いいわけは、しないでおくよ

月波結

いいわけ

 ――いいわけは、しないでおくよ。

 雅弘さんはそう言うと、煙になった。

 わたしはわずか26で夫を喪服で見送る寡婦になった。

 夫は享年38。年の離れた結婚は、親同士が決めた家と家の結婚で、お見合い写真を見た時「へぇ、この人と結婚するのか」くらいにしか思わなかった。

 夫はその時32で、細身で丸顔、笑顔がやさしそうな人に見えた。


 高校を卒業したらすぐに嫁ぐんだろうと暢気に構えていたら、大学を卒業してからにしましょう、と向こうから提案されたという。

 両親は「学歴をつけろ」ということなのかと迷った。わたしはもっとシンプルに考えた。

 嫁ぐのなら、難しい勉強はする必要はない。すきなことを、すきなだけすればいいんじゃないかな、と。

 選んだのはお嬢様学校と名高い短大で、2年も遊んで暮らせればそれでいいかな、と思ったし、大学に行って4年のうちにズブズブの沼のような恋愛をすることもないと踏んだ。


 そして2年後、約束通りわたしは結婚した。23のわたしに対し、一回り上の彼は35だった。相対的に白無垢を着るには幼すぎる顔立ちに見えた。


 結婚後の彼はとてもやさしくて、壊れ物を扱うようにわたしに接した。

 それまで畏まった場で会うことしかなかったので、若い子が行くような場所に進んで行った。手を繋ぐのは恥ずかしいと彼は苦笑しながら、わたしの手をそっと握った。

 水族館や動物園。映画館にテーマパーク。

 さすがにテーマパークは「一生分、遊んだかな」と彼は笑った。ポップコーンバスケットを首から提げて。


 そんな彼にわたしはどんどん、種から若い芽がすくすく育つように好意を持った。

「おかえりなさい」とエプロンのまま、彼の鞄を受け取りに行く、その日課がうれしかった。朝、送り出して、夜、確実に帰ってきてくれる。

 午前様が多い父にいつも母はなにも言わなかった。思えば、そういう煩わしいことに辟易していたんだろうと思う。

 わたしたちはまだ若いので、それに比べると柔軟性も高かったし、お見合い結婚だったからこそ、お互いの歩み寄りが必要だった。仲のいい夫婦だったと思う。


 結婚して3ヶ月の記念に、彼にネクタイを贈ろうと思った。売り場の前で待ってもらった。

 よく考えてみたら、ネクタイなんて買ったことがない。店員さんが途方に暮れるわたしに声をかけてくれた。

「こちらの商品、若い方に大変人気ですよ。ピンクがちょっと使われていてオシャレなんです」

 彼女は次々と10本近くのネクタイを出してくれた。

 わたしは雅弘さんをチラッと見た。店員さんもチラッと見た。

「こちらはいかがかしら? ⋯⋯ご主人ですよね? すみません、勝手な思い込みで。ご主人くらいならこれくらいしっかりしたものの方が。こちらの濃紺はいつでも使えますし、臙脂のものは、個人的な意見ですけどご主人にお似合いだと思います」

 2本のネクタイを見て考える。

 確かに彼女の言うとおり、臙脂の方がしっくり来る。ベテランの店員さんは見立てが違うなぁと思う。「これください」と財布を出した。


 ◇


 ところが半年をすぎた頃、夫は水曜日は帰りが遅くなる。実家に帰ってもいいし、友だちと外食しても構わないよと言った。

「お仕事ですか?」

 夫の仕事は大学の助教授だった。

 文系の学科で、特に遅くなることは少なかった。

「水曜日に集まろうと決まった。会議ってやつだよ」

「大変ですね」

「座ってるだけでいい、楽な仕事だ」と笑った。わたしは玄関で彼に鞄をわたし、見送った。小さな不安が胸にシミのように広がっていく。

 彼を信じているのに、考えてみると『信じる』拠り所がなかった。結婚前の彼を知らない。そうして俯瞰すると、彼は遺伝子的にもただの他人だ。空恐ろしい気がした。


 水曜日を除くと、仕事からの帰宅は概ね同じ時間で、わたしは彼のために食事を作って帰りを待った。

 コテコテのものは胃に障ると言うので、和食を心がけて。

 漬物に手を出したり、調味料も比べてみたり。

 百貨店と言っても、めっきり服飾小物を買うより、地下でブランド食材を買うことの方が多かった。

 それでもわたしはこの落ち着いた生活がすきだった。


 実家は小さいけれど政治家の家系で、人の出入りが激しかった。時には飲まなくても晩酌の席に呼ばれたり、そういうのが思春期の娘としては本当に嫌だった。

 なので、「お嫁に出る」と聞いた時、実はうれしかったんだ。家にいることと同じことにはならないだろう。

 両親はそれまでのピアノやバレエなどより、お花やお茶のお稽古を大事にしろと言った。


 知らない人や、管理されたタイトなスケジュールに比べたら今はなんてしあわせなんだろう?

 年の差について、時々、他人にあれこれ言われるけど、雅弘さんと結婚したことでわたしの人生は大きな広がりを見せた。

 今ではあの人こそ、わたしの人生だ。


 ◇


 ある日、今度は土曜日に出勤しなければいけないと雅弘さんは言った。

 帰宅して、ネクタイを緩めながら。

 スーツの上着を受け取ったばかりのわたしは、困惑しながら「そうですか。お忙しいんですね」と言った。

 彼はネクタイをシュッとほどくと、わたしを見て、やさしく受け止めるように抱きしめた。

 そういう日常的で積極的なスキンシップはあまりなかったので、胸の鼓動は高まった。

「こんなに良くしてもらってるのに、申し訳ないね」

「いえ、わたしこそ」

 本心だった。彼がいれば、わたしはわたしらしくいられる。神様のような人だもの。


 たまには、と強引に誘われて友だちと会うことになった。「久しぶり」と笑顔を向けられるとわたしもうれしくなって、学生時代のあれこれを思い出す。

 そんなに早く結婚するなんて思ってもみなかった、と百貨店1階のガラス張りのティールームで彼女は言った。

 若々しい木の芽の芽吹きが見られるようになった頃だった。

 わたしもアイスティーのグラスを寄せて、サッパリして冷やしてもなお香りのいい紅茶を楽しんだ。

 帰りに茶葉を買って帰ろうかしら、なんて話の途中も思っていた。


「でも今時、『許嫁』って古風よね」

「まぁね」

 それを言われるとなにも言えない。しかもそれでしあわせな思いをしているなんて。言ってもなかなか理解されないので、『結婚て大変なのよ』という顔をすることにしていた。

 短大を卒業して、季節はぐるりと一回りしたところだった。

「でも良さそうな人だったし、なにより歳がうんと上なのに、わたしたちみたいなのにも下出に出て気を使ってくれるなんてなかなかないよね。早かったけど、相手には恵まれたよ」

「そうなの。すごくいい人なの。ノロケみたいに思うかもしれないけど、とっても大切にしてくれて、わたしを優先してくれて、こんなにしあわせばかりでいいのかなって⋯⋯」


 勢いつけてそういった時、視線の先にチラッと、不思議な光景を見た。

 見間違いじゃないかと、疑った。

 キューブ状の氷がグラスの中で角が取れて、カランと音を立てた。

あずさ、どうしたの?」

 いきなり黙ってしまったわたしの異変に気がついて、友だちは焦った顔をした。

「ねぇ、顔色悪いよ。冷たいものをいきなり飲んで冷えたんじゃない?」

「⋯⋯ううん、そんなんじゃないよ。大丈夫。心配しないで」

 ちっとも大丈夫ではなかった。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 親の言いなりに育てられて、ちやほやされ、他人と自分を比べて不幸に感じることはあまりなかった。

 疑問を持たずに生きるよう、仕向けられて育てられてきた。


 ――それなのに。


 生まれて初めて『嫉妬』を覚えた。

 通り過ぎようとする視線の先には、あのネクタイ売り場の女性と並んで歩く雅弘さんがいた。ネクタイはあの臙脂のもので、今朝は、あげたものを喜んで使ってくれるなんてうれしいな、と思っていた。誰かのためにプレゼントを贈る喜びを感じていた。


 ⋯⋯それなのに。


 ふたりの間には幼稚園生くらいの、利発そうな男の子が歩いていた。わたしは目を見張った。なにも言うことができない。

 ただ、3人を目で追う。嫌なものほど見てしまう。

 ああ、もうダメかもしれない。

 雅弘さんは男の子を抱き上げた。

 スーツが汚れるかもしれないのに。わたしはそれをいつものように、主婦の仕事の一環として喜んでクリーニングに持って行ったに違いない。なにも知らなければ。

 でも、知ってしまった。

 臙脂は、彼を想うあの人の心なんだ。


 わたしは両手で顔を覆うと、しばらくの間、顔を上げることができなかった。

 友だちはおろおろしていたが、わたしがようやく顔を上げると、「全然、大丈夫そうに見えないよ」とトイレに連れていかれる。

 鏡の中のわたしは、アイラインが流れて、ひどい顔だった。だけどだからと言ってなんだって言うんだろう?

 この不幸に比べたら、化粧崩れくらい。

「ごめんね、今日は帰らせて」と言うと彼女はとても心配してくれたけど、気をつけてね、と見送ってくれた。

 わたしはタクシーを呼んで、家に帰った。気分が悪くて仕方なかった。あんなに安全な場所だった家が、揺らいでいく。

 我慢はできなくて、込み上げるものを嘔吐した。


 ◇


 あの時のことを話そうかと思ってるうちにひと月が過ぎ、「顔色が良くない」と夫からも、他人からも心配されるようになった。

「大丈夫」と流したけれど、これっぽっちも大丈夫ではなかった。

 一度手に入れたしあわせを手放すのはこんなに辛いのかと泣きつかれるほど泣いた。

 なにを食べても喉を通らず、嘔吐することが増えた。しあわせがどういうものだったのか、思い出せなくなる頃だった。


 ◇


「え?」

 ご飯の時間、少なめに盛った茶碗を持ったまま、時間が止まった。そんなことってあるだろうか?

 ちょっと待って、理解できない。

 確かにわたしは最近は常日頃、自分は不幸だと嘆いていた。

 だけどそれは裏を返せばそれだけ彼を想っているからで、決して失いたくないという気持ちがそうさせていたんだ。

 神様、違うんです。誤解しないで。わたしには彼が必要なんです。


「膵臓癌なんだ。今までの健診で引っかからなかった。見つけることが難しい病気なんだよ。本当にこんな思いを君にさせて申し訳ないと思う。一生こんな僕に大切な時間を捧げてくれた君を、しあわせにしたいと思っていたのに。――時間を稼ぐだけの治療しかできないと言われたよ。本当に申し訳ない。もし君が離婚を望むなら」


「待ってください! 離婚なんてしません。わたしはあなたをあきらめない。例えほかの人がみんな、あなたを見限ったとしても、わたしだけはあなたを見捨てない。だから、お願いします。離婚なんて言わないで。そして、あなたの言葉が本当なら⋯⋯あなたは罪悪感からわたしを守ろうとしてくれているんでしょう。でも、違うんです。わたし、あなたのことを」


 彼の顔色がさぁっと変わるのを確かに見た。ほらやっぱり、と心の中の誰かが囁いた。

 おい、という言葉を聞きながらトイレに逃げ込んだ。吐き気はなかなかおさまらず、大して食べていないので胃液だけが喉を通る。焼けつくように。

 もう、ダメなのかもしれない。

 最初に恋愛のない結婚なんて流行らないのは、こういうことなんだ。


 便器を前に、わたしは泣いた。


 ◇


 彼はその日から、水曜日も土曜日も、家にいるようになった。

 わたしは彼のために食事を作り、仕事の疲れを労った。彼を失うことは考えられず、自分にできるすべてのことをしてでも、彼の手を離すまいと固く決心していた。

 その思いは彼を縛りつけて、痛めつけたかもしれない。

 相変わらず食が細って食べ物は味がわからなくなり、嘔吐を繰り返すわたしを彼は病院に連れていった。ひどい気持ちだった。このまま心療内科を紹介されるかもしれない。そうしたらカウンセリングに通って、すべてを話してしまおう、そう決めた矢先だった。


「おめでとうございます。赤ちゃんですよ。悪阻つわりは苦しかったでしょう。旦那さんがとても心配していました。これからはなんでも工夫して少しずつ、食べましょう。旦那さんのホッとした顔、うれしそうな顔をあなたに見せてあげたかったですよ。きっと安心したことでしょう」


 ぽかーんとした。

 確かに最近、月のものは乱れがち――ううん、止まっていた。しかしそんなことは些細なこととして、気にしていなかったんだ。

 赤ちゃん。

 わたしと彼の愛情のしるし。

 彼は子供を愛してくれるかしら? 例え彼女との間にもっと大きな子供がいたとしても。

 ⋯⋯気分が悪くなって、とりあえずトイレに駆け込んだ。


 ◇


 そう、うん、そうなんだ。顔を見て報告したいのは山々だけど、梓の悪阻がひどくてとても家から出られなくてそっとしてあげたいんだよ。そう、伝えておくよ。もちろん、僕もすごくうれしいし、楽しみだよ。この歳になって、こんなにうれしいことが起こるなんて思ってもみなかったよ。


 彼はうれしそうにわたしの妊娠を自分の親に伝えていた。背中が、喜びに満ちていた。

 じっとしてられないらしく、落ち着かない様子で立ったまま、電話をしていた。

 うちにも報告が行って、両親もとても喜んでいたと伝えてくれた。

 彼はわたしをそっと抱きしめた。

「もっと早く病院に行けばよかったね。辛い思いをさせてしまって、僕は夫失格だ」

「そんなことないです。この子の父親じゃないですか?」

 抱きしめる手に力が入る。

「名前、考えないといけないな。誰よりも素敵で、画数も最高の」

 これには思わず吹き出さずにいられなかった。

「欲張りすぎです。わたしはこの子に、普通に育ってほしい」

「やっと笑ったね。本当によかった。この子のためにも二人三脚でがんばろう。頼りにならない夫で申し訳ないけど」


 今かしら。

 今しか言う時はないかしら。

「この子が産まれるまで、生きていられるかなぁ? 『堕ろしてもいいよ』って言うべきなのかもしれない。でもひとつだけ我儘を聞いてほしいんだ。自分の体は蝕まれて、命は確実に削られている。だからこそ、僕の残りのすべてをこの子に託したい。――お願いだ。産んでくれないか?」

 しあわせが足元からせり上がってくる。また、あの日より前と同じような気持ちに。彼がわたしを求めてくれている。それ以上のしあわせがあるだろうか?


 わたしは大きくうなずいた。

「名前、考えてください」と、そう言った。


 ◇


 時間は呆気なく過ぎていき、赤ん坊は無事に産まれた。彼はこの上なく喜んで、その男の子に「雅隆まさたか」と名付けた。

「いい名前ですね」と言うと「実のところ、女の子の名前の方が難儀してね、男の子でよかったよ。職場の机の上に名付け辞典を置き忘れて、学生にも同僚にもひどく笑われたよ」と知らなかったエピソードを語った。

 わたしはそんな笑い話に、素直に笑顔を見せるようになった。母親が強い、というのはこういうことなのかもしれない。


 彼はわたしと反比例するように、徐々に痩せていった。欠かせない薬、通えない職場、立っていられないほどの倦怠感。

「子供もいて大変だろう? 実家に帰ってもいいんだよ。君の元気な笑顔が見たいんだ。見合いなんてこの時代に馬鹿げていると思ったけど、君に会って気持ちが変わった。君にほかにすきな男がいて、攫われてしまったらどうしようと思うと気が気じゃなかった。4年制の大学に行かせてあげられなくてすまなかった。早く、君を僕のものにしたかったんだよ」


 初めて聞く話だった。

 雅弘さんはバレンタインには学生からのチョコレートをたくさん持って帰ってきた。中には明らかに本命、というものもあった。

 若い女の子ならいくらでもわたしの代わりはいただろうに、そんなに――。

「雅弘さん、すきです。あなたを一生、想い続けます」

「僕が死んだら、今度こそ自由に生きなさい。幾ばくかの財産もあるし、遺言も作ってある。君と雅隆がふたりでも生きていけるよう、手配はしてあるから」

「いいえ、そんなこと。末永く、と約束したじゃないですか?」

「すまない」

 夫は悲しそうな顔をした。わたしには彼の手を握りしめることしかできなかった。

 愛していたから。


 ◇


 いよいよ自宅では難しいとなって、入院となる。

 心配事が頭をかすめる。

 あの人、隙を見て病院に来ないかしら?

 その不安は日増しに増えて、彼に笑顔を見せることが段々、辛くなる。作り笑顔が増える。

「最近どうしたの? やっぱり無理をさせてるんだね」

 すっかり弱々しくなった細い手で、わたしの髪を撫でた。わたしは涙をこぼしていた。

「言わないでしまっておこうと思っていたんです。でも、それが難しくなって。あの子のためにも訊いてもいいですか?」

「よくわからないけど、それで君が泣かなくて済むのなら」


 わたしは自分が見た、忘れられないありのままの事実を語った。事実だけを。

「そうか、そうだったのか。君は演技が上手だね。まさかそんなことをずっと考えていたなんて⋯⋯。なんて言ったらいいか。複雑なんだ。でもひとつだけ言っておくよ。僕の子供は雅隆だけだよ」

 結婚指輪が外れるほど細った指で、彼はわたしの涙を拭った。

 そしてこう言った。

「でも、いいわけは、しないでおくよ」と。わたしの愛した夫は、その時だけ、少し狡かった。


 ◇


 それから間もなく、彼は小さな骨壷に収まった。その大きさが不思議だった。人間の重さは恐らく、身体より魂の方が重いんだろう。

 ⋯⋯やさしい人だったから。


 参列者の中に忘れられない彼女の姿を見つける。

 目と目が合う。お辞儀をして彼女は決まり文句を述べた。

「夫はわたしのものなんです。今でも。ぽっと出の若い小娘に盗られて納得がいかなかったかもしれません。でも、彼は――」

「誤解です。あの人はなにも言いませんでしたか?」

「⋯⋯ひとつだけ。あなたの子供は自分の子供じゃないとだけ」

 わたしは強く唇を噛んだ。妻としての余裕なんてなかった。看取ったからといって、わたしが有利になるとは思わなかった。

「誤解です。話を聞いてください。あんなにやさしい人を、そんな気持ちで見送らないで」

「でも見たんです、わたし。あなたたちが3人で、仲のいい家族のように歩く姿を」

 彼女は頭の中で思いを巡らせているようだった。


 彼女がまた口を開くまで、どれくらいの時間が経ったのか。

「わたしには夫がいたんです。あなたの旦那さんと同期で。ある日、なんの予兆もなく、車にはねられてそのまま亡くなりました。わたしは途方に暮れました。子供も小さかったし、後ろ盾もない。そうしたら雅弘さんが、父親の代わりをしてあげよう、その子がかわいそうじゃないかって、そう言ってくれたんです。多分、わたしがそう言わせるようなひどい顔をしていたんでしょうね。でもあなたの妊娠がわかって、わたしたちは週に2回の家族ごっこをやめました。いい契機でした。あなたには謝っても謝りきれません。こんなことになるくらいなら、あの人のすべての時間をあなたに返すべきだった。なのにあの人は癌が見つかっても尚――。どんなふうに思われても構いません。でも、あの人は本当にやさしい人で、そしてあなたを選んだんですよ。これが真実です」


 いいわけはしないと彼は言った。

 なぜ?

 わたしは愛された喜びを忘れることはなかった。

 でも、『いいわけ』をしなかったのは、彼になにかしらの思いがあったからなんじゃないのかしら?


 あの日の彼を思い出す。

 日差しの中、ひょいとあの子を抱き上げた、そのしあわせで満ち足りた笑顔を。あの人を見る目のやさしさを。


 彼の言ったことも、彼女の言ったことも本当だったかもしれない。

 けど、口にしなかった『いいわけ』は?

 今となっては彼の心に手は届かない。仏前で手を合わせる度に思い出す。

 あれが、わたしたち3人だったらどんなに良かっただろう? あの目が、雅隆を見たなら。


 でもどんなに考えても彼はいない。

 その、なにかが含まれていたに違いない『いいわけ』は、二度と聞く機会がないんだ。


(了)

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