が濃くなっていく。

 山の上には白く頼りなげな、満ちきらない月が浮かんでいる。

 すうすうと可愛らし寝息を立てている七緒さんを見ていると、わたしもなんだか少しだけ眠くなってしまって、思わずあくびを噛みしめた。

 昨日は遅くまで勉強していたと言っていたし。起こしてしまうのは忍びないな、と思う。

 それに。

 七緒さんの……付き合っている彼女の寝顔を間近に見られる機会なんて、そうそうないのだから。眼福、なんて言うと、ちょっと年寄りくさいかもしれないけれど。今のうちにいっぱい堪能しておきたい。

 しかしこうして見ていると、七緒さんは普通に綺麗だった。

 妹のあの、常軌を逸したような姿とは、まるで違う。

 妹が、おかしすぎるのだ。

 だって、あんなに……あれほどまでに美しい生き物が、この世にいていいはずがないのだから。

「う、ん」

 七緒さんがうめくような声をあげ、身じろぎした。

「……新音?」

「どうしました?」

 薄眼を開けて、何かを探すようにをきょろきょろとしていた七緒さんの瞳がわたしの顔のところで焦点を結ぶと、ふっ、と安堵したような色を浮かべて、そして、

 新音、と小さくわたしの名前を呼んだ。

「夢、見てたわ」

「夢?」

「うん。……新音と初めて会うたときの。新音、まだ中学生やった」

「そうでしたね」

 わたしは苦笑した。七緒さんも微笑んでいた。

「文化祭の日やったね。書道部の展示なんて、生徒は誰も来なくて暇で暇で仕方なくて、わたしはぼーっとしながら、早く受付が交代にならんかなぁ、先輩戻って来んかなぁって、そんなことばっかり思うてた。お昼のあとで眠くて……。ふあぁ、ごめん、今も眠いけど」

 七緒さんが口元を手で隠しながら、大きなあくびをした。

「書道部の展示室って校舎の端っこの方やったし。そのせいか静かやったしねぇ。午前中はそれでも父兄がいらっしゃっていたから、まだ張り合いがあったんやけど、それものうなってしもて。そんときやったなぁ、新音が来たんは」

 ちらりとわたしを見つめて、七緒さんが囁いた。

「……こんなん言うたら悪いけど、なんだか死んだような目をして、生気がなくて、真っ青な顔をしてて。病気なんかなって思った。どうして文化祭に来ているんやろうって、不思議やったわ。ふっ、と。乾いた墨の匂いが濃くなった気がしたんをよく覚えてる。新音は作品が飾ってある教室の中を、ゆっくりと歩いて回ってはったけど、展示物なんて見向きもせえへんくて。でも、わたしの作品の前で足を止めて……新音が、泣いたんやよね。ねえ、どうしてあのとき、新音は涙をこぼしたん?」

「……忘れちゃいましたよ、そんなこと」

 わたしは視線を逸らしながら、小さな声で答えた。

 でも、違う。

 忘れるわけなんてない。

 あの日、わたしが見た七緒さんの作品は、どこまでも薄く、掠れそうな、『淡』というひと文字だった。

 字と紙の境目も曖昧な、とても儚い文字だった。

 ……あの頃は今よりもずっと生理が不順で、まったく予測がつかなかった。

 学校見学を兼ねて志望校の文化祭を見てくるよう担任に言われたから見学に行っただけ、なのだけれど。

 あの日、急に生理になってしまった。

 世界が一変してしまった。

 わたしは逃げるように校内をさまよって、やっとのことで人気のない場所にたどり着いた。

 そして、見たのだ。

「新音……ぽろぽろと涙が止まらんくなってしもてて、わたしもどうしたらいいのかわからんくて。でも、新音がわたしの書いた作品に手を伸ばして、触れようとしたから、とっさに声をかけてしもうた」

 わたしは美とか書とかに造詣があるわけじゃない。ましてや技法のことなんて、何もわからない。でも、本当に美しいものは、わかる。

 七緒さんの書は、あの文字は、本当の意味で美しかった。

 ……わたしを照らす、光、そのものに思えた。

「胸のところに中学校のネームプレートが縫い付けてあったから、ああ、この子まだ中学生なんやなって、思ったの。それで、来年この学校受けはるの、って訊いた」

「ええ、そう訊ねてくれながら、七緒さんが泣いているわたしにそっとハンカチを渡してくれたんです。……覚えてます。白いガーゼ地のハンカチでした。ワンポイントの刺繍がしてあって、ふちが黄色で」

「そうそう。そんなんやった。まさか、……その次の年に、返しに来てくれるとは思わへんかったけど」

「とっさに受け取ってしまって、でも返しそびれて……家に持ち帰ってしまったものですから」

「新音は」

 そこで七緒さんは言葉を一度止めて、わたしの目をじっと見た。

「わたしにハンカチを返すためだけに、あの学校を選んだん?」

「……自宅から一番近い高校を選んだだけですよ。これ、前にも言いませんでしたっけ?」

 ハンカチを七緒さんに返して、そして、わたしたちの交流が始まった。交流が交際に変わるまで、半年かかった。

 それからこうやって二人で旅行に出かけるまで、また半年近く。

 七緒さんに出会ってから、もうすぐ一年になる。

「……泣いている新音の顔。綺麗やったなぁ。あんなに綺麗な顔で泣く人。わたし、初めて会うた」

 七緒さんはため息をつくように、そう言った。

「……一目惚れ、やったんやわ」

「そう言ってもらえると、嬉しいです。わたしも、七緒さんが好きですから」

「ねえ、新音。新音は、……どうしてわたしと」

 七緒さんはそこまで言って、口を閉ざし、その後また一瞬口を開きかけて、でも、何も言わず、それから困ったような、少し悲しそうな顔をして、なんでもあらへん、と。

 小さな声で呟いた。



 妹がいなくなって、ちょうど一ヶ月が経った。

 警察からは定期的に連絡があったみたいだけれど、新しい情報は何もないようで、母は憔悴しきっていた。わたしも……毎日呼吸をするだけで苦しい気持ちになった。どうか妹が無事でいますように。それだけを思っていた。祈り続けていた。

 今でもよく覚えている。

 その日は日曜日だった。

 麗らかに晴れた、ショッピングモールの屋上。

 お客さんも大勢いた。

 小さなスペースだけれど遊具やベンチなどが置かれていて、子どもの遊び場になっていた。もちろん、転落防止のために高いフェンスも張られていて。

 だからどうしてその男女二人が誰にも気付かれることなく、フェンスの外に立っていたのか、よくわかっていない。

 子どもが、あ、と声をあげたのを、母親は不思議に思って、息子が指差す方向を、見たのだという。

 そして、二人が、手をつないだまま、落ちていくのを、見てしまった。

 一人は住所不定無職の四十代の男で。

 もう一人は、わたしの妹の、雨だった。

 男は死に、妹は生き残った。

 でも。

 妹の体はめちゃくちゃだった。

 どうして歩けるようになるまで回復できたのか、不思議なくらいで。今でも左腕はほとんど動かず、右足も引きずっている。体中に裂傷の痕や縫合の跡が、生々しく残っている。

 彼女は、目を背けてしまいたくなるくらい、に。

 ……美しい生き物になってしまった。

 妹は、わたしの妹ではなくなってしまった。


 わたしは今でも不思議に思う。

 あの男はなんだったのだろう。

 どうしてわたしの妹をたぶらかしたのだろう。

 どうして妹は、あんな風になってしまったのだろう。

 どうして、

 わたしは、わたしたちは、こんな風になってしまったんだろうか。



 幾つかトンネルを抜けるたびに、景色が変わっていった。遠くに海が見えた。

 カモメだろうか、白い鳥の影が視線の先に見えた気がした。

 電車を降りると夏の陽射しが駅のロータリーに降り注いでいた。海が近いせいかもしれない。そよぐように吹く風が、しっとりとしていて、肌に貼りつくようだった。

「ふう……新音、あそこやよ」

 大きなトランクケースを重そうに引きながら、七緒さんが指を差した方に、わたしも視線を向けた。

 緩い坂道のその先。甍の屋根が午後の陽射しを受けて、鈍く光っていた。周りを囲む竹林が、さわさわとゆれていた。

 こぢんまりとした、可愛らしい宿だった。

「硫黄の匂いのする温泉なんやよ」

「楽しみですね」

 わたしは七緒さんに視線を戻して、そう言った。

 七緒さんはわたしを見上げながら、小さく首を傾げていた。

「……どうしました?」

「新音、顔色悪い?」

「そうですか?」

 わたしは思わず自分の頬に手を当てながら、七緒さんに訊ね返した。

「うん、ちょっとそんな感じがしたんやけど……試験勉強頑張りすぎたんちゃう?」

「かもしれませんね」

 苦笑して、わたしは七緒さんのトランクケースに手を添えた。

「七緒さんの方こそ、辛そうですよ? こんなに荷物持ってくるから。わたし、運びますね」

「え? ええよ、そんな、悪いし」

「かまいませんよ」

 わたしは言った。

 もともと、体力には自信があった。最初から小柄な七緒さんが持つよりも、わたしが持った方がよかったのだと思う。

 キャスターが付いているから、それほど大変じゃないし。

 代わりにわたしのトート・バッグを七緒さんが持ってくれた。

 建物の入り口で声をかけ、記帳を済ませて部屋に案内されると、なんだかちょっと気が抜けて、足の先から疲れが滲んでくるようだった。日に焼けた畳の匂いが、遠くに来たことを実感させて、旅愁を誘う。

 部屋の中は冷房が効いていて、適度に涼しい。

「どうする? すぐにお風呂入る?」

「少し休みませんか。お茶、淹れますから」

 わたしは部屋の隅にバッグを置いて、伸びをした。

「知ってました? 旅館に備え付けてあるお菓子って、宿に着いてすぐにお風呂に入ると低血糖を起こしやすいから、入浴前に食べられるように、って置いてあるんですって」

「へえ、そうなん? 新音は物知りやね」

「まあ、テレビの受け売りですけどね」

 わたしたちは顔を見合わせて、へにゃ、っと笑いあった。

 他愛のない、けれど、こうしてふたりでいる時間が、一番楽しい。

 お茶の葉を急須に入れて、ポットのお湯を注ぐ。茶葉が開くまでのあいだに、わたしたちはどちらともなく、口づけを交わした。

「……今日、初めてのキスやねぇ」

「ですね」

 それからなんとなく無言で温泉まんじゅうを食べ、お茶を飲んだ。

 お茶は少し、渋かった、ような気がする。

「そろそろ行きますか?」

「うん。……お風呂に入る前にのぼせてしまいそうやし、ね」

「臆面もなく言いますよね、七緒さん。そういうこと」

 わたしは軽く、七緒さんをにらんだ。

「試験勉強もちゃんとしなきゃ、なんですからね」

「ねえ、新音」

 少しだけ、真面目な声で。

 七緒さんが囁くように、言った。


「新音のキス、煙草の味がする」



 あの事件のあとから、妹はわたしと寝るようになった。

 病院では夜になると、ずっと悪夢にうなされていたらしく、眠るのに強い眠剤が欠かせなかったと聞いていたから、それが少しでも改善できればと思って、小さな布団の中、わたしたちは抱き合うようにして眠った。

 それでも、妹は、時々思い出したように、深夜、眠りながら悲鳴をあげた。決まって母の不在の夜だった。

 わたしは絹を裂くような彼女の声に飛び起きて、泣き止むまで、きつく体を抱いて、髪を撫で続けていた。可哀想な妹がいつ起きてもいいように、いつしかわたしの眠りは、ひどく淡く、浅いものになっていた。

 ねえ、いつも、どんな夢を見ているの。

 ある日の夜。わたしは思い切って、訊ねてみた。

 その日もそんな眠れない夜の、ひとつだったから。

「地獄の夢」

 とわたしの妹は、涙で濡れた熱っぽい声で言った。

「どこかはわからない。でも、川の近くの桜並木を、わたしは歩いている。空が真っ赤に燃えている。空気が灼熱に焼かれているの。川の水はぶくぶくと沸騰していて、鈍色に光っていて……。桜は花の盛りに見えたのに、それは全部火の粉だった。二匹の蝶が燃えながら狂ったように飛んでいたわ。灰になって、溶けたアスファルトに落ちていくのが見えたわ。わたしは焼け焦げた地面を、裸足で歩いている。痛みはもう、感じない。ただ、喉が渇いて苦しい。舌が口の中に貼り付いていて、呼吸ができない。助けて、助けて、と、声にならない声で、つぶやいている」

 わたしはごくり、と唾を飲んだ。飲もうとした。でも、わたしの口の中も、からからに乾いていた。

「足の裏の皮がべろりと剥けている。血の足跡が、黒く点々とわたしの後ろに続いている。ううん、足の皮だけじゃない。全身が火傷で、皮がところどころ剥がれ落ちている。眼球がガラスみたいなものに変わっていく。皮膚の下が陶器みたいに乾いていく。どこから歩いてきたのかも、どこに向かって歩いているのかも、もう、なにもわからない。助けて、助けて。ただ、それだけを思っている。するとね、急に何かにつまずいて、転んでしまうの。わたしは砕ける。ひび割れた体の中は空っぽなの。わたしは、空っぽだったの」

 夢はそこでおしまい。

 妹はそう言って、悲しそうに笑う。

 わたしは苦しくて、切なくて、ぽろぽろと涙をこぼしながら、妹を抱きしめる。

 彼女の心臓が、とくん、とくんと規則正しく動いているのを、確かめながら。


 それから幾日か経った夕方のこと。

 わたしは母の代わりに台所に立っていた。でも、わたしのレパートリーはたかがしれていて、その日はそんな中のひとつの、カレーを作っていた。

「姉さん」

 ちらりと振り返ると、制服姿の妹が、わたしを後ろから呼んでいた。

「お風呂? あとで手伝ってあげるから、もう少し待っててもらえる?」

「ううん、お風呂じゃないわ。あのね」

 わたしは振り返って、エプロンで濡れた手を拭いた。

「なに?」

「これ、なんだけど」

 そう言ってわたしに差し出したのは、赤いパッケージの、煙草だった。

 わたしは驚いて、どうしたの、これ、と訊ねた。

「買った」

「買った、って。……中学生に売ってくれるわけないじゃない」

「お店の人、なにも言わなかったわ」

 わたしはまじまじと、煙草の箱を見た。『天狼星』という名の、金色の文字が、蛍光灯の光を静かに反射していた。

 喫煙はあなたの健康を損なう恐れがあります。肺がんになるリスクが高まります。の、白い文字。

「ねえ、姉さん」

 妹が不思議なほどやわらかな声で、言った。

「わたしが屋上から落ちたときに、これと同じ煙草の箱を握りしめていた、って聞いたのだけれど……本当?」

 わたしは背中がぞわりとして、慌ててコンロの火を止めた。

「そんなこと、誰に聞いたの?」

「誰だっていいでしょう? 教えて」

「わたしは、知らない」

「なら、誰なら知っているの」

 わたしは口をつぐんだ。

 妹はそんなわたしを、じっと見ていた。

 どのくらいそうしていただろう。彼女はビニールの包みを取り去ると、その中の一本を、唇に挟んで、

「火、貸して」

 と言った。

「やめなさいよ」

「どうして」

 煙草を唇から指に戻して、そう訊ね返した妹の瞳は、光の関係だろうか、なぜだろう、月蝕みたいな色をしていた。

「わたしが何を忘れてしまったのか、知りたいの。あの日のこと、わたし何ひとつ覚えてないから。もしも思い出せるなら……もう、あの夢だって見なくなるかもしれない。一緒に落ちた男の人のことも、思い出せるかもしれない。それに」

「それに?」

「……なんでもないわ」

 妹は小さくため息をついた。

 わたしもため息をついて、それであなたの気が済むなら、いいよ、と言った。

「ただし、一本だけだよ」

「うん」

 わたしは再びコンロの火をつけて、鍋をどかした。

 青いガスの火が、ゆらめくように、燃えている。妹は不自由な足を引きずりながら近づいてきて、腰をこごめた。

 ジジ、と小さな音がして、煙草の先に火が灯って、ツンとした匂いが立つ。

 さらり、と艶やかな長い黒髪が流れ落ちて、かわいそうな妹の顔に影を作った。

 紫煙を吐きながら、むせることもなく、妹は小さな声で、

「ほおずき」

 と言った。

 そして、一筋の、涙を流した。

 どうして妹が泣いているのか、わたしにはわからなかった。



 そういえば。わたしは七緒さんの裸を見たことがないし、わたしも七緒さんに肌を晒したことがない。唇は何度も重ねたし、ぎゅっと抱きしめたことだって、ある。でも、……とそこまで考えて、ジャケットを脱いだところでどうしよう、どうやってこのあとを脱いだらいいんだろう、と、わたしはわからなくなってしまった。

「新音? どしたん?」

 室内で下着姿になり、七緒さんはルームウェア用のジャガードのワンピースに、頭を通そうとしていた。

 白い下着の、胸と胸のあいだに、小さな赤いリボンの飾りが見えた。

 ……上下揃いの下着だった。

「早よ着替えな。お風呂行かれへんえ」

 しゅぽん、と顔を出しながら、七緒さんが首をかしげる。

「ええ、と。そうなんですけど」

「ん?」

 全く緊張していない様子なのも、ちょっと癪に感じて、わたしは勢いよくズボンを下ろした。

 すると、……ブルージーンがあまりにタイトすぎたせいで、下着までずり落ちてしまった。

 わたしがあわあわしながら慌ててショーツを引き上げ、七緒さんを見ると、七緒さんもこちらを見て目を見開いていて、真っ赤な顔をしていた。

「……見ました?」

「見てへん」

 わたしはちょっと涙目になりながら、

「見たんですね」

「ええと、想像してたよりも……毛ぇが」

「七緒さん? ……いったいいつから、何を思っていたんですか?」

 冷ややかに問いかけると、まあまあ、どのみち裸になるんやから、と宥められて、わたしたちは部屋を出た。少しだけ納得がいかなかった。

 古く薄暗い廊下が、歩くたびに足の下できしきしと小さな音を立てている。シーズン前だからかお客さんは誰もいなくて、宿はしんとしていた。

 七緒さんがわたしのルームウェアの袖をちょんちょん、と引く。見下ろすと、薄く笑みを浮かべている。

 わたしは七緒さんの手を取って、手と手を恋人つなぎにした。

「お風呂、そういえば裸にならな入れへんのね」

「そうなんですよ。びっくりですよね」

「どないしよ。のぼせて、鼻血が出てしまいそうやわ」

「阿呆ですね」

 脱衣所にも浴室にも、誰もいない。

 誰もいないのがかえって恥ずかしくて、わたしたちは明後日のほうを向きながら、それぞれの衣類を脱いでいった。

 タオルで胸を隠して振り返ると、七緒さんも同じような格好で、わたしを見ていた。

「行きましょうか」

「うん」

 浴室の空気は澄んでいた。

 わずかな硫黄の匂いがしたけれど、水の色も透明だった。

 いい感じ、と思った。

 過不足なく、申し分ない、温泉だった。

 七緒さんが掛け湯をして、先に入った。ひのきの浴槽からお湯が溢れた。七緒さんの裸が、お湯の中でゆらゆらと揺れている。わたしは先に体を洗ってから入るのが常だったから、今回もそうした。頭を洗っているあいだずっと、背中に七緒さんの視線を感じていた。

 それが少し嬉しくて、自尊心がくすぐられるようで、心もちゆっくりと、体を洗っていった。

 そして、ようやくわたしもお湯に浸かろうとして、浴槽をまたぎかけた、そのときだった。

「あ」

 七緒さんが小さな声をあげた。

 彼女の視線を追って目を下に向けると、自分の足に、赤い筋が流れ落ちていくのが見えた。

 わたしの血が、流れていた。

 まるでお湯を汚して、その先の、七緒さんを穢そうとしているみたいに。

 わたしは急いで足を退け、浴室の床にしゃがみ込んだ。

 目の前がすうっと暗くなっていって、あの、世界が広がっていくのを、押しとどめることが、できずにいた。



 夜が更けると、妹は必ずわたしのベッドに潜り込んできた。

 一人で眠るのが怖いのだと言って。

 わたしはそんな妹が不憫で、可哀想で、いつも体を端に寄せて、彼女のためのスペースを作るのだった。

 妹がどうか悪い夢を見ませんように。そう祈りながら、抱き合うようにして、わたしたちは眠りにつく。

 その日、わたしは夢を見た。

 燃え盛る桜並木を、ボロボロになった服をまとって、歩いている夢だった。

 靴は履いていなかった。

 喉が乾いていた。声を上げようとすると、唇が切れて血が滴った。口の中に血の味が広がった。

 ここはいったいどこだろう。どうしてわたしはこんなところにいるのだろう。

 ちらり、と桜並木の向こう側に目を向けると、焼け焦げた廃墟が延々と続いていた。遠くには、崩れて蒸気を吹き上げている発電所と熱でへし曲がった鉄塔が見えた。

「姉さん」「……姉さん」

 不意に、わたしを呼ぶ声がした。

 振り返ると、黒い、制服姿の妹がふたり、立っていた。

 ……ふたり?

 どちらかが雨で……もうひとりは、ええと、……そっくりの顔のもうひとりは、いったい誰?

 わたしは首をかしげる。

 違う。違う。違う。

 ひとりは人間で、

 もうひとりは人形だった。

 球体の関節と、ガラス玉の目をした。妹にそっくりな人形。

 あれは……あの人形は、どこかで見たことがある。

 そうだ。

 あれは父の形見だ。

 人形作家だった父の、最後の作品。

 子どもの頃の、わたしたちの遊び相手。

 ……あの人形と妹はそっくりだ。

 妹が似たのだろうか。

 それとも、作られたときにはすでに、妹に似ていたのだろうか。

 わからない。わからなかった。

「姉さん」

「姉さん」

 人形と妹が、同時に口を開く。

 うふふ、と小さな笑い声をあげて、妹たちが互いの喉を絞めあっている。

 人間の妹の口から、血が溢れている。

 人形の妹の喉が割れて、破片が零れている。

 やめて、ふたりとも、やめなさい。

 わたしは叫ぶ。

 血の匂いが広がる。

 そして、

 わたしは悲鳴をあげながら、ベッドから飛び起きた。両手で体を抱いた。

 額から汗が滴っていた。

 隣では、妹の雨が、青い顔で眠っていた。

 その顔を見て、安堵したのかもしれない。大きくため息をついたとき、わたしは自分の両手が赤く汚れているのに気がついて、再び悲鳴をあげそうになった。慌てて布団を剥ぐと、わたしと妹の下半身が、血に染まっていた。

 シーツまで真っ赤だった。

 ふたり同時に生理……になったのだ。妹の方はよくわからない。でも、わたしは、こんなに早く来るはずじゃなかったのに。

 どうしよう。雨にもシャワーを浴びさせなきゃ。ずいぶん大ごとになっちゃったな、と思って、妹をゆすり起こそうとした、そのときだった。

 妹の体が、変だった。

 長い髪の隙間、はだけたパジャマの隙間から、なにか……植物のツタのようなものが伸びている。

 見ると、それはどうやらほおずきらしく、オレンジ色の熟れた実が、髪の毛のあいだや胸の谷間、あちらこちらに生っている。

「な、……なに、これ」

 わたしは呻くように言った。

 雨がうっすらと目を開けて、わたしを見上げて、

「姉さん?」

 と、小さな声で言った。

「もしかして、これ、見えているの?」

 妹の……雨の目が、赤く光っている。

 ガラス玉みたいに。

 いつの間にか、わたしの手に蔦が絡みついていた。

「や、いやっ」

 慌てて引きちぎるとそこから血が溢れて、シーツをさらに汚した。

「酷いこと、しないで」

 雨が唇の両端をきゅっと上げて、笑った。

「わたしの血と混じったせいかしら。……見えるようになってしまったのね」

 何を言っているのかわからない。

 わたしは息苦しくて、膝を着こうとして、でも、何かおかしい。

 気がつくと部屋の中は緑の魔窟だった。

 色々な、雑多な植物が生い茂っている。

 シダ、鳳仙花、スイカズラ、弟切草、白詰草、ジャカランダ……。

 酸素が濃すぎて、吐き気がしてくる。

「ねえ、ほおずきの花言葉、知ってる?」

 妹が言う。

 わたしは首を横に振りながら、知らない、と答える。


「ほおずきの花言葉は欺瞞。偽り、誤魔化し、半信半疑。そして、不思議、よ」


 わたしは血に濡れた下半身のまま、後ずさるようにして、彼女に訊ねる。


「あなた、いったい、誰なの」


 理性では妹だとわかっているのに。

 でも、わたしの感情が、違う、と言っている。

「ねえ、答えてっ」

「わたしは、小雨」

「小雨? ……それって」

 それはさっき見ていた夢。

 あの、陶器の人形の名前。

「じゃ、じゃあ、妹は、わたしの妹はどこなの?」

「もう、この世にはいないわ」

 傷だらけの、妹の形をしたものが、目を伏せた。

「あのとき、雨は行ってしまった。向こう側に。雨と繋がっているのは、もう、この蔦だけ」

 妹が……雨の形をしたものが、そっと蔦に手を這わしている。

「返して、雨を、妹を返して」

「わたしも、妹なんだけどな」

「違う」

「何が違うの」

 かぶりを振るわたしを、悲しそうに見つめているこの子は、いったいなんなのだろう。

 あるいは可哀想な妹は、事故の後遺症で何か精神的な疾患を抱えることになってしまったのだろうか。別の人格を有するようなことに、なってしまったのだろうか。

 でも、でも。

 妹の言うことが全部妄想ならどんなに良かったか。嫌な記憶を子どもの頃の遊び相手だった人形に託しているだけだったのなら、どんなに良かったか。

 だって、だって。

 ……わたしが見ているこの植物の群れは?

 妹の体を這い回る蔦は、どう説明したらいい?

 これは妄想や幻覚なんかじゃない。違う。絶対に違う。

 それとも、……妹の妄想が、わたしに伝播したのか。

 そんなことがあり得るのか。

 でも、もしも。全部、本当のことだとしたら。

 彼女の言うことが、全部、本当のことだとしたら。

 あの事件からずっと、わたしが妹だと思って接していたのは、


「思い出したの。全部」


 血にまみれたまま、真剣な目をして、妹が言う。

「わたしは、あの子を取り戻したい。ただそれだけ。もう一度、雨に逢いたいの。だから、新音。わたしに協力して。わたしを、あなたの妹にして」

「……雨」

「違う」

 妹は、首を横にしながら、部屋の隅の、埃だらけのガラスケースに視線を向けた。

 もう、誰も見向きもしないそこには、あの人形が、入れられているはず。

「わたしは、小雨よ」



 体が重い。

 うっすらと目を開くと、天井の近くにシダ植物の葉が生い茂っていた。ざわざわとした、生々しい緑の気配が、あちらこちらでうごめいている。

 それを見て、ああ、生理になっちゃったんだ、と思った。

「……新音?」

 心配そうな顔で、七緒さんがわたしを見下ろしている。

 いつもわたしが七緒さんを見下ろしているのに、変な気分。

「ごめんなさい」

 わたしは小さな声で言った。

「部屋まで……どうやって帰ってきたのか覚えてないってことは、七緒さん……」

「そないなこと、……それより、具合はどうなん? 気持ち悪かったりせえへん?」

「大丈夫です」

「大丈夫な顔色には見えへんよ」

 七緒さんがふうっとため息をついた。

「小雨、小雨って、新音、ずっとうなされとったよ」

 わたしは横になったまま、目をつぶった。

「悪い夢を見ていたみたいです」

「ほんまに、夢?」

「え?」

「……妹さんのことやないんかな、て」

 わたしが起き上がろうとするのを、七緒さんが押しとどめた。

「わたしな、一度だけ新音の妹さんに会うたことがあるんよ」

 初耳だった。

 小雨からも、七緒さんからも、そんな話、聞いたことなかった。

「わたしが部活の帰りで、遅くなったときやった。もう真っ暗で……。最初は新音の妹さんだなんて気づかんかった。ううん……なんて言うたらええんやろ。きっと、そういうことやないんやろうけど」

 七緒さんは戸惑いがちに少しだけ黙って、ちらり、と天井を見上げた。

 シダの葉が揺れていた。

 濃い、緑の匂いがした。

「めちゃくちゃ綺麗な子やった。綺麗すぎて、人には思えへんかった。ほら、……新音の妹さんに対して言うのもあれやけど……『不気味の谷』ってあるやろ? 人に似ている……似すぎている何かは、逆に強い違和感を覚える、いうやつ。ほんまに申し訳ないなぁって思うけど、あれに似た気持ちになった。わたし、バス待ってたんやけど……歩いてくる彼女を見たその一瞬で、展翅されたみたいに動けんくなった。通りを歩いていた誰もが振り返るくらい、美人やのに、次の瞬間には目を逸らしてしまうっていうんを、初めて見た。まるで、見てはいけないものを見てしもたように慌てて目を逸らしよるんよ。……彼女、わたしに気づいて、ちょっとだけ目を見開いて、それから杖をつきながら、足を引きずりながら近づいてきて、『直江七緒さんですか』って、訊ねたん。綺麗な声やったのに、にっこり微笑んでいたのに、わたし、背中にびっしょり汗かいてしもうた。そしたらその子がね、『姉がいつもお世話になっています。新音の妹の、小雨です。以前姉と一緒のところをお見かけしたことがあるんですよ』って、そう言うたん」

「……妹は他に、何か言いましたか」

「なんも。それ以上はなにも言わへん。ただ、うっすらと……とても感じのいい笑みを浮かべて、わたしを見てた。でも」

 七緒さんが顔を伏せた。わたしはそれを、真下から見ていた。

 なんとも形状し難い表情だった。

 恐怖。……あるいはそれは、後悔だろうか。

「あまりにも綺麗で……失礼やけど新音にはあまり似てへんかったから、思わず『本当に新音の妹さんですか』って、訊いてしもたん。そしたらね、彼女の顔が豹変したの。なにが違うのか、わたしには一瞬わからんかった。……眼。瞳の色が違ってたんやと思う。黒目のところが、なぜか知らん、真っ赤に染まって見えた。もちろん、目の錯覚やったんやろうなって、今では思うんやけど」

 七緒さんが小さくため息をついた。

「わたし、妹さんが事件に遭うたこと、知ってた。可哀想やなって思ってた。一緒におった男に対して、どぐしょいことしよってって、思ってた。でも、わからんくなった。ねえ、新音」

「なんですか?」

「わたし、あなたを解放してあげたいんよ。もっと力になってあげたい。そう思うのは、いけないことなんやろか。迷惑な、ことなんやろか」

 ……もしかしたら、その話をするために、七緒さんはわたしを旅行に誘ってくれたのだろうか。

 あの小雨が、七緒さんに挨拶だけで……それだけで済ますはずがない。そのあとにもきっとあったんだ、何かが。

 視線を外すと、蔦植物に侵食された窓枠の向こう側で、ガラス越しに、夕闇が迫っていた。金星が、空の底で、ちらちらと光っていた。

 どのくらい眠っていたのだろう。

「あの子のことが大事なのは重々承知してる。でも、わたしのことも見て。わたしに、新音を支えさせて。それくらい、それくらい……いいやろ。わたしたち、恋人同士なんやから」

 気づくと、七緒さんの瞳から、水滴が幾つも幾つも、降っていた。

 わたしの頬に当たって、それはまるで蛍火のように、部屋の明かりを反射させた。儚く消えてしまう、熱のない水の光。

 一瞬。

 全部。

 救われてもいいのかもしれない、解放されてもいいのかもしれない、と思った。

 でも。

 あの子は。

 わたしの妹だ。

 どんな姿になっても。

 どんなに、変質してしまっても。

 それだけは変わらない、事実だった。

 ……わたしは彼女が、可哀想だった。

 本気で取り戻せると思っている彼女が、可哀想だった。

 下から手を伸ばして、わたしは七緒さんの頬にそっと、優しく触れた。

 そしてそのまま、するすると手を伸ばして、体を抱き寄せた。

 体に、七緒さんの軽い体重と、頬に、熱い涙を感じた。耳には震えるような吐息を。

 わたしの頬にピアスの、冷たい、石の感触。

 ありがとう、と呟いてみた。

 一晩。一夜。わたしは妹ではなく、七緒さんを選んだ。わたしにできる、それが精一杯だった。

 七緒さんはわたしの背中に手を差し入れてくれた。

 二人で寝転びながら、わたしたちはぎゅっと、抱き合った。生理のせいで、少しだけ胸が張って、くるしい。でも。いつまでも。ずっと、そうしていた。



 夕ご飯が済むと、途端に静かになってしまった。

 じーじーと、どこからか虫の鳴き声がした。

 わたしは緑の匂いに酔ってしまって、半分も食べられなかった。

 七緒さんは体に似合わず健啖家で、残さず全部食べた。七緒さんが小さな体で一生懸命食べているのを見ているのが、わたしは好きだった。

「もう一度、お風呂行きたかったんやけど」

「わたしは……大浴場は無理ですね。七緒さんだけでも」

 敷いてもらった布団の上で、わたしがそう言いかけると、新音が行かへんのやったら、わたしもいい、と。七緒さんが静かだけれどきっぱりとした口調で言った。

「せっかくやからお喋りしよ」

「……勉強は、しなくていいんですか?」

「試験期間中やもんね」

「そうですよ」

 顔を見あって、わたしたちは苦笑しあった。

「保健体育、する?」

「しません。わたし、生理中ですもん」

「残念」

「七緒さんのことを」

「ん?」

「生理の血で汚してしまうわけには、いかないんですよ」

 もしも、この悪夢が。七緒さんにまで伝播してしまったら。

 そう思うと、怖かった。

「じゃあ、お菓子食べへん?」

「あんなにご飯食べたのに」

「甘いものは別腹言うやん」

「じゃあ、チョコレート以外なら」

「あれ? チョコ嫌いやった?」

 七緒さんが不思議そうに、首をかしげた。

「生理のときには、食べないほうがいいんです。人によっては重くなるので。知りませんでした?」

「知らんかったわ。新音は賢いなぁ」

「……学年十位圏内の人に言われても。嫌味にしか聞こえませんけど?」

 くすくすと笑いあう。

 寝転がった姿勢で、うつ伏せの姿勢で。

 ころころと転がりながら、談笑しながら。

 お菓子を食べている。ジュースを飲んでいる。

 お互い、ルームウェアのまま。

 この時間が、永遠に続けばいいのに、と。

 わたしは思った。


 古びた宿の、廊下で。

 ボーン、と。柱時計の音がした。

 零時を過ぎて、わたしはまたひとつ、歳を重ねた。十七歳になったのだ。

「誕生日おめでとう」

 と七緒さんが言った。

「ありがとうございます」

 とわたしも答えた。

「誕生日のプレゼント。何にしようか迷ったんやけど……やっぱり新音に選んでもらったほうがええんかな、って思うて。帰りにどこか寄らへん?」

 わたしは少し考えて、

「ひとつ、おねだりしてもいいですか」

 と、訊ねた。

「ええよ」

「七緒さんのピアス。……その片方、貰えませんか」

「わたしの……これ?」

 七緒さんは少し驚いた顔で、自分の耳朶に触れた。

「でも、新音ってピアス開けてないんやなかった?」

「はい。ですので、それも込みで」

 目を丸くしている七緒さんの顔を、わたしはじっと、見つめていた。


「わたしの体に、同じように、穴を開けてくれませんか」


 七緒さんが、ごくん、と。

 息を飲むのがわかった。

 それから無言のまますっと立ち上がって、トランクケースを開け、裁縫セットとオキシドールの入ったポーチを取り出して、畳の上に置いた。

「さすがにピアッサーは持ってへんよ」

「安全ピンでいいですけど」

「それ、刺す方が怖いやつやないの」

「……自分じゃ無理ですし」

 わたしが布団の上で正座すると、それに習ったように、七緒さんもちょこんと座り直した。

「お願いします。……冷やした方がいいですかね」

「氷、……確か廊下に製氷機があったんやない?」

「わたし、取ってきます」

 立ち上がると、少しだけ足がしびれていた。ちょっとだけ、もつれてよろけた。

 七緒さんがそれを見て、小さく苦笑していた。

 照明を落とした廊下は薄暗かった。裸足で歩くと床板がきしきしと音を立てた。

 廊下の奥にコイン式の古い製氷機があって、備え付けのペールに百円分の氷を入れて戻ると、七緒さんが宿の浴衣に着替えていた。

「……わたしも気合入れてみたんよ」

「浴衣姿も可愛いですね」

「せやろ」

「わたしも着替えますね」

「うん」

 ルームウェアを脱いで下着姿になり、衣紋掛の下の浴衣を広げて、袖を通した。

 もう一度正座し直して、七緒さんの前にアイスペールを置く。七緒さんは安全ピンの先をオキシドールで消毒している。その指先が、少しだけ震えていた。

「じゃあ、さくっとやっちゃいましょうか」

「度胸がありすぎて、逆に怖いわ」

 わたしが目を瞑ると、七緒さんが手にした氷でわたしの右の耳を冷やし始めた。氷が溶けると冷たい水が頬を伝った。それは襟を濡らしながら、胸元に落ちた。

「い、行くえ」

「いつでもいいです」

 針先が、皮膚に当たった。ぴくん、と。知らずに肩が跳ねた。

「あかん、やっぱり無理」

「ちょ、ちょっと、途中でやめないでくださいよ」

 わたしは慌てて膝を崩した。

「そんな風にされるとめちゃくちゃ怖いので、一気に行っちゃってください」

「わかった。いち、にい、さん、でやるから、動かんでね」

「はい」

「いち、に、の……」

 さん、と聞こえた瞬間。耳に疼くような痛みが走った。わたしは体が動かないように、布団に爪を立てていた。氷で冷やしていなかったら、きっともっと痛かったのだろう。七緒さんは少しだけ震える手で、安全ピンを抜き、自身の右耳のピアスを、わたしの耳につけてくれた。

「このピアスの石。ラリマーっていうんよ。愛と平和の象徴。束縛からの解放、って意味が込められてる」

「七緒さんも、それを望んでいる、とか」

 わたしが訊ねると、七緒さんはほんの少しだけ笑みを浮かべて、どないやろね、と零した。

 血で汚れてしまった七緒さんの指を、わたしはぺろりと舐めた。

 甘い、爛れたような。鉄の味がした。



 旅行から帰ると居間のテーブルの上に、置き手紙があった。筆圧の弱い、小雨の文だった。


『さようなら。

 雨に会いに行きます。

 今まで本当にありがとう。

 あなたはわたしたちの分まで、幸せになって。』


 そう、書かれていた。

 空気が重苦しい。西日の射す居間はオレンジ色の光で満たされていた。

 それが、一瞬、さっと陰った。

 カーテン越しに、何かが落ちていったみたいだった。

 わたしたちが住んでいるのはマンションの四階で、その上にはさらに、十数階……それ以上、考えるのを、わたしは無意識のうちにやめていた。

 下の方から悲鳴が聞こえた。

 しばらくすると救急車の音が近づいてくるのがわかった。


「嘘つき」


 わたしは燃えるような目で、妹の手紙を睨み続けていた。

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花言葉 月庭一花 @alice02AA

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