光に憧れて【KAC20237 お題「いいわけ」】

蓮乗十互

光に憧れて

 松映まつばえに棲む読書家ならば、古書肆こしょし泥蓮洞でいれんどうの噂を耳にしたことがある筈だ。時至らねば姿を現さぬ幻の古書店と、その主人の噂を。


 十五年前の中学時代。甲本こうもと美奈にその都市伝説を教えた者はダー子、奥田多賀子。小学生の頃から変人として名を馳せていた。


「読書家としては同年代で人後に落ちぬつもりだが、まだ時が至らぬのだろう。しかしいつかまみえたいものだ。甲本美奈はどうだね」


 ダー子は人をフルネームで呼ぶ。今は新進気鋭の宗教学者として、メディアで活躍を見かけるようになった。


 美奈は進学で京都に移り、そのまま就職・結婚した。民俗学の道を諦めた今も、泥蓮洞の都市伝説はずっと頭にこびりついていて、ネットに僅かに記されたいくつかの目撃譚を、繰り返し読み耽った。人の心の一瞬の揺らぎの中に差し込む光。それが泥蓮洞という存在に共通する印象だ。


 あの日の問いに、今なら素直に答えられる。


 私もまみえたいよ、ダー子。


 夫の海外出張を機に幼い息子のまさると里帰りをした一月半の間、関係する場所を歩いた。澄鶴すんず湖大橋北詰の橋脚や南岸。畑山遺跡の復元住居。澄舞大学前のビル。日本海に面した海岸洞窟。かつてこの街にいた幻視者の旧居前。松映の街は濃密な人の想いに溢れている。


 泥蓮洞に出会えないのは、私が伝説を人間の想像力として理性的に捉えてしまうからかもしれない。言い訳のように美奈は思った。


 京都に帰る日。隣家の幼馴染み・矢口しゅんが駅まで車を出してくれた。大は「ぐちゃ、またあそぼね!」と大きく手を振って別れを告げた。


 プラットホームには数人の先客がいた。お腹の大きな妻に寄り添う夫。祖母らしき人を抱きしめる若い女性。人生の数だけ、物語がある。私も私の物語を生きていくのだ。


 やがて特急やくもがホームに滑り込み、ドアが開く。乗り込もうとした時、耳元で「また、おいでなさい」の声。振り仰ぐ彼女の目に、青空を漂泊する雲が映った。

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光に憧れて【KAC20237 お題「いいわけ」】 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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