その顔は好きじゃない

和辻義一

「その顔は好きじゃない」

 リビングの方から、がちゃんという派手な物音がした。


 原因はほぼ推測できる。リビングに戻ってみると案の定、床には割れたマグカップと飛び散ったコーヒーの染み。そして、テーブルの上には微妙に気まずそうな顔をした茶トラのオス猫が、ちんまりと香箱座りなどしている。


「まーたやってくれたわね、トム」


 ネットショッピングで注文していた商品が届いたため、サブスクで見ていた映画鑑賞を一時中断して玄関へと向かったのだが、その時に飲みかけのコーヒーが入ったマグカップを、うっかりテーブルの辺りに置きっぱなしにしてしまったのが失敗だった。


 猫とは色々と不思議な生き物なのだが、その特徴の一つには「テーブルなど高いところのへりに置かれたものを落としたがる」というものがある。今までにもテーブルの上に置いていたテレビのリモコンや、棚の上に置いていた写真立てなどを落とされることは、しばしばあった。


 お気に入りの高価なリップグロスを洗面台から落とされた時には、どこに行ったのか分からなくなってしまって焦ったが、あちこち探しまわった結果、リビングの棚と床の間にある狭い隙間の中で見つけた時にはほっとした。きっとねずみのおもちゃで遊ぶように、きらきらと銀色に輝くリップグロスのケースに興味を示したトムが、前脚を使って洗面所からリビングまで蹴り飛ばしてしまったのだろう。


 猫という生き物を飼っていると、往々にしてこういったことが発生してしまう。それはそれとして仕方がないのだが、やはりいたずらをされると一瞬なりともむっとしてしまう。


 じろりと睨むと、トムは少し困ったような顔で前脚をそわそわと動かし、再び香箱座りの体勢を取った。こういう時、例えば人間が相手であれば言い訳の一つや二つ口にするのだろうけれども、当然ながら猫なのでそういったことはしない。


 その代わりに、というべきか。トムはこちらを見上げると、うっとりとするような表情を浮かべながらゆっくりと目を閉じた。


「やめてトム。その顔、今は好きじゃない」


 ため息とともに低い声で言ってみるが、トムの表情は変わらない。まるで「この顔しかない」とでも言いたげだ。とても利口なんだけれども、少々いたずら好きなトムのこの顔を見ていると、怒るに怒れなくなるのがいつものパターン。


「まったく、もう」


 再びため息をついてから、トムを抱き上げる。腕の中でそっと頭を撫でると、トムはゴロゴロと喉を鳴らしてみせた。仕事で嫌なことがあった時などでも、トムはだっこをするといつも喉を鳴らしてくれるので、凄く癒しになっているのは事実だ。


 トムをぎゅっと抱きしめ、その背中に頬ずりした。それからキッチンへと足を運んで、割れたマグカップを片付けるためのビニール袋と、床を拭くためのキッチンペーパーを手にリビングへと戻る。


 そこでふと、昔母に言われた言葉を思い出した。


「アンタのその性格、ダメな男にコロッと騙されるタイプだから気をつけなさいよ」


 あの時には余計なお世話だと思ったものだったが、今のようにトムに騙される自分を振り返ると、ただただ苦笑いするしかなかった。


 でも、もしトムが人間だったら、きっとあっちこっちで女を泣かせる女たらしだと思う。それぐらいに、トムの笑顔は犯罪的な可愛らしさだった。

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