ブリ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅶ――

水涸 木犀

ブリ[theme7:いいわけ]

海里かいり、最近親と連絡を取っているか?」

 いつものバーの、いつもの席に腰を落ち着け、いつものメニューを注文したところでバーテンダーの塩見しおみがそんな問いを投げ掛けてきた。いささか唐突ではあるが古馴染みの関係上、脈絡のない会話が始まることもままある。俺は少し考えて、かぶりを振る。

「いや、ないな。年始にあけましておめでとうのメールを送ったくらいで。帰省もしてないし」

「帰省もしてないのか。そんなに遠い距離じゃないだろう」

 俺の実家の所在地を知っている塩見は、やや呆れたような声音でそんなことを言ってくる。彼の言い分はもっともだが、俺としてはいかようにもしがたい理由があった。

「年末まで仕事が入っていたし、とんぼ返りして四日から仕事をするよりも、自分の家で身体を休めたかったんだ」

「本音は?」

「実家で顔を合わせる姉夫婦と比較されて、結婚はまだなのかって急かされるのが嫌だった」

 さすが古馴染みだ。俺の言い訳は見透かされていたらしい。塩見相手に隠すことでもないので、突っ込まれた以上本音を零す。彼は苦笑いを浮かべながら、透明な液体が入った細いグラスをこちらに渡してくる。


「はいジントニック。……まぁ一応結婚適齢期だもんな。急かされるシチュエーションになるのもわからなくはない」

「そういうお前は? 大晦日と三が日は店閉めてたし、帰省してたんじゃないのか?」

 俺の問いかけに、塩見は首を縦に振る。

「一応な。大晦日の午後に帰って、二日にこっちに戻ってきた。結婚の話は出なかったけど、バーの仕事で一生食っていくつもりなのかとは聞かれた」

「それで?」

「そのつもりだって答えておいたよ。……そのあとは特に何も言われなかったが、親としてはもう少し安定した職業について欲しいんだろうな」

 彼の答えに、俺は無言で頷き相槌を打つ。それはそうだろう。不況が叫ばれる近年、外食業界は売り上げが厳しいと聞く。少人数で運営していて、かつ立地が取り立てて良いわけでもない塩見のバーが、あと何年持つかどうかは俺にも予想が難しい。それでもバーを開くのは学生のころからの夢だったらしいから、知己の仲としては応援したいところだ。


「お前の店が閉まると、俺の夕食が寂しくなるからな。なるべく続いて欲しいところだ」

 結局口をついて出たのはそんな言葉だったが。一瞬目を丸くした塩見は、ふふっと笑う。

「何だかプロポーズみたいな言葉だな。……でもまぁ、本日の日替わり丼はアルバイトの蒔苗まきなえ君のおかげで成り立っているからね。彼が辞めたら維持できなくなると思うよ」

「少なくとも俺がこの店に通っている間は、何としてでも辞めさせるなよ」

 このバーで毎晩食べる日替わり丼は俺の食生活、ひいてはクオリティ・オブ・ライフに影響を及ぼす。強く念を押すと、塩見は笑みを深くした。

「蒔苗君に言っておくよ。きっと彼も喜ぶ」

「頼む」

 机に額がつくくらいに頭を下げていると、バーの扉が開く音がした。そちらを見ると肩の高さぐらいに黒髪を揃えた――ショートボブというやつだろうか――グレーのスーツ姿の女性が店内に入ってくる。店内をさっと見渡した彼女は俺の二つ隣の席に腰かける。さっそく塩見がメニュー表を差し出した。


「そうですね……本日の日替わり丼って何ですか?」

「本日はビビンバ丼になっております」

 背筋を伸ばして答える塩見に、女性は小さく頷いてみせる。

「じゃあそれと、チャイナ・ブルーで」

「かしこまりました」

 メニュー表を下げて厨房に声をかけた塩見は、さっそく酒の調合に取りかかる。俺はいつもジントニックというほぼ透明な酒しか飲まないので、真っ青なブルーキュラソーが注がれていく様を見るのは新鮮だ。本格的なバーに来た気分になる。……いや、俺が夕飯処として使っているだけで、ここは正真正銘、バーに違いないのだが。

「お待たせしました。チャイナ・ブルーです」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げた女性は、姿勢よく青い酒に口を付ける。

「おいしい。さっぱりします」

「よかったです」

 塩見はにこやかに答える。女性はよく見ると、膝にハンカチを敷いている。まるでちょっとおしゃれなレストランに来ているかのような対応だ。服装もきちんとしていて、ちょっとお堅めの職業に就いているのかなと思われる。


「バーテンダーさんって、最近手紙を書いたり、受け取ったりすることはありましたか?」

 しばらくお酒を楽しんでいた女性は、ふと顔を上げて塩見に問いかけた。彼はわずかに首を傾げてみせる。

「そうですね。最近は実家とのやり取りもメールとメッセージアプリが中心になって、ほとんど書いたことはないですね。お歳暮くらいでしょうか。定型文ですけど」

 塩見の答えに俺は心の中で頷く。俺に関しては会社宛にお中元とお歳暮が届くくらいで、個人で受け取ることはまずないが。年賀状も書かなくなったし、めっきり紙のやり取りは減ってしまった。女性も同意見なのか、頷いている。

「普通はそうですよね。でも私の場合、高校教師なんですけれど職業柄か、手書きの手紙を受け取ることがあるんです」

「それは教え子さんから、ということですか?」

「ええ」

 女性は塩見の問いかけに対し首肯する。俺は彼女の職業に納得していた。高校教師。どうりで身だしなみがきちんとしているわけだ。女性はそのまま話し続ける。

「冬から春にかけては年賀状を貰ったり、会社に内定した教え子が近況報告の手紙を送ってくれたりするんです」

「年賀状も手紙もいまどき珍しいですね。でも、いいですね。かつての教え子が近況を教えてくれるというのは」

「そうなんです。大変なときもありますけれど、そういった連絡を貰うと教師をやっていてよかったなと思います」

 ふんわりとした笑みを浮かべて、女性はチャイナ・ブルーに口を付ける。しっかりした雰囲気の彼女に、クールな色合いのチャイナ・ブルーはとても似合っている。


「どの手紙も貰えると嬉しいんですけどね。ただ、たまに文章を見て疑問を覚えることがあるんです」

「疑問、ですか。それは教師として文章が気になる、ということでしょうか」

 首を傾げて問いかける塩見に、女性はわずかに頷いてみせる。

「そうですね。例えば昨年末、転職の連絡をくれた元教え子から手紙を貰ったんですけど、その書き出しがちょっと気になっていて」

「というと?」

「文頭が、“師走の魚が美味しい季節となりました”と書かれていたんです。確かに十二月に届いた手紙なので、師走というフレーズを使うのはわからなくはないんですけど。あまり時候の挨拶で聞いたことのない言い回しですし、師走って教師が走るほど忙しいっていう意味じゃないですか。だから教師の私宛に送る文言としてはちょっと嫌味っぽいのかなって。でも手紙を送って来てくれた子は、そんな嫌味を言うタイプの子ではないので、どうしてわざわざこんな言い回しをしたのか、ずっと疑問に思っているんです」

「なるほど……確かに卒業後も先生に近況報告をする元生徒さんが、いきなり嫌味から書き始めるとは考えにくいですね」

 一気にしゃべりチャイナ・ブルーを再度口に含んだ女性に対し、塩見は穏やかに同意を示す。彼は厨房のほうへと振り返り、二つのボウル皿を持って俺たちのところへと戻ってきた。


「こちら、本日の日替わり丼、ビビンバ丼でございます」

「おお、うまそうだな」

「彩りがあってきれいですね」

 俺と女性がほぼ同時に感想を口にする。俺はちょっと気恥ずかしくなって二人から視線をそらし、ビビンバに意識を集中させた。複数の野菜と肉をかき混ぜて、ごはんと一緒に口に運ぶ。シャキシャキした野菜と、少し辛めに味付けされた肉がいい塩梅に口の中で混じり合う。

「うん、うまい」

 俺の呟きを、塩見は聞き逃さなかったらしい。

「今日は自信作らしいからな」

「そうか。バイト君に伝えてもらえると助かる」

「うん。言っておくよ」

 俺たちの会話を、横で女性も聞いていたらしい。

「本当に美味しいです、これ。ちょっとした韓国系のレストランで出てきそうな味です」

「ありがとうございます。料理人志望のアルバイトが作ってくれているんです」

 女性に対して、塩見は説明を加える。女性に再び目をやると、彼女はうんうんと頷いている。

「バーでこのクオリティの丼ものが頂けるとは思いませんでした。いい発見ができました」

「そう言っていただけると嬉しいです」


 塩見は笑顔になった後、少しだけ真面目な表情になる。

「それにしても、先ほどのお話ですが。“師走の魚が美味しい季節となりました”というフレーズ、確かにちょっと気になりますね。仰る通り時候のあいさつでもあまり聞かない文言ですし」

「ブリ、のことなんじゃないか」

 女性の話を蒸し返した塩見に対し、俺は先ほどまで考えていたことを告げる。

「ブリ? 確かに冬の魚だけど、この文章だけで特定できるのか?」

 こちらに顔を向けた塩見と目を合わせ、俺は頭の中でひとつの魚へん漢字を思い浮かべる。

「ブリは、魚へんに師走の師と書く。文字通り、冬に旬を迎えるから師走の魚という意味でこの字になっている。別の説では、ブリは出世魚の最終形態だから、年を取った魚という意味で師匠の師の字をあてたという説もあるらしいが。いずれにせよ、師走の魚というフレーズであれば、まずブリのことだと考えて間違いないだろう」

「なるほどな。魚へんに師か。確かにそれなら納得できる。“ブリが美味しい季節となりました”という意味になりますからね」

 前半は俺に対して、後半は女性に向かって塩見が応じる。女性もゆっくり頷いている。

「おおかた、手紙を書く直前にブリを食べて、時候の挨拶にオリジナリティを持たせたいと思った教え子さんがそういう言い回しを選んだんじゃないですかね。よくある時候の挨拶のように、“師走の候ですが~”と書くのはちょっと嫌味っぽいですし」

 俺は女性に対してもう一言付け加える。余計なお世話かと思ったが、俺が教え子の立場だったらそういうことをしてもおかしくないだろうと感じたからだ。差出人としては直接“師走の候”と書くのではなく、“師走の魚”と表現することで直接的な先生が忙しいというイメージを和らげたかったのではないだろうか。その考えが伝わったのか、女性の頷きが深くなった。

「なるほど。お二人のおっしゃるとおりであれば、納得できます。確かに手紙の差出人は、ちょっと個性を出したがるタイプの子でしたから。時候の挨拶も独自性を出したのかもしれません。“ブリが美味しい季節”でも良かった気がしてしまいますけどね」

「それはやはり、季節の言葉を入れたかったということなんじゃないでしょうか。ブリと書くと単純に冬が旬の魚というニュアンスになりますけど、“師走の魚”と書けば十二月に限定されますからね。十二月というのを強調したかったのだと思いますよ」

 女性の言葉に塩見がフォローを入れる。

「なるほど。……そう考えると、色々と辻褄が合います。十二月に転職が決まったという内容でしたから。ありがとうございます。謎解きをしていただいて。ずっと気になっていたことがすっきりしました」

 そういう女性の表情は確かに心なしかすっきりしているように見える。三月に入った今、十二月に届いたという手紙の内容を話題に出すということはよほど気になっていたのだろう。気分が軽くなったようならよかった。


 その後黙々とビビンバ丼を食べていた女性は、チャイナ・ブルーもきれいに飲み干してから席を立った。

「ありがとうございます。おいしいご飯だけではなく、悩み事まで聞いていただいて。バーって話を聞いてもらう場所っていうイメージだったんですけど、まさか解決してもらえるとは思っていませんでした。本当にありがとうございます」

「いえいえ。食事はともかく、お悩み事を解決したのはそこにいる海里ですから」

 塩見は首を横に振り、視線だけを俺のほうへと向ける。女性はそれに合わせて俺のほうを見た。ちょっと気まずいがここで目をそらすのは変だと思い、何とか彼女と目を合わせる。

「あ、あなたにも、お礼を言わないといけませんね。ありがとうございました」

「いいえ。思い付いたことを口にしただけですから」

 俺はいつもの癖で、つい魚へん漢字が絡んでいた事柄に対し口を出してしまったのが少し恥ずかしかった。悩みが解決したことはよかったと思うが、この調子でいちいち口を出していたら、そのうち余計なお世話だと思われないだろうか。そう考えていると、女性は微笑んだ。

「あなたの思いつきが、私の悩みを解決してくれたんです。充分お礼を受け取っていただくに値すると思います。今回は助かりました」

 俺はうまい返しが思いつかずに、黙って頭を下げた。女性はハンカチをしまいすっと立ち上がる。

「また、伺います」

「ええ、お待ちしております」

 俺が頭を上げると、颯爽と店を出ていく女性を塩見が見送っているところだった。


「またまたお手柄じゃないか、海里。これからバーの一角で“魚へん漢字絡みの事件解決”をしたらいいんじゃないか」

 バーの扉が閉じるなりにやりとこちらを向いてくる塩見に対し、俺は顔をしかめた。

「いいわけあるかよ。さっきも言ったが、俺は思ったことをつい口に出してしまっているだけだ。それを強制されたら店に来づらくなる」

「それは困るな」

 塩見はわざとらしく困ったような表情を作って笑う。

「じゃあ今まで通り、海里はこのバーの常連で、たまに来るお客さんの悩みを魚へん漢字で解決するってことでいいのかな」

「まあ、気が向いたらな」

「そういわずに。今後も頼むよ」

 意味ありげな目配せをしてくる塩見を無視して、俺はジントニックを飲み干すのだった。

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