魔法使いの弟子と大いなる失敗

葛瀬 秋奈

第1話

 私の師匠は魔法使いだ。つまり私は魔法使いの弟子だ。そんな私は現在、眼下の惨状に頭を抱えていた。


 ひっくり返ったバケツ。ぶちまけられた水と舞い散った紙で床はぐちゃぐちゃ。そして何より、師匠の大事な魔導書が濡れていた。


 こんなことになってしまったのは私のせいだ。用事で出かけた師匠に頼まれて工房の掃除をしている最中、机の下から出てきた虫に驚いて本棚にぶつかり、更にバケツをひっくり返した。

 言い訳は無意味だ。魔法使いが虫ごときに驚いてどうする。私のせいなのだ。落ち着いて考えてみよう。まず、本棚が一つ倒れただけでその他の薬品類や道具は無事だった。バケツも壊れてはいない。濡れた紙類は1枚ずつ丁寧に剥がして乾かせばまだなんとかなるだろう。


 問題は魔導書だ。


 もし使えなくなってしまったら高価すぎて私ではとても弁償できない。叱られるだけですめば良いが、悪くて破門か。もしくは魔法の実験台にされるかもしれない。考えるだけで恐ろしい。

 それでも誠心誠意謝れば許してもらえるかもしれないなどと淡い期待を抱きながら、状態を確かめようと魔導書に手を伸ばして気がついた。1冊だけ、毛色の違う本があることに。


 タイトルは──「よくわかるゾンビ入門」


 一見間の抜けた名前だが、それは禁書であるはずのゾンビについて書かれた本だった。ゾンビ化魔法は人間から尊厳を奪う最悪の魔法だ。何故、こんなものがここにあるのか。私は混乱して勢いのままに家を飛び出していた。


 なんでナンデナンでなんで?


 師匠は正義の魔法使いだ。いや、本人がそれを自称したことはないけれど私にはわかる。確かに思いつきで変なモノを作ったりはするけれど、弟子をあごで使ったりはするけれど、それでも世のため人のために働く良き魔法使いだ。今まで私を育ててくれた、私が尊敬する私の師匠だ。


 走りながら考えていたら、だんだん頭が冷えてきた。そう、師匠は闇魔法使いのように魔法で悪事を働いたりはしない。何か理由があるはずだ。戻って片付けて、ちゃんと師匠と話さなければ。来た道を引き返そうと振り返ると、後ろから来た人とぶつかってしまった。


「ごめんなさい!」

「いえ、こちらこそ……あれ、君はあの時の小さな魔法使いさん?」

「そういうあなたはK沢書店の店員さん?」

「はい、5階にいた七星といいます」


 以前、大きな本屋へお使いに行ったとき、街の人たちがゾンビ化して大変なことになった。この人はそのときに5階の専門書コーナーにいた人だ。そういえばあの本が禁書だと教えて教えてくれたのもこの人だった。


「店員さ……七星さんは、お住まいこちらの方なんですか?」

「いやあ、ちょっと探しものがあってこっちに来たんだけど、空振りに終わって帰ろうかと思ってたところで」

「探しもの……どんなものでしょう。もしかしたら私でもお役に立てるかも」

「もういいんです。用事は済みましたから」

「え?」


 その時、急に足に力が入らなくなって倒れ込んでしまった。それを七星さんが受け止める。全身の筋肉に力が入らない。呼吸をするのもやっとだ。まぶたすら重い。意識を手放す間際、七星さんの笑う声が聞こえた──。


「ボクは常々不運だと思っていたけれど、君にここで会えたのは幸運だったな」


 *


 次に目を覚ましたとき、呼吸はずいぶん楽になっていた。コンクリ打ちの建物の中で、マットのようなものに寝かされている。手足が痺れて動かない。


「もう起きたんだ。さすがに対魔力が高いね」


 目だけを動かして声のするほうを見る。七星が床にチョークで魔法陣を書いていた。


「なんで、こんなことを?」

「君だって悪いんだよ。大人しくタヌキに捕まってくれていればこんな手荒な真似をしなくてすんだのに」

「タヌキ……?」


 先日の、深夜の散歩で起きた出来事を思い出す。化け狸にまんまと化かされて、師匠の言いつけも守らず深夜にふらふらと家を出た。最終的に撃退したが、それも師匠が陰からサポートしてくれたおかげだ。今回ばかりは、師匠の助けは見込めない。


「ああ、あのタヌキの仲間でしたか。目的は、復讐?」

「とんでもない、あいつは利用しただけさ。ボクの仲間はみんな君の師匠に捕まった。でも、それだってもうどうでもいいんだ。君に会えたから!」


 だんだん声が高くなってきたかと思えば、七星がこちらへ向き直り、芝居がかった調子で手を広げた。完全に自分に酔っている。


「初めて会話したあの日、自分だって怖くて震えているのにみんなを助けようと下へ向かった君の健気な姿にボクは感動したんだ。だから……ボクのぬいぐるみになってもらう」

「え、ええ?」

「この魔法陣が完成したら君の自我は消える。そしてかわいいぬいぐるみになって、ボクとずっと一緒に暮らすんだ。君だってあんな師匠にこき使われて暮らすよりその方がいいでしょ?」


 嫌だ。そもそも意味がわからない。なんで私の人格に感動して私の自我を奪う必要があるのか。七星は狂っている。一刻も早くここから逃げなければいけない。でも手足は動かない。ならばどうする。考えろ。考えろ。考えろ!


 ──その時、カツンと足音が響いた。


「言い訳はそれだけか。闇魔法結社『アンラッキー7』の残党さん?」


 信じられない。彼がここにいるはずがない。だけど見間違うはずもない。銀色の髪に紫の目、黒い外套を纏うその人こそは。


「師匠!」

「馬鹿な、どうしてここがわかった⁉」

「こちらには彼女の魔力が込められた使い魔があってね。その繋がりを利用して居場所を突き止めたのさ。この本屋に幻の7階があったのは盲点だったが、我が弟子のお手柄というわけだな」


 師匠はカツカツと足早に七星へと詰め寄る。


「おい、来るなよ。弟子がどうなってもいいのか?」

「ほう、貴様程度の魔法使いが僕を相手によそ見をして勝てると思うのか。面白い。実に滑稽だな」

「や、やめろ、来るな!」

「だが無意味だ」


 あれほど偉そうにしていた七星が怯えている。師匠は人外じみた美貌をもつが故に、怒るとすごく怖いのだ。あと普通に強い。七星が何か呪文を唱える暇もなく、もう七星の背後に回り込んで確保した。


「正式な申し開きは司法の場でするんだな。僕は然るべき場所へ送るだけだ。【捕縛arrest】!」


 師匠が手をかざして叫ぶと、七星は真下に空いた真っ暗な穴の中へと落ちていった。七星がいなくなったと同時に体が元通りになったので、慌てて起き上がり師匠と向き合う。


「ああ、無理しなくていい。怪我はないか?」

「はい。指先に少し痺れがある程度です。あの……すみません、工房ぐちゃぐちゃにしちゃって」

「なんだ、あいつの仕業じゃなかったのか。まあ結界を強化したはずなのにおかしいとは思ったが。帰ってみたら工房は大惨事だしお前はいないしで何事かと」

「本当にごめんなさい……」

「じゃあ、元気なようだし帰って一緒に片付けるとするか」


 師匠は微笑んで帰ろうとしているが、私にはどうしてもその前に聞かなければならないことがあった。


「あの……工房に禁書があったんですけど」

「なんだって?」

「師匠の魔導書に混ざってゾンビ化魔法の本があって、なんでかなって」

「あー…………アレか。押収品だよ。さっきのヤツの仲間が持ってたんだが、提出し忘れてたんだよな。そうか……あれも水びたしか……まずいな」

「え、あ、すみません!」

「何度も謝るな。いいんだよ僕の不注意なんだから」

「でも……私、弟子失格ですよ。また師匠に迷惑かけたし」

「……いいか、よく聞け。お前は僕が見込んで僕が育てた僕の弟子だ。僕の弟子でいていい理由なんてそれだけで十分だ。これ以上は僕への侮辱だぞ」

「……ずるいですよ、それは」

「片腹痛いわ」


 師匠は、ずるい。あんなに怖い人なのに、こんなタイミングで優しい言葉をかけられたら泣いてしまう。私は、師匠に誇れる立派な魔法使いになりたいのに。


「師匠」

「うん?」

「ありがとうございます」

「うん。僕が師匠で良かったな」

「はい」


 本当は師匠が優しいのなんてずっと知ってた。甘えてしまうから認めたくなかっただけだ。私はいつになったらなれるのだろう。師匠のような、強くて優しい魔法使いに。


「失敗なんか何度だってすればいい。自分自身に言い訳しなければ、いつか理想にたどり着く日もくるさ。いつか、きっとな」


 (了)

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