バスに乗ってて、いきなりキスされたんですけど
でい
バスに乗っていたら……
バスで隣の人にキスされた。
自分でも何を言っているのかわからないし、何が起きたのかよくわかっていない。だけど事実なのだから仕方ない。その衝撃たるや。たぶん心臓が半分くらい飛び出ていた。
そんなわけで。一晩経ってもモヤモヤした気持ちは収まらず、ついでにヤケ酒の酔いも
「ねむい……」
「
部長が新人くんに説教してる隙を突いて、同僚の
「知ってて言ってるでしょ? こっちはしばらく無縁なのです」
「絵里もいい加減
「それで上手くいった経験ある?」
「ないから試してほしー」
「ま、冗談はともかく。ホントたまには、ちゃんと恋愛っぽいことしなよ? 仕事ばかり追ってないで、ときには恋に生きないと。……あ、ほらっ、営業の
「んー。じゃ、お言葉に甘えて。息抜きに、お手洗いガーデンでお花摘んでくるね」
そっちー? 柏木いいじゃーん、と優衣がしつこいので、離席がてら脳天チョップをお見舞いする。頭をさすりながら、わざとらしいふくれ面で抗議するお節介にヒラヒラと手を振って、わたしはそそくさとオフィスから逃げ出した。
同期の優衣とは入社したてから波長が合い、今となってはざっくばらんな関係。このような遠慮のない会話は日常茶飯事だった。いつものようにちゃかし合いの応酬……といきたいところだけど、思わぬ名前を出されたことで退散せざるを得なかった。
去り際の態度も不自然じゃなかったと思うし、便意の近いフリしてなんとか
女の勘、
噂をすれば影が立つというやつだろうか。扉を開けると、自販機の前にその柏木が立っていた。急いで
「おっ、
その瞬間、音が止んだ。
壁に亀裂が
わたしの怒りで――
「いいところに来たな、フッ。じゃないわよバカ! アホ! 柏木!」
「柏木は悪口じゃないだろ」
「立派な悪口! 食欲、睡眠欲、柏木!」
「人を三大欲求みたいに。あ、そうそう。新垣、この自販機でどれが一番美味しいと思う?」
こ、こいつ、スルーしおった。
わたしがすでに
と、内面では怒っていても。優衣いわくけっこう単純なわたしは、
「えっ? んー、急に言われても全部飲んだことないしなぁ。でもわたしはこれ、好きだけどなー」
ふつうに返事して、マスカット味の清涼飲料水を指差していた。……うん、きっとわたしの寛大な心は仏に域まで達したのだろう。阿弥陀系女子の誕生である。
「ふーん」
柏木は小銭を自販機に投入しながら、気のない鼻息をもらすだけ。やっぱりシメておくべきかもしれない。社会のために、すさんだ世で純情を抱き続ける乙女のために。
だって——
昨日のキスは、なんだったの。
目の前から離れていく、柏木の真剣な表情が脳裏に浮かぶ。
仕事帰りの通勤バス。新商品のプロモーションプロジェクトがひと段落つき、わたしは連日の疲労からウトウトしていた。停車駅に着いて顔をあげると、隣に座っていたはずの柏木の顔が
残っていたくちびるの違和感に状況を察したわたしは、そのままバスを飛び降りていた。
たしかに柏木とは、優衣ほど近くはないものの、同期の腐れ縁から気の置けない仲になっていた。飲み会の馬鹿騒ぎや、居酒屋での
「あのね、昨日の……」
「そういえば新垣、昨日バスで、すげーよだれ垂らしながら寝てたな」
「え?」
「拭いてやったんだから感謝しろよ」
え?
え―――――――――っ!?
……キスじゃ、なかったの?
あれって、わたしの思い違い!?
よだれまで垂らして、しかも拭いてもらったとは。きっとアホ面で寝ていたんだろうなぁ。……うん、死にたい。天に召されたいよ。そして阿弥陀系女子らしく
恥ずかしくて泣きそうになるのを我慢していると、柏木が申し訳なさそうに言った。
「でもなんか勘違いさせたみたいだから、ちょっと悪いなって。だからこれ」
自販機から取り出したペットボトルを手渡す。さっきわたしが指差したものだった。
気がつくと、わたしは涙を流していた。
ほっとしたのだろうか。
いや、違う。
得体のしれない、このモヤモヤとした不安定な気持ちは、おそらく悲しいのだ。
今回の件であらためて思い返してみると、わたしは、
柏木に対して好意のようなものを、たぶん抱いていたのだと思う。
だから、柏木の言った「勘違いさせた」の意味が、心を強く握りしめたのかもしれない。
ぼろぼろと涙をこぼしながら
柏木にしてみたら、こんな気まずい空気はなかなかないだろう。せっかくの彼なりの気遣いを勘違いされた上に、誤解をとくために弁明しなければならず。結果として、目の前で女に泣かれているのだ。そう考えると、罪悪感がふつふつと沸き上がって、なおさら涙が止まらなかった。
そっと、何かが触れた気がした。
目を開けると、わたしの頬に柏木の手のひらがあった。伸ばした親指で、わたしの目元をなぞり、優しく涙を拭った。
そのまま、柏木が口を開く。
「……そっちは、勘違いじゃないかも」
——
————
——————
「あっははっ、何度聞いても笑える! あんたたちの馴れ初めはマジでネタすぎるよ」
優衣の馬鹿笑いが居酒屋の一室に
事あるごとに、優衣は面白がってこの話題をふってくる。恥ずかしがるわたしを見るのが楽しくてたまらない様子。相変わらずのわたしと優衣の関係だった。
柏木と付き合った報告をしたとき、優衣は自分のことのように泣いて喜んでくれた。しかしその経緯を説明すると、とたんに笑い泣きに変わった。笑いすぎて過呼吸を起こしたくらいだ。あまりに笑いすぎだったので、ノロケ話で地道に復讐しているところである。
でも。
同期たち、優衣にも言ってないヒミツを、わたしは持っている。
わたしたちの馴れ初め。わたしの勘違い。
実はバスでキスした、柏木のいいわけだってこと。
バスに乗ってて、いきなりキスされたんですけど でい @simpson841
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