生まれる前に書いた遺書

如月姫蝶

生まれる前に書いた遺書

 ある日、知らない男が、僕の病室に現れた。そして、ベッドから起き上がれない僕の鼻先に、やおら漫画の本を突き付けてきた。

 忍者が異世界転生して、無双する漫画だ。

「盗作だ!」——僕は声を振り絞らずにはいられなかった。それは、もうすぐ死ぬ僕が一生懸命描いてる漫画とそっくりだったからだ。忍者の名前や、昨夜考えたばかりの必殺技まで同じじゃないか!

「どうかな? これは、今から三十年後に出版される漫画なんだよ」

 男は、ヘンテコな言い訳をした。僕は癌で、小児科ホスピスに入院していて、もうすぐ死ぬはずなのに……三十年後?

 そこへ、トイレに行っていたママが戻ってきたのだ。

 男は、素早くママの口元を塞いだ。まるで本物の忍者みたいに素早くて、ママは悲鳴をあげることもできなかった。

「ママ……僕は、未来からやって来た、あなたの息子です。あなたたちを元気付けるために、時間を超えてきたのです」

 ママの身動きを封じてそう言った男は、そこから先は、声を潜めた。

「ママ……あなたが明日決行しようとしているは、必ず成功します。僕は、そのことを知っている。まとまった金を入手できたら、高価な、最新の癌の治療を彼に受けさせてあげてね、お願いだよ」


 もしかして……いきなり現れたかと思えばあっという間にいなくなったあの男の人は、三十年後の僕だったりするのかな? 僕は、もうすぐ死んだら、異世界で忍者になりたいなんて思ってたけど、生き延びて漫画家になるのかな? それもいいな。ううん、それがいいな……


 彼女は、謎の男が、一方的に捲し立てて姿を消した後、一人で病棟の喫茶コーナーを利用していた。コーヒーカップを持つ手も、男が残して行った漫画本を捲る手も、どうしたって震えてしまう。

 病床の息子は、謎の訪問者にすっかり驚き疲れたらしく、今は眠っているのだった。

 あの男が、その言葉通りに未来からの訪問者であるのか、彼女の息子であるのか、それは実のところどうだっていい。問題は、明日の保険金殺人の計画を、彼が知っているらしいことだった。

 彼女は、あの男を差し向けたのは、明日のターゲットである夫ではないかと推理した。夫は、売れないながらも漫画家だ。妻の計画を察知して、ある意味漫画家らしい突飛な手法で、既に悪巧みは知られているのだぞと牽制したのではないだろうか。今ならまだ加害者も被害者も存在しない。あの謎の男は、雇われた役者といったところだろうか、なかなか迫真の演技だった……

 そして、彼女の手元に残された漫画本の奥付を見れば、発行年月日は約三十年後となっている。作者名こそ夫とは異なるが、絵柄は夫のものにそっくりなのだった。


「ありがとう、探偵君。やっぱり、妻は思い詰めてるんだな。実際、私たち夫婦が、新しい治療法のための大金を用意するとしたら、保険金殺人くらいしか策は無いからなあ……」

 謎の男は、ホスピスから立ち去ったその足で、余命幾許も無い少年の父親の元を訪れたのだ。父親にして漫画家である彼に対しては、男は、最初から探偵を名乗って近付いたのだった。

 妻の動機はどうあれ、その計画を阻止しなければ生き延びられない漫画家は、深い溜め息を吐いたのだった。

「いっそのこと、妻が手を汚す前に、私が自殺してしまおうか。保険金が下りるよう、事故に見せ掛けて」

「それもいいですね」

 探偵が間髪入れずに相槌を打ったため、さすがの漫画家も目を丸くした。

「いや、その……逆説的におとめようとしただけですよ。奥様に計画の決行をお勧めしたのと同じことです」

 自称探偵は、下手な言い訳のように述べた後、漫画家の元を逃げるように辞したのだった。


 パパとママへ——

 これは、僕が生まれる前に書く遺書です。

 僕が知る限り、あなたがたは夫婦揃って思い留まり、パパは生き残り、お兄ちゃんは死んで、その後、僕が生まれます。パパは、それを漫画のネタにするのです。

 ママは、僕に医者になれと言います。だけど、とても無理でした。

 パパの弟子として漫画の修行を積みましたが、お兄ちゃんが遺したアイデアとパパそっくりの絵柄で描くことしかできない。僕には自分が無いのです。

 僕はこの世に生まれたくなんてなかった。僕が生まれる前にパパかママを殺せばいいと思ったけど、その勇気すらわかなかった。

 今はせめて、お兄ちゃんがまだ生きているこの時代の片隅で、保険金が下りることを祈っています。どうかこんなくだらない遺書が、僕の存在ごと消し去られてしまいますように……



 

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