老婆と月
月猫
海を見つめる老婆
老婆は海を見ていた。
太陽に染まっていくオレンジの海を、じっと見つめていた。
今どき、これほど腰と背中が曲がっている老婆に出会ったことはない。
曲がった体が、長く生きた彼女の人生を物語っているようだった。
夕日に染まる海をカメラに収めようと車で来たが、どうしても老婆から目が離せない。日が沈んでも老婆は帰ろうとしない。それどころか、海へ海へと歩みを進める。
『まさか?』
俺は慌てて車を降り、老婆に声をかけた。
「おばあちゃん、こんばんは。月が綺麗ですね」
咄嗟に出た言葉は、愛の告白みたいになってしまった。
老婆は驚いた顔で俺を見て、それからにっこりと笑った。
「死んでもいいわ」
―—えっ? えっ?
これは、どっちの意味だ?
『月が綺麗ですね』の愛の告白に返す定番の言葉は、確か『死んでもいいわ』だけど、このシチュエーションでの『死んでもいいわ』は、自殺を考えてるってこと?
えっ?
どっちだ?
慌てふためく俺を見て、老婆はクスクスと笑い始めた。
「驚いた――。その言葉を聞くのは、人生で二回目だ。一回目もここで、善六さんにそう言われたっけ。私は、『死んでもいいわ』そう答えたよ。もう、ずっとずっと昔の話さ」
「あっ、そうだったんですか。その善六さんとは、どうなったんですか?」
「生きて帰ってきたら、祝言をあげるつもりだった。でも、戦争が終わっても善六さんは戻って来なくてね。善六さんはもう亡くなったんだから、お前も早く他の人と結婚しなさいと言われて、親の勧める人と結婚したの。あの時代の若い女は、みんなそうだった」
「愛する人を戦争で亡くしてしまったんですね」
「いいや。善六さんはな、私が別な人と婚約してから戻ってきた。生きてたんだよ」
「えっ?」
「そして善六さんはな、婚約者と別れて俺と一緒になってくれってそう言ったんだけど……。私、イケメンの婚約者に惚れちゃって『善六さんが亡くなったって聞いて、別な男と婚約させられてしまったの。私は、善六さんと結婚の約束してるんですって、何度もそう言ったのに無理やり婚約させられて……。本当にごめんなさい』って、涙を流して言い訳したんだ」
「——そう、なんですか」
「でも、イケメンの男となんか結婚するんじゃなかった。夫はあっちの女、こっちの女と遊んでばかり。おかげで私は苦労の連続。朝から晩まで畑仕事。冬は夫に代わって出稼ぎ。気がつけば、あっという間にしわくちゃのおばあちゃん。これでも若い頃は、美人でモテたもんなのに……。善六さんはというと、会社を立ち上げてそれが成功してね。私の幼馴染が、善六さんと結婚したんだけれど、社長夫人で優雅な毎日を送っているのよ、あぁ、羨ましい。本当に、結婚相手を間違えちゃったわ。もう、嫌になる。あの時、あんな言い訳しなきゃ良かった」
「……」
老婆は、海に仕掛けていた網を回収し魚を捕り家へと帰って行った。
完。
老婆と月 月猫 @tukitohositoneko
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