その声を発したのは、意外にも少年の方であった。優斗は横断歩道を夢中になって渡り切り、弾んだ息をそのままにして、振り返る。


 少年が崩れていく。比喩ではない。本当に崩れていく。足もとから順番に力が抜けていくように、まるで糸を失った操り人形のように、がっくりと、間接をまげて崩れていく。


 その奥で少女は黙って立っていた。赤信号の下で、不気味に首をかしげて、表情も変えずに立っている。対岸の優斗を見ている。


 何が起こったのか分からない。優斗は混乱した頭を押さえる。


 少年は崩れたまま、動かなくなった。このまま車が来れば間違いなく轢かれてしまう。


 と、そんなことを思っていると、本当に一台の大型の常用車がこちらに向かってきていた。ライトを煌々と伸ばし、コンクリートの上で崩れた少年を照らす。優斗は、少年の下に影がないことに気が付いた。転がっているナイフのものより他に、伸びるはずの黒い影がない。


 ふと、乗用車が少年を轢く前に停止した。黒の大型のワゴン車。窓にはカーテンが轢かれており、内装は見られない。唯一見られる運転席と助手席は、特にこれといった特徴がなかった。


 ワゴン車から人が下りてくる。運転席側だった。


「ずいぶん早かったな……」


 運転席から降りてきた若い男が言う。


 男は二十代くらいで、小奇麗な格好をしていた。皺ひとつとして見られないスーツを着込み、上には上質そうなコートを羽織っている。髪は七三に几帳面に分けられ、眼鏡は銀縁であった。コツコツと音を立てる革靴は、信号機の赤色の光を反射している。


 男は高い身長を折り曲げ、崩れている少年をまじまじと見、そして奥で立っている少女の方を見た。優斗とは違い、冷静そうである。


「あの……」


 優斗はその心細さに、ついその若い男に話しかけた。


「この子、急に現れて、その……」


 異常な事態が飲み込めず、言葉が詰まる。先ほどまであった出来事を語ろうとするが、上手く整理することができない。


 しかし男は、


「いい。分かる」


 と、さも普通のことかのように軽く流した。優斗の方に目を向けると、ツカツカと歩み寄る。


「行くぞ」


 そう言って、男は優斗の左肩に手をかける。咄嗟のことに、優斗は再び混乱した。


「え……行くって」

「青井優斗。うちで預かることになってる」


 再び呼ばれる自身の名前に困惑した。どうしてこの人たちは自分の名前を。というか、この人たちは一体誰なのだろうか。見知らぬ人の車に乗ってはならないと再三言われてきた優斗は、危険信号を感じずとも、それが明らかに危険であることが分かった。


 優斗は踵を返して駆け出そうとする。しかし上手くいかなかった。男が優斗の肩をガッシリとつかみ、優斗の口元にハンカチを当てる。


 弾んだままの呼吸で、その空気を吸わないはずがなかった。


 優斗は眠りに沈んでいく。くらくらと酔ったような感じを味わった後、朦朧とする意識のなか、「何もそんなことをしなくても……」


 という、知らない男の声を聞き取り……。




 優斗が目覚めたころには、周囲が明るくなっていた。


「……」


 彼はベッドの上に寝かされていた。病院に置いてあるかのような、清潔で白いベッドである。人を寝かせるためだけに開発されたような、柔らかくもなく、固くもないマットレスだ。彼はまだハッキリしない頭を起こす。


 見慣れない景色が広がっていた。六畳ほどの狭い部屋だ。四方の壁には窓がなく、部屋の明かりのみが光源となっている。時計がとこにもない。今が朝なのか夜なのかも分からなかった。


 勉強机のような小さなデスクに、堅そうな木製の椅子が、ベッドの脇に設置されていた。優斗の見る先で、木製のドアが黙って閉じている。ドアの傍らに、優斗が付けていた赤いマフラーと手袋が放置してあった。


 優斗はそれを見て、ようやく気付く。自分が意識を失う前にあった出来事。そして自分は誘拐されたこと。それが夢ではなかったことが、今のこの現状が証明している。


 逃げなければ。優斗はそう考えるも、危険信号は出ない。この異常以外の何物でもないこの状況、普通ならば、すぐにあの感覚が襲ってくるはずだった。しかし今、優斗は自分でも驚くほどに落ち着いていた。あの少女たちを目の前にしたときは、すぐに発動したというのに。


 思えば、あの若い男の人に連れられそうになったときも、危険信号は消えていた。


 どういうことだ。そう考えている最中、不意に目の前の扉が音を立てて開いた。優斗は身を固くする。現れたのは、あの記憶にあった若い男の人だった。


「起きてたか」


 男はそう言って、傍らに置いてあるマフラーと手袋を邪魔そうに足で退ける。コートは着ていないものの、あの上等そうなスーツは、記憶のものと同じであった。


「あの……ここどこなんですか」


 優斗は恐る恐る聞くも、男は無愛想に返す。


「言わない」


 男はそれだけ言って、内ポケットから取り出したタバコに火をつける。目の前に優斗がいるというのにお構いなしだ。吐きだした煙の匂いがベッドまで漂ってくる。深く苦い匂いだ。


 と、男の後ろの扉が開く。


「ちょっとちょっと、まさかそこで吸ってない? 嘘でしょ?」


 扉から頭を出したのは、男と同じくらいの年齢の女だった。


 オールバックの前髪は金髪であり、後ろで一つの三つ編みになっている。髪をまとめているリボンは山吹色にピンクが差し込んだ色合いであり、可愛らしさを出している。


 ぱっちりとした二重の目も黄色のカラコンで色鮮やかになっており、ナチュラルなメイクは端正な顔に華やかさを添えていた。


 ぶかぶかのパーカーを着て短パンを少しのぞかせるという、今時の恰好をした女であった。耳にはこれでもかというほどゴテゴテしたピアスが貫いている。


「うわサイテー。未成年の前で、しかもここ密室なのに」


 しかしその声は成人男性の発するような低いハスキーボイスであった。女は優斗の方に目を向け、申し訳なさそうに眉を寄せる。


「ごめんねぇ、うちの馬鹿が。……ほら、火ぃ消しなよ」


「……うざ」


「あのさ、丁重に扱えって言われてんじゃん。この子死んだら一貫の終わりなんだからさ、自覚持ちなよ」


「うるさい」


 男は迷惑そうに部屋を出る。タバコの火は消さなかった。


 入れ替わるような形で、女が部屋へと入ってくる。傍らのマフラーと手袋に目を向けると、わざわざしゃがんで拾い上げた。


「もう、仕事が雑なんだから……」


 そう呟く声は、やはり男性のものである。よく見ると、首にはのどぼとけがくっきりと出ていた。どうやら女性の恰好をした男性らしい。


「災難だったねぇ。よりによってファーストコンタクトが仙斉せんさいだなんて。あんなやつばっかじゃないからね、ここ。勘違いしないでね」

 仙斉、というのは、あの男の名前であろう。女の恰好をした男は、そう言いながらデスクの上にマフラーと手袋を置いた。椅子を引いて、ベッドの傍らに腰かける。優斗は困惑を隠さずに言った。


「あの、これ、どういう状況なんですか。てかここ、どこなんですか……」


 その問いに、男は驚いた様子で答える。


「本当に何も言ってないんだ……。まぁそうじゃないかとは予想してたけどさ。んじゃ、説明するね。ワタシの名前は鬱金うこん。『はぐれ鳥』の一員だよ」


 鬱金と名乗った男は、ジェスチャーを混ぜながら事の状況を説明していく。


「まず、どうして君が誘拐……じみたことをされたかというとね。君のお父さんに関わることなんだ」


「……父が? でも……」


「うん。君の御両親は十年前に離婚して、それ以来一切連絡を取ってないんでしょ」


 いたって普通のことのように鬱金は言う。優斗は何も言わずに、耳を傾けた。


「君のお父さんは研究員だってことは知ってるかな。とある反社組織の一員なんだけどね。ここではその組織を、『東亜軍』って呼んでる。奴らはアジアのいろんなところで組織を組んでて、いずれは国家転覆を狙ってるんだけど……って、それはまぁいいや。つまりお父さんは東亜軍の一員で、大規模テロを起こすための手伝いをしてたの。ここまではいい?」


 全然よくない。優斗にとっては夢のような話である。しかしこの状況を理解するためにも、その話を一度飲み込んだ。優斗はうなずき、鬱金に次ぎを話すよう求める。


「で、ここからがヤバめな話なんだけど……。君のお父さん、何を思ったかしらないんだけど、この国のどこかに、核爆弾を設置したらしいんだよ。それも超大規模なやつ」


 現実とはかけ離れすぎている話に、もはや優斗は驚くこともできずにいた。


「端的にいって超ヤバイ状況なのね、これ。一応それは内閣の耳に入ってて、今は国民の混乱を抑えるために内密にしてるの。んで、ここからまたヤバイんだけど……。その核爆弾の起爆剤が、君なのね」


「……俺?」


「そそ。君の鼓動が止まった瞬間、核爆弾が起動する仕組みになってるっぽいんだよ」


「……そんなの、ありえないんじゃ」


「わかるわかる。ワタシもそう思ってたんだけどさ、君、三年前くらいに交通事故にあってるよね? 結構大きめの」


 記憶を思い返す。たしかにそのくらいに、大型トラックの暴走運転に巻き込まれ、大勢の死傷者を出した事故があった。その被害者の一人として、優斗は負傷したのだ。気づいたら病院にいたあの景色を思い出す。目を覚ましたその時にはすでに、自分の胸のあたりに手術跡が残っていた。


「そのときにいじられたみたい。当時のカルテ確認したんだけど、明らかな偽物だった。執刀医を捕まえて事情聴取したら、なんとその医者、東亜軍が差し向けた研究員だったんだよねぇ。びっくり。そして君のお父さん、青井雅之あおいまさゆきが日本にいたのも、三年前の同時期。もう意味わかるよね?」


 サッと自身の顔が青ざめていくのが分かる。優斗は、まだこの話を信じているわけではない。しかしながら、どこかこの話を嘘ではないと思っている自分がいた。鬱金は続ける。


「ワタシたちは、内閣から直々に命名された、いわゆる裏組織。対東亜軍用のね。ワタシも、元々は国家公務員として働いてたんだけど、急にこの組織に異動になってね。大変よ、まったく。あの仙斉も、元は白バイ警官だったんだよ。各方面の国家の人材から優秀な人たちを集めた、東亜軍に対抗するための組織。それが『はぐれ鳥』ってわけ」


 鬱金は笑って見せるも、優斗にとってはそれどころではない。


「で、君の身柄なんだけど、君に何かしらのことに巻き込まれて死なれると困るじゃない? だから、ワタシたちが保護するって形を取ったの。このこと全部を説明したわけじゃないけど、チョロチョロっと誤魔化してね。もちろん、親御さんにも許可を得ているよ。だから君に危害が加わることはない。安心してね」


「……信じられません」


「そうだねぇ、でもこうなっちゃってるのは事実なの。ぶっちゃけ言っちゃうと、君が信じようが信じまいがワタシたちにとってはどうでもいい。ただワタシたちの手の届くところで、大人しくしててほしいってだけ。……まぁ、軟禁って形になっちゃうけど」


「外に出して、と言ったら……?」


「無理だね」


 きっぱりと言い切る鬱金に、優斗は怪訝そうな顔を向ける。


「そんな顔しないでよ。これは君の安全のためを言ってるんだから。君、仙斉が来るまで、ちっちゃい女の子と男の子の双子に絡まれたでしょ」


 あの少女と少年のことを思い出す。突如として現れたあの双子。人間じゃないと咄嗟に感じたあの双子。


「まぁ君も察したかもしれないけど、あれは東亜軍が差し向けた連中ね。大方、君の息の根を止めろって指示されたんじゃないかな。あれ、ワタシたちは『ツイン』って呼んでる。東亜軍がよく使うのよね、あれ。あの双子の正体は、めっちゃ高性能のAIなの」


 優斗は頷いた。あの人間じゃない感じは、そう言われても説得力がある。


「アンドロイドって言った方がいいかもしれないね。双子型アンドロイド。東亜軍って何故かツインを使いたがってね。怪力の少女と俊足の少年。他にもいろいろなバリエーションがあるけど、君が遭遇したのはそれだね。対応したのは白藤しらふじかな? 大抵、ツインの対応は仙斉と白藤のペアだからさ」


「呼んだぁ?」


 ふと、その声と共に扉が開く。しかし、そこには誰もいない。ただ扉がひとりでに開き、勝ってに閉じただけだった。


「また透明化してるよ、白藤君」

「え、ごめんごめん」


 すると何もないところから、にじみ出るようにその男の姿が現れる。童顔の、若い印象を持たせる男だ。茶髪の短い髪が無造作に乱れている。黒の革ジャンとジーパンを履き、背中にライフルを背負っていた。


「彼が白藤君ね。うちの優秀なスナイパーだよ」


 そう鬱金が言うも、優斗は目の前のことを理解できずにいた。空間から突然人間が現れたのだ。


「初めましてだねぇ、優斗君。もう話は聞いたかな?」


「……えと、なんで……」


 その困惑に鬱金が気づく。ああ、と一息いれてから、白藤の方を見て言った。


「透明化ね。白藤君は色々あって人体実験されたんだよね。東亜軍に。そのときにいじられた結果が、透明化っていう『才能』なんだよね」


 才能、という言葉を優斗は繰り返す。白藤が続けて言った。


「そう。人には全員、何かしらの才能があるんだ。運動とか、勉強とか、それ以外にもね。ここにいる皆もそうだし、鬱金にも、もちろん君にも。それを最大限に引き出す実験だ~とか言って、研究された結果が僕ってことなんだよねぇ。まぁそのおかげで、スナイプが上手くいくんだけども」


 白藤は背中のライフルをさする。


 優斗にはまだことの状況に追いつけていなかった。鬱金が話したことも、まだすべて信じ切ってはいられなかった。


 しかし、自分はまだ生きている。傷一つつくことなく、生きている。その事実だけが唯一の救いだった。そして。今鬱金が話したことが、すべて本当なのだとしたら。優斗は無意識に口角をあげた。


 自分が必要とされている。自分に生きていろと言われている。あの暗い部屋のなかでは絶対に言われることのなかったこと。なんの取り柄もない自分に、免罪符が与えられた瞬間かもしれなかった。何か特別な力によって、自分の命が保証されたようだった。それも、自分の父親によって。


 優斗は表現できないような高揚感に包まれた。


 それは一種の狂気であった。


「……混乱するよね。少し席を外すよ」


 そう言って、鬱金は白藤を連れて外に出る。ヒソヒソと、何かを言いながら。


 しかし優斗は気づかない。自らの右手を見て、首筋の脈を感じ取って、ひそかに笑みを浮かべているだけだった。


「あの子はやっぱり、青井雅之の子だ」


 そう言って、扉の裏で、鬱金と仙斉が顔をしかめているのも知らずに。

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