新太と寧々

 時計は零時を回っていて、おにぃはもうほとんど寝こけている。カチコチと進む秒針のBGM。すーっという寝息が聞こえてきたのを確認して、私はソファから立ち上がる。すると、ソファの上下を感じ取り、おにぃが半分目を覚ました。


「行くなよ、ねーちゃん」


 腕を掴まれ、引っ張られ、元の位置に戻される。


「まだ話は、終わってない……ぞ」


 おにぃはそのまま私の肩に頭をもたれかける。


 どうしようもないおにぃだ。

 本当にどうしようもない。


「ねーちゃん……」


「なぁに?」


 私は面倒くさそうに応える。


「俺、ねーちゃんのこと、寧々って呼びたい」


 ジンと体が痺れた。


「なに急に」


 私は平静を装う。



 知ってた。ずっと。


 長い間、知っていた。



 二人とも八歳の頃、互いに兄妹として紹介された。

 そして、新しい家族の中で兄妹関係を築いた。

 最初はぎこちなくて。


 誕生日が同じだった私たちは、

 どちらも年上を譲り合って、

 おにぃは私を「お姉ちゃん」と呼んで、

 私はおにぃを「お兄ちゃん」と呼んだ。


 中学生になり、高校生になり、そのうち私たちは変わっていく。


 それなのに互いにずっと兄妹であろうとして、

 おにぃは私を「ーちゃん」と呼んで、 

 私はおにぃを「おにぃ」と呼んだ。


 一線を超えないギリギリの呼び名。


 本当の気持ちは伝えられない、伝えちゃいけないから、

 兄妹という言い訳が立つ呼び名で、これまで長いこと呼び合ってきた。


 それなのに――。


「寧々って呼びたい。呼んでいい?」


 眠気はどこへ行ったのか。

 濡れ羽色の髪から覗く真剣な眼差し。

 刺すような視線に、ちょっと怖いとさえ思う。


「おにぃ、今日彼女と喧嘩してどうかしちゃったんじゃないの? 他にも色々あったみたいだし」


「違うよ!」


 肩を掴まれ、半ば強引に向き合わされ、

 顔を背けようにも、おにぃの顔が近すぎて――


「俺、舞華と付き合っても、寧々のことばっかり考えてた。今日、舞華にそう伝えて、俺の方から別れたんだ」


「嘘。だってさっき、『言い訳は聞いてもらえなかった』って言ってたじゃん」


「聞いてもらえなかったんじゃない。『言い訳なんて聞きたくない』って言われたんだ。でも、大事なことだから、ちゃんと聞いてもらったよ。俺は寧々のことが好きなんだって、ちゃんと」


 嘘じゃないって分かってる。

 今までずっと、誰よりも長く、

 誰よりも近くにいたんだから。


「寧々って呼んでいい?」


「急に優しい声で聞くの、やめて」


 おにぃが意地悪そうにクスリと笑う。

 そうやって笑う時、左手で口許を覆う。

 ずっと見てきたおにぃの仕草。


「寧々って呼んでいい?」


「うるさいな、さっきからもう呼んでるじゃん」


「じゃあ、俺のことも、新太って呼んで」


「……あ、あら…た」


 互いの唇がどちらともなく吸い寄せられる。


 これまで二人を隔てていた言い訳は、もつれあう舌の上で、あっという間に溶けて消えてしまった。

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言い訳は舌の上で溶かして。 あしわらん @ashiwaran

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