シングルマザー
那智 風太郎
ドアを開け、ただいまを言おうとしたところで私は思わず顔をしかめた。
「なに、これ。ハル、なに焦がした。すごい臭いなんだけど」
玄関先、数歩前に立つ春樹はうつむいたまま答えない。
「なに。なにがどうなったのよ」
靴を脱ぎ、キッチンに足を進めるとシンクに鍋が放り込んであった。
中を覗き込むと鍋底が真っ黒に焦げている。
さらに周辺には大量の野菜の切れ端。
というよりただバラバラになった野菜。
振り返ってテーブルに目を遣るといつだったか引き出物のカタログで選んだ有田焼きの深皿が見るも無惨に真っ二つに割れていた。
私はひとつこれ見よがしにため息をつき、たずねた。
「ハル。とりあえずさあ、なんでこうなったか説明してよ」
春樹はやはり黙ったままだ。
その沈黙に耐えかねた私は苛ついた口調を向ける。
「ねえ、ハル。お母さんさ、お仕事けっこうキツいんだよね。で、疲れて帰ってきて、これ、片付けなきゃいけないの」
すると息子はうつむいたまま両の手の拳を握りしめた。
三年前に離婚した。
ビジネスチャンスがどうとか景気の良いことばかり言っていた夫は私に内緒で会社を辞め、多額の借金をしてベンチャー企業を立ち上げ、結果あえなく撃沈。
おまけに秘書だとかいう若い女と不倫までしていた。
そんなわけで当然、離婚。
けれど奴は養育費も満足に払えず、今では居場所さえよく分からない。
幸い私には准看護師の資格があり、伝手を頼ってなんとか市内にある中堅の総合病院に就職できたがもちろん生活は楽ではない。
家賃や食費などの生活費と春樹の将来のための積立預金に毎月の収入のほとんどが消えていく。
春樹は小学五年生だ。
最近はずいぶん背も伸びて、大人びたことも言うようになった。
以前のように夕刻ひとりぼっちが寂しくて再々電話をかけてくることもなくなった。
けれど片付けが苦手で料理も炊飯と袋ラーメンぐらいしかできない。
ゆえにこういうことがままある。
まだ子供だから。
普段ならそう諦めて片付けを始めるところだが、ここのところ過密勤務で疲労が蓄積している上に、日頃のストレスも重なったのだろう。
不意に怒りとも悔しさともつかない感情が込み上げ、まぶたに涙が溜まった。
「ねえ、どうしてなの。どうしてもっとちゃんとできないの」
いけない。
そう思ったが涙と一緒に言葉が溢れてくる。
「お母さん、一生懸命がんばってるんだよ。料理も洗濯も掃除もできるだけがんばってる。今日はちょっと遅くなったからお腹が空いたのは分かるよ。でもなに、これ。なに作ろうとしたの。いつもみたいにラーメンならこんな風にならないでしょう。どうするの。気に入ってたんだよ、このお皿。鍋だってこんなに焦がしたら洗うの大変なんだからね」
こんなことを言ってはいけない。
理性では分かっているのにダメだ、止まらない。
「余計なことしないでよ。お母さんをこれ以上困らせないでよ」
言ってしまった。
瞬間、胸の奥深くが鉛のように重くなった。
大声を上げて泣きたくなった。
それをこらえて両手で顔を塞ぐ。
すると黙り込んでいた春樹がくぐもった声を漏らした。
「……カレー」
「え?」
鼻を啜ると春樹がポツリと答えた。
「水の量が少なかった」
私はテーブルの上のティッシュを取って洟をかんだ。
「なに、言ってんのよ」
「間違ったんだ。家庭科の教科書は一人分の分量で書かれてたから」
意味がよく分からず首を傾げると、そのとき春樹が顔を上げた。
「冷凍の唐揚げ。お皿に載せて電子レンジに入れたらこうなって……」
指さしたのは割れた深皿。
私はそれを見つめたまま聞く。
「なんで急にそんなことしたの」
「だって、……だから」
「え、なに。聞こえなかったよ」
「誕生日……お母さんの……だから……」
ハッとして目を向けると春樹はこぼれそうな涙を上を向いて必死にこらえている。
「だから……ごめんなさい」
そういうと春樹はシンクの前に足を運び、無造作にスポンジをつかみ取って鍋底を擦り始めた。
私は鼻にティッシュを当てたまま、しばらくの間ただぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
けれどやがて春樹が感じているはずの悔しさや切なさが心にシンクロされ、同時にどうしようもないほどの自己嫌悪が押し寄せてきた。
バカだ。
母親失格。
愚かなことをしたのは私の方だった。
私は奥歯を噛み締め、それからなにか謝罪の言葉を口にしなければと思ったけれど喉が詰まって言葉が出ない。
沈黙の中、春樹が鍋を擦る音だけがキッチンに響く。
私はその小さな背中をただ見つめていることしかできなかった。
しばらくして春樹が目線を手元に落としたままボソボソと声を出した。
「ピーラーっていうのがなかったんだ。包丁は難しくて、だからジャガイモの皮を剥いたら半分になった」
春樹が鍋に水を注ぐ。そして捨てる。
「鍋を火にかけてる間に宿題をしようと思ったんだ。でも算数の文章問題が難しくて、それで鍋のことちょっと忘れてて」
再び春樹が鍋を擦り始める。
「それから……」
いつのまにか私は春樹を後ろから抱きしめていた。
「ごめんね……ハル」
ようやくそれだけ耳元で囁くことができた。
そして盛大に音をさせて洟を啜った。
それから涙でぐちゃぐちゃになった顔を春樹の肩口でぬぐった。
「わあ、汚ねえ」
「汚くない。愛情のこもった母の洟水と涙だ。ありがたく受け取っておきたまえ」
「もう、やめてよ」
嫌がって離れようとする春樹を私は抱きしめて離さない。
「ねえ、ファミレス行こっか」
「え、ほんと」
振り返った無邪気な笑顔に私はうんとひとつうなずいた。
シングルマザー 那智 風太郎 @edage1999
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