CORE

かえさん小説堂

 青井優斗あおいゆうとは重く両肩にのしかかるリュックサックを背負い直す。


 彼はもうすっかり暗くなってしまった夜道を気だるげに歩いていた。肌を刺すような寒波に包まれてしまったためか、まだ夜は浅いというのに、住宅街には人っ子一人として見られない。街頭の点々とした淡い明りのみを頼りに、彼は歩きなれた道を、ほとんど無意識のように歩き進めていたのである。


 体の倦怠感がいつもよりも大きいのは、暗くなるまで続けた自習のせいのみではないのだろう。彼は帰路につくとき、決まって鬱々とした気分にさいなまれる。家に帰れば、この夜よりも暗い部屋の景色が待っている。


 どっさりと入った教材が肩に重圧をかける。これだけの教材を使って、これだけの重みの能力がついているのだろうか。彼はぼうっとした表情のなかで、そんなことを考えた。彼の進路希望調査の紙は、くしゃくしゃのまま白紙を保っている。


 自分とは違って、父親は優秀だったと、いつも母から聞かされていた。


「あの人は凄い人だった。頭がよくて、賢くて、とてもカッコいい人だった」


 その先にいつも言われる言葉が、優斗にとっては得も言われぬ苦痛であった。


 大した傷ではない。そのように他人から評価されるのに嫌悪しているわけじゃない。そう自分に言い聞かせても、どこか心のどこかに小さな痛みを与えては、その存在感を残していたのだった。ちょうど、魚の小骨が喉に突っかかったときのように。


 空腹が優斗を襲う。昼にかじった菓子パンの味を思い出す。あれ以来何も口にしていない。不摂生だとよくクラスメートに言われるけれど、その時はあまり気にならなかった。空腹を感じるのは、いつも帰り際になってからだ。そして後悔するのが常だった。



 冷蔵庫はまだ機能していたよな、と、優斗がそんなことを考えて、信号を前に立ち尽くしていた時だ。冬の乾ききった暗い空気のなか、赤色のライトはまぶしいほどに煌々と光っている。ここの信号は長い。車の白いライトは一つとしてないのに、赤色の「停止しろ」という命令だけが、ただ無意味に意識を持っている。優斗はそれに従って、少し斜めになったコンクリートの上で立っている。


 そこに、女の子の影が差しこんだ。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 そのあどけない声とともに、学ランの袖を小さく引っ張られる。優斗はぼうっとしていたところから目が覚めたように意識を戻し、声の方へと目を向ける。


 ショートカットの女の子であった。黒く、まとまりのある綺麗な髪は顎のラインで切りそろえられ、前髪は眉の上でおとなしく並んでいる。少し太めの眉がゆったりとした曲線を描き、その下の丸い両目は大きく、存在感を放っていた。優斗の腰くらいの身長であり、おそらくその年齢は十歳を少し超えたくらいであろう。材質のよさそうなワンピースは、袖のところにフリルがついていた。目鼻立ちが整っており、綺麗な容姿をした、可愛らしいという印象を持たせる少女である。ただ、信号機の赤色のライトのせいで、少女全体が赤色がかり、少し不気味に見えた。


 優斗は最初驚いた。こんな暗い中で、少女が一人で出歩いているなんて。彼は少しかがみこみ、少女に目線を合わせて話す。


「えっと……どうしたの? 危ないよ」


 優斗は顔をあげて周囲を見回すも、親と思しき大人はいない。先ほどと同じ、静寂と街頭のライトのみが存在しているばかりであった。


 少女は不思議そうな顔をして、優斗の顔をまじまじと見る。学ランの袖は、依然として握られたままだった。


「あのね、探しているの」


「探して……? 何を?」


「人!」


 少女は年相応の元気な声でそう言った。想定外の答えに、優斗は後頭部を掻く。


「えーと……それじゃ分からないな。名前は知ってる?」


「んっとね、……」


 少女は少し考えるそぶりを見せ、思い出したようにその言葉を放つ。


「青井優斗!」


 少女の高い声で発された自分の名前に困惑する。どうしてこのような女の子が。信号機は未だ赤色のままである。少女はまっすぐな目で、じっとこちらを眺めている。その顔があまりにも不気味で、どこか恐ろしく、優斗は思いがけず冷や汗をかいた。


「なんで、俺の名前……てか、君、誰……?」


 呟くように言う。しかしその細い声を、少女は聞き逃さなかった。


「お兄ちゃん、青井優斗なの?」


 コテン、と首をかしげて見せる。学ランの袖は握られたままだった。小さな手でギュッと握りしめられた袖がピンと張っている。優斗はその手をどかそうと、学ランの袖を軽く引っ張った。


 しかし、小さな手は一向に離れない。グイ、と強く引っ張っても、取り付いたように手がついてくる。少女にしては、力が強すぎる。袖に皺が寄っていた。


「お兄ちゃん、青井優斗なの?」


 繰り返し言う少女は、もはや普通には見えなかった。


 優斗は気づく。この少女が、先ほどからずっとまばたきをしていないことに。


「お兄ちゃん、青井優斗なの?」


 危険信号が胸の中で鳴っていた。体内の内臓が浮かんでいくような、命が漂うような、妙な感覚である。それが起こるときは、決まってその近い未来に、不幸が体現した。嫌な予感、とでも言おうか。それを優斗は危険信号と呼んでいた。ともかくもそれが今、優斗の感覚に現れている。


 逃げなければ。


 彼は危険信号のなか、やけに冷静な頭でそう考えた。少女は優斗の顔を見つめ続け、無垢な表情を固めたまま停止している。子供相手なら、と、優斗は少しずつ後ずさる。


「お兄ちゃん、青井優斗……なんだね?」


 少女の目がらんらんと輝いた。口角が上がり、綺麗な微笑を浮かべて見せる。しかし依然として目は開いたままであり、まばたきをするそぶりは見せなかった。


 人じゃない、と直感的に思う。


「青井優斗だ! やっと見つけたよ!」


 少女は甲高い声で言い放った。嬉しそうな声色であるが、その表情は先ほどと少しも変わっていない。


「見つけた! 見つけた! あはは!」


 ぴょんぴょん、と軽く弾んでいる。その動きは軽快であり、やはりその年齢が幼いことを示唆しているようであった。


 優斗は袖を引く。しかし少女の手は離れない。もう周囲は暗い。そろそろ信号が青に変わるころだ。優斗は両手で袖をつかんで力を籠める。それでもなお、少女の手は鉄のように確固として動かなかった。


「見つけたよ、『お兄ちゃん』」


 と、途端に少女は笑みを消した。先ほどまで微動だにしなかった手をパッと離し、不気味なほど端麗な顔を真顔に戻す。


 優斗は尻もちをついた。リュックの中の教材が碇となって、容易に立ち上がるのを拒んでいる。


 優斗はコンクリートに手をつき、すぐさまその場から離れようと試みる。足が震えて上手く力が入らない。なんだ、この少女は。どうして俺の名前を。そんなことが頭のなかを巡る。リュックが重い。これを捨てて走るしかないか。いや、これには捨ててはならないものも入っている。これがこの気味の悪い少女の手に渡ったら。そう考えると、やむにやまれない。


 すると突然、少女の背後から、同じくらいの背丈の少年が、音もなく姿を現した。優斗はその少年が眼前に来るまで、その存在に気づくことができなかった。その少年は、人間にしては動きが速すぎた。


 優斗の危険信号がうねりをあげる。全身から力が抜けていくような寒さ。血液が回っていない。命の場所が分からない。優斗は未だコンクリートに尻を付けたまま、突如として目の前に現れた少年へと目を向ける。


 先ほどの少女と似たような顔つきをしていた。髪は少女よりも少し短いが、同じ高さで切りそろえられているのは同じである。この少年が少年であると認識できたのは、そのサスペンダーと短ズボンのおかげであろう。もしこの少年がワンピースを着ていたとしたら、先ほどの少女と見分けがつかないかもしれない。


 しかしその容姿をじっくりと観察している場合ではなかった。少年がナイフを持っている。それも刃渡りが妙に長い。鋭く滑らかな刀身が、信号機の青い光を反射している。信号が青だ。逃げ道はある。


 優斗は決死の覚悟でリュックを手放し、少年に背中を見せて駆け出した。信号の青色が点滅している。横断歩道はそれほど長くはない。何故だか優斗は、この横断歩道を渡れば逃げ切れると思っていた。根拠はないが、直感的にそう思っていた。


 背後に少年の気配を感じる。少年はあの刀身が長いナイフを持って走っているのであろう。それを何に使うかなど、容易に想像できた。


 横断歩道の半ばまで差し掛かる。優斗の足は速いわけではない。きっともうじき追いつかれる。優斗は背中に針が刺されているような感覚を覚えた。背中の中央がぞわぞわとして、チクチクと痛い。まだ何も刺さっていないというのに。


 あと少し。


 そう思った矢先だった。


「あ……」

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