変わる世界

スズヤ ケイ

邂逅

 物心ついた頃から、私の世界は憂鬱に塗れていた。


 視界の端に移り込む影は序の口。


 目の前を横切る首のもげた子供。


 電柱の裏から手招きする青白い男性。


 壁に向かって意味の通らない早口言葉を紡ぎ続ける血塗れの女性。


 それに、もはや人の体をなしていない何か、等々。


 数え上げればきりがないが、およそ一般的に生きている人とは呼べないものが、四六時中視界に映っているのだ。


 高校生になる頃には家中でラップ音や物が勝手に動いたりなど日常茶飯事になり、お払いだの御祈祷だの方々ほうぼうをたらい回しにされたけれど、誰も彼もインチキばかり。

 症状は一向によくならずに現在に至っている。


 今日も通学路でぶつぶつと呟きながら隣を歩く不審者がいるが、私はなるべく意識を向けないように努めていた。


 これまでの経験や助言から、これらのものと迂闊に視線を合わせてはいけない、見えていると気付かれてはならない、という教訓を得ているからだ。


 しかし今日の私は先日友人と喧嘩をしたこともあって、非常に苛立っていた。


 隣でぼやき続ける中年サラリーマン風のなにかへ向けて、


「もう、うるさい!」


 と、うっかり大声で怒鳴り付けてしまったのだ。


 気付いた時には後の祭り。


「やっぱりお前見えてるんじゃないかなんで返事しないんだよこっち見ろよなあなあなあなあなあ!」


 そう大音量で喚き散らしながら、崩れた顔を私の鼻先に近寄せて来るなにか。


 思わず立ち止まると、足元に小さななにかがしがみつき、わらわらとよじ登ってきた。


 そして顔を背けた先の十字路からは、満面に笑みを湛えた巨大な顔を持つ中年女性が手を振りながら走って来る。


「もう嫌あ!! 助けて!!」


 私は思わずしゃがみ込み、目も耳も塞いで助けを求める事しかできなくなっていた。


 それでもこの世ならざる音の洪水は止まず、日常に紛れて麻痺していた恐怖が全身を駆け巡る。


 そんな時。


 ぱしん、と澄んだ打撃音が一つ鳴るのが聞こえた。


 すると今までの狂騒が嘘のように消え失せ、凪いだ空間に放り出されたような気がした。


「──大丈夫ですか?」


 次いで涼やかな男性の声が聞こえ、私は恐る恐る目を開いてみた。


 そこには何の変哲もないYシャツにジーンズを履いた若い男性が、にこやかにこちらを見下ろしている姿があった。


 その両手は重ね合わされており、どうやら先程の音は柏手かしわでを打ったらしいと思い至った。


 柏手には魔を払う効果があると言う。


 伊達にお祓いを何度も受けていない。そういう知識だけは溜め込んでいた。しかし実際に効果を認めたのはこれが初めてだった。


 私はしばらく呆然としていたが、


「立てますか?」


 と、件の男性が手を差し出してくれ、情けなくも引っ張り上げてもらう形で立ち上がった。


「ええと、あのう……」


 事態が呑み込めない私が落ち着くのを、男性はにこにこと待っていてくれた。


「大変だったでしょう。今私達は、誰にも見えていません。存分に休憩なさって下さい」


 周囲を見回してみれば、なるほど確かに歩道のど真ん中に立ち塞がっている私達を気にする様子の人はいない。

 ついでに言えば、長年悩まされてきたなにか達でさえも。


 そういう結界を張ったのだ、と男性は言う。


 今まで散々探して見つからなかった、の霊媒師なのだろうか。


「あの……あなたが、助けて下さった、んですよね?」


 息が整ってから、だけど頭の整理は付かないままに尋ねる。


「ええ。あまりに見ていられなかったものですから思わず手を出してしまいましたが、余計なお世話でしたか?」

「いいえ、とんでもない! あそこまで酷いのは初めてで、どうしたらいいかわからなくなって……本当にありがとうございます!」


 私が深々と頭を下げると、男性の柔らかな声が降って来た。


「それなら良かった。貴方は少々見え過ぎる体質のようですね。ご苦労されているようでしたら、余計なものを見えないように霊気を正すこともできますよ」


 それは今まで求めて止まなかった頼もしい言葉だった。


「ええと……お願いしたいのですが、あまりお金はなくて……」

「ははは。お金なんか取りませんよ。もちろん宗教の勧誘でもありません」


 男性は快活に笑い飛ばす。


「まあ、怪しまれるのも当然ですけどね。もちろん、信じずに今までの日常に戻られるのも良いでしょう」


 今までの日常……あの悪意渦巻く陰鬱な世界に?

 そんなこと、良い訳がない!


 そう即断した私は、すぐさま頭を下げていた。


「よろしくお願いします!」

「わかりました。では少し目を瞑っていて下さい」


 男性の言葉に従うと、両方の瞼をさっさっと指先でなぞられたような感触がした。


「はい、もう目を開けていいですよ」

「え、これだけですか?」


 今まで散々大袈裟な祈祷紛いを受けてきた身にすれば、呆気ない程事は済んだ。


 意を決して目を開くと、異形の類は視界から綺麗さっぱり消え失せていた。


「すごい……」

「お役に立てたようで何よりです」

「あ、あの!」


 一礼してきびすを返そうとした男性を、私は思わず呼び止めた。


「どうして、見ず知らずの私を助けてくれたんですか?」

「困っている人を助けるのに、言い訳が必要ですか?」


 質問に質問で返すと、では、と言い残して男性は結局名乗りもせずに去って行った。


 気付けば、朝の通学路の雑踏が戻ってきている。


 私は男性との出会いを感謝し、新しくなった世界へと足取り軽く踏み出した。

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