ハイトクカン 〜Keeper A Comic〜

壱ノ瀬和実

第1話

 会社帰りはいつも夜中になった。

 終電に間に合わない日はタクシーで帰ることになるのだが、私は時折、散歩がてら二駅分ほど歩いて帰ることがあった。

 社内では中間管理職。毎日嫌になるほどの激務で、上司からは結果を求められ、部下からは煙たがられる。

 そんな毎日に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったとき、私は歩きたくなった。

 じめっとした夏でも夜中の風は心地良い。

 一人静かな街を歩くのは楽しかった。幾らかの恐怖もあるが、それも一つのスパイスと思えばそう悪いものではなかった。

 日によって歩く道を変えた。タクシーはアプリで呼ぶことが出来るから、適当な通りにさえ出られるなら方角はどこへ向かっても良い。

 明かりの点いたパン屋の前を通った時、既に仕込みを始めている店主を覗き見て、自分以外にもこの時間に生きる人はいるのだとどこか安心感を覚えた。

 片側一車線の道路沿いにコンビニが数件並んでいる通りを歩くと、車通りの少なさも相まって途端に明るくなる視界と、その先で暗くなる道とのコントラストの波が激しく、どこか胸がざわざわしたのを覚えている。

 ある日、私は深夜まで営業している本屋があることを知った。

 個人経営の比較的小さな書店だが、深夜二時まで営業を続けているらしく、漫画や小説、実用書に至るまで過不足なく取り揃えられた良い店だった。

 私は、その店が好きになった。

 若干の遠回りにはなるが、私はその店に、週に二度のペースで通った。気になる本があれば少しばかり立ち読みをして、手持ちに余裕があるときは二冊ほど購入し、朝の出社時に電車内で読む。こんな毎日が至福になっていた。

 だが、私はそこで、禁断の扉を開くことになる。

 R18コーナーにある、何とも爽やかな表紙の漫画雑誌。

 ぬいぐるみを抱えた幼気な少女がノスタルジーと融合したような芸術的なイラストは、私の視線と興味を釘付けにした。

 私はよく分からずそれを購入した。いや。分からなかったというわけではない。

 表紙に惹かれた。それは本当だ。しかし、その先にあるものが何なのか、私はうすうす勘づいていた。

 私は断じてその手の趣味があるわけではない。ただその雑誌は実に背徳感に塗れていた。こんなものがあっていいのか。いや、あっても良い。表現は自由だ。法律にも違反していない。ただ、私がこれを買っているところを部下に見られたら沽券に関わるだろう。そして何より家族にバレてはいけない。妻にも子供達にも白い目で見られるようなことは避けねばならない。ただでさえ家に居場所などないのだ。

 しかし、それこそがまさに背徳感であり、私にとって非日常そのものだった。

 その雑誌が発売される日、私の足取りは軽かった。

 前日に息子の運動会で全力疾走し、筋肉痛に襲われていたとしても、取引先とのトラブルで疲労困憊になっていたとしても、その日だけは夜道を子供のように弾んで歩く。

 男としての本能と社会人としての理性がせめぎ合いの末、いつだって抑圧からの解放という欲望には抗えない。

 青年が立つレジへと持って行くときの拍動、何食わぬ顔をして会計を済ませる無駄なプライド、深夜の街をやましい気持ちで歩く清々しさ。

 家族はすっかり夢の中。明かり一つない我が家で、なるべく音を立てないように風呂に入り、ビールを片手に自室に籠もり雑誌を読む。一人で致すことはしない。もうそんな歳でもないのだ。

 幸せだった。これ以上ないほどに。

 そして私は、裾野を広げた。

 その手の単行本にまで手を伸ばし始めたのだ。

 件の書店にはポイントカードがあった。七の付く日はラッキーセブンデイと題してポイントが七倍付く。いつもは雑誌の発売日に合わせて来るが、偶さか七の付く日に店の近くを通ったので、この際気になっていた本は全て買おうと十冊もの本を買った。その手の漫画である。

 本は少し重たかったが、足取りは軽いので問題はない。

 帰宅し、本を自室に置いていつものルーティンを済ませる。

 だがどういうことか、この日私は疲れていた。思いの外漫画の重たさにやられたのだろうか。私は本を机に置いたまま、寝てしまったのである。

 ラッキーセブンが、アンラッキーに変わった瞬間であった。


「――と、いうわけです」

 妻は私を睨み付けていた。怒りではなく、蔑みの目である。

 地獄が待っていた。片付けることなく寝てしまったばっかりに、起床を促そうと私の部屋に入った妻がいかがわしい本の山を見つけてしまったのだ。

 私はパジャマのまま正座していた。正座、させられていた。

「言い訳は終わりましたか」

 冷たい声である。

「待ってください。いかがわしい本ではありますが、決していやらしい意味で持っていたわけではないのです」

「このロリコン野郎」


 ――その誹りは甘んじて受けましょう。確かにそういう雑誌です。しかし、毎日のように続く地獄の残業で、帰ってきても家族は全員寝ていて、夕食はいつもコンビニの売れ残ったおにぎり、高校生の長女には気持ち悪がられ、小学生の長男にはパパ遊んでくれないから嫌いと言われる日々に、もうどうにもならないくらい追い詰められていただけなんです。捨てないでください。唯一の癒やしなんです、欲望の解放なんです。どうかお目こぼしいただけませんか。


 と言えたらどんなにか。

「全て捨ててください」

「……はい」

 私に異議申し立ての権利はない。

「全部シュレッダーにかけてくださいね。恥ずかしいことこの上ないので。次見つけたら離婚」

「……はい」

 私に、自由はない。言い訳をいくらしたところで結果は変わらないのだ。

 抑圧の日々は続く。

 妻が部屋を出て行った。私はこれから、全ての雑誌と単行本を裁断し捨てることになる。

 だが、私はまだ書店のポイントカードを隠し持っていた。

 そして、これまでに買った本の一部は、本の預かりサービスと契約しているためこの家には置いていない。全てお気に入りの本だ。

 この手の雑誌を買うに至った経緯までを丁寧に話したことで、まるでこの家にあるのは隠れて買った数冊のみだと思わせることに成功したのである。私も伊達に長年サラリーマンをしていない。トラブル時の言い訳などお手の物なのだ。

 明日もきっと、私はタクシー代を節約し、夜の街を歩くだろう。ふとしたときにあの書店へと足が向くこともあるかもしれない。

 それでいい。私の自由は帰り道にしかないのだ。

 次はバレないように……いや。バレても別段問題はない。

 もしもの場合の言い訳は、もう既に考えてある。

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