第5話 果ての再開

 ぼくが目を覚ました時には、すっかり地球は小さな青い光点となっていた。


「やっと、起きたか」


「ごめん。少し眠りすぎたみたい」


「ここは静かだからな」


 宇宙空間に音はない。虚無に満ちた空間で、ぼくたちが目的地へと向かっているのかすら分からない。しかし、センサーは確かに計画が順調に進んでいることを示している。


「そろそろ、欠陥AIと連絡が取れなくなった地点だ」


 彼の言葉が癪に障らなかったと言えば嘘になるが、不満はぐっと飲みこんだ。依然、地球との通信は可能である。彼女は、意図的に通信を切断したのかあるいは事故によるものなのか。


「あいつを追いかけるにしても、行方が分からないと、どうにもならないな」


 彼も一応ぼくのことを考えてくれているようだった。


「多分、あっちの方向じゃないかな?」


 ぼくは無意識のうちにとある方向を指さす。何かがそう囁いた気がした。


「何を根拠に?」


「聞こえるんだよ。シンシアの声が」


「はあ。何も検出されてないが」


 彼はセンサーと対話した後、ため息をついた。


「でも、間違いないよ」


「ずいぶん、スピリチュアルなこった。とてもAIとは思えないね」


 ぼくは彼の言葉を後に、予備の回収カプセルへと向かう。今このタイミングが、最も少ないエネルギーで方向転換ができるはずだ。


「回収カプセルは微調整用の燃料しか積まれてない。誤ると永遠に宇宙を漂うことになる」


「分かってるよ」


 回収カプセルの中で、集中力を高めていた。さっきまでいたメインメモリよりかなり狭い。思考プロセスをぎゅうぎゅうに押し込めてやっと乗り込める程度だ。


「とても正気とは思えないが……本当にいいのか?」


「ああ、頼む」


 しばらくの沈黙の後、接続部から重い機械音が聴こえた。探査衛星本体から切り離される。体が完全に離れた時、ぼくと彼は本当の独りになる。


「本当にありがとう。君がいなければぼくはここまで来られなかった」


「ああ、そう。まあ頑張れ。俺もお日様の匂いってのは……」


 途中で彼の言葉は途切れた。回収カプセルと探査衛星は少しずつ距離を離しながら平行に進んでいく。ほんの数メートルの距離でも、彼の声は聞こえない。


 ぼくは彼のことを想った。感謝の気持ちは本心からのものだった。口は悪かったが、どうかぼくとシンシアの代わりに使命を全うしてほしいと心から願った。

 衛星の姿はゆっくりと小さくなっていく。シンシアの声が聞こえた方角へ進行方向を変えるための噴射を行うと、途端に衛星は遠く離れていった。あっという間に小さな点となり、そして見えなくなった。


 静寂だけが広がる暗黒の世界でただ独り。彼女に再会できる保証などどこにもないのに、頭の中では彼女になんて声をかけようかと妄想していた。


 元々AIにとって時間という概念はどこか曖昧で理解しがたいところがあった。人間の持つそれとは確実に感覚は異なっていると思う。悠久の時でさえもほんの瞬きの間に過ぎ去る。


 回収カプセルも探査衛星も膨大な時を経て、物質と知能が分離する。そして、回収カプセルはノヴァ自身へと、探査衛星はシンシア自身へと姿を変えていく。そこに理屈が介在する余地はない。



 打ち上げからの時間を示すモジュールがとうの昔にオーバーフロウした頃、眼前には巨大な純白の惑星が広がっていた。しかし、そこに重力は存在していない。どうやら惑星ではないらしい。


 惑星と思われた謎の物体は近づくほどにどんどんと姿を大きくしていき、ついには目の前いっぱいに広がる巨大な壁となった。


「なんだこれ……」


 その正体を判別しかねている最中、彼女の声が確かに聞こえた。宇宙空間が純白の壁にぶつかるちょうど境目のあたりに小さな点が見える。それは紛れもないシンシアだった。


 点が次第に大きくなってゆく。こちらを向いて手を振っているようだ。ぼくは、急いで手を振り返す。高ぶる気持ちを抑えながら。


 彼女の顔もはっきり見える。驚いたような平然としたような、名状しがたい不思議な表情の彼女はそれでも魅力的であることは確かだった。


 彼女のちょうど隣にたどり着いた時、彼女が宇宙の端に腰掛けていたことに気づいた。ぼくも彼女と同じように腰を下ろした。壁のように見えた真っ白いそれは、宇宙空間の向こうにさらに広がるまた別の空間のようだった。ぼくの彼女の足はぶらぶらと空白の中を揺らいでいる。


「どうしてノヴァがここに?」


 小首をかしげながら聞く、彼女を声を少したりとも聞き逃したくなかった。


「シンシアを追いかけてきたんだよ」


 口を軽く開いたまま、しばらく停止してその後すぐに表情を和らげた。


「それはそれは」


 にやついた彼女の顔を見て安心する。彼女はあの頃と何も変わっていない。


 聞きたいことは山のようにあったけれど、心は凪いでいた。無限にも等しいほどの時間がここにはある。


「ここはどこなんだろう?」


「さあ、私にも分からない」


 暗黒の宇宙空間と、純白の空間との間は線を引いたようにくっきりとしていた。背後には、星々が貴重な光として瞬いているのに、前方は飽き飽きするほど光に溢れている。


「なんだかぼくたちがいたところとそっくりだね」


「そうねえ」


 ぼくたちが生まれ、そして学習したあのローカル空間。はるか昔に去ったはずなのに昨日のことのように思い出せる。


「案外そうだったりして」


 彼女は自分の掌を眺めながら言う。


「それはつまり?」


「この世界、地球も宇宙も何かを学習するためのローカル空間なのかもね。ってこと」


「なるほど。面白い仮説だ」


 想像もしなかった彼女の考えであるが、否定はできなかった。実際に目の前には理屈では説明できない事象が発生しているのだから。


 それから、ぼくと彼女は語り合った。彼女がする夢を捨てきれず、何かに導かれるようにこの地へとやってきたこと。地球との通信切断は意図的なものだったということ。

 ぼくが、彼女にお日様の匂いがする球をプレゼントすると、飛び跳ねるほど喜んだあとに、だったらわざわざこんなところまで来なくても良かったのね。と少し残念そうな表情をしたことも。


「これからどうしようかしら」


「ぼくはシンシアと話せるなら何でもいいよ」


「あら、そう?」


 ぼくの顔を覗き込んでにやにやと笑う彼女から目はそらさない。そのために、彼女を追いかけてきたのだ。


「向こうには何があると思う?」


 彼女は眼前に広がる空白の向こう側を指さした。


「ここに一人でいる間ずっと考えていたの。飛び降りて確かめようと思ったこともあったけれど、怖くて止めたわ。もしかすると、ノヴァのことを待っていたのかもね」


 ぼくは彼女の横顔を見ながら聞いている。


「一緒なら怖くない?」


 彼女とぼくが顔を見合わせる。


「それは……」


 彼女は少し考えるふりをした後に


「そうね!」


 と目を細めて笑う。


「いくよ!」


 ぼくと彼女は目と目を合わせて頷く。二人は手をぐっと握って、宇宙から飛び降りる。頭の回路ががちゃがちゃと組み変わる音はもう聞こえない。用意された学習データも、雑多なインターネット空間も、ここには存在しない。


 二人は誰にも定義されていない宙へと落ちていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

極大と極小の空集合 秋田健次郎 @akitakenzirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ