推しメーカー【いいわけ】

沖綱真優

第7話

スギ花粉がいっとう飛びまくり、マスクの中でくしゃみによる唾液と鼻水とがごた混ぜになった、一年の中で最も不快な三月中旬の今日、推しがいなくなった。


『——は、契約違反のため解雇されました』


公式ツイッターに上がった一文で、俺の推しはいなくなった。謝罪どころか、事情説明のひとこともなく、今まで応援してきたファンが、俺がどれほどの金と時間と労力を割いてきたかなど、何ひとつ気にすることなく彼女は姿を消した。

ファンと寝る清純派が山ほどいる一方で、無愛想で塩な俺の推しは女の方が好きなんじゃないかと噂されるくらいオトコのウワサがなかった。だから、安心して貢いでいられたのに。

一週間前から連絡が取れなくなったという。事務所もメンバーも。巨大掲示板のスレでは他メンバーSNSの裏アカをソースに、ファンが足取りを探っている。SNSでも他担の無責任な憶測がスギ花粉よろしく飛び交う。ファンとデキた、運営とデキた、2.5次元俳優とデキた、デキたデキたデキた。地下アイドルの解雇の理由はオトコとデキたが圧倒的だ。連絡もなく辞めるコも多いと聞く。降りるわ、とイベで知り合った同担からDMが入った。一時は競い合うようにCDを買った仲というのに、呆気なく去っていく。


推しを捨てる。そんな選択肢が、あるだろうか。

生まれついたその日から永劫続く事柄などあり得ず、当然、推しを推す活動も人生においては途中参加だ。二十六年生きてきての二年間といえば、小学六年、中学三年、高校三年、大学四年のいずれと比べても薄っぺらに思えるだろう。推し活なんて所詮は社会生活における息抜きで、推しがいなくなったのなら、別の推しを探せば良い。推し変など、珍しくもない。あちらからこちらとつまみ食いのように推しを渡り歩く者だっているし、推しという推しが短期間で引退や契約解除に見舞われる不運な民もいるのだからと。慰めか優越感か分からない言葉もネット上には溢れている。


推しを捨てる。そのとき、俺は思い出を捨てる。

メジャーグループにはない手作り感溢れるCD、サインは一枚ずつマジックの色を変えた手書きで、書き慣れていないのか文字が安定しない。初期のポスターはコンビニのカラーコピー製で、自分でも複製して部屋の壁いっぱいに貼っていた。見上げ見下ろし見つめる彼女の表情はどれひとつとして同じでなく、敬愛と嘲笑と熱情を抱く複雑な心を見せた。

真夏のサンタコス衣装から千切れ飛んだ白いポンポンは、彼女の零した液体にじっとりと湿っていた。密閉保管してから一年三ヶ月、封を開けるのさえ惜しかったというのに、中身も見ずに捨てろというのか。



「どうして……」


ヤマムラは声に出した。掠れた声。胸に開いた穴から空気の半分以上は抜けて言葉になる前に霧散する。そのくせ呼吸音と動悸はやたらに激しく耳朶を打つ。食事は喉を通らず、ゼリー飲料でごまかし、仕事に行く気にはならず、この一週間で三日休んだ。今月はもう有給休暇を七日も消費していて、休暇願いに対する上司の返信も等閑になっている。


推しに捨てられた。

それを事実として認めろというのか。終演後の疲れ声での『あんがとー』が焼き付いた脳が全力で拒否して、突き付けられた事実と焼き付いた偶像の間に起きる反発に吐き気がする。二百人入るハコに二十人しかいないファンの、ひとりひとりに視線を合わせるメンバーとの決まりごとを無視して、じっと俺ばかりを見詰めていた彼女が俺を捨てたとか、間違いに違いないのに。


推しに捨てられた。

生誕祭に渡したタグホイヤー、ゴツ目が好きだと聞いたから食費削って金貯めて。一緒に撮ったチェキ五枚、塩の彼女が誰にも見せない笑顔で映ってた。ふたりの仲を誰が引き裂けるというのだろう。二年間支えて支えて支えた互いを。


誰が。

俺の世界から俺の推しを奪ったのか。


気分が悪くなり、また吐いた。胃液の臭いで、また吐く。トイレにうずくまり、支えられない頭を便器に乗せて放心している。そのうち力が抜けて、顎が落ち、首が絞まる。力を抜いたまま、そのままの姿勢で居れば。地獄から抜け出せる。地獄だ。目を閉じれば天国に——


天国にはいない。

あんなもの、天国には行けない。

地獄なら、同じだ。


ピロン。

ポケットのスマホが鳴った。ケースにチェキを挟んであるから、家の中でも肌身離さず持っている。

上司からの連絡だ。体調不良でも何か食べろよ、何か差し入れようか、と。昨年コロナ時には玄関先まで訪問してくれた。有り難いが、迷惑だった。気遣いへの返礼に悩むくらいなら、餓死した方がマシだ。

しかし——

ヤマムラはリビングに戻り、カーテンをそっと捲った。血走った目で外を覗う。それから、素早く着替えて、マスクとサングラスと帽子を身に付けた。





三月中旬の暖かい日、ヤマムラは小さく震えながら歩く。コンビニまでの道のり、角を曲がったところで、何かが当たった。ヤマムラは電柱にぶつかる。咄嗟に掴んで転倒しなかったものの、側頭をぶつけて目眩がした。ぐわらんぐわらんと騒ぐ耳元に、女の声がする。


『推しを諦めないで。

推しを推すことに、


推しに似た女の声。対バンで見た別のグループのコにも似ている。

声は知っている。推しは、連絡なく失踪したのではなく、失踪して連絡できないのだと。アイドルを止めたのではなく、この世からいなくなったのだと。

ヤマムラはココロの違和感が晴れた。引退しても、卒業しても、推しは推しだ。推し変など以ての外。俺が推しを推す意思を誰が変えられるものか。


『あんがとー。いつまでも推してねぇい』


目を開けるとどこからか、鎖とダンベルを巻き付けて、故郷のダム湖に沈めた推しの声がした。俺を裏切り、ほかの男に体を開いたのだから、仕方なかった。誰にも見つからず、ただ俺のひとりのものとなった推しが、それでも推すことを諦めるなと俺に囁きかける。

仕方なかったなんて言い訳を、推しは望んではいない。

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