珈琲 w/ You
常陸乃ひかる
寂しい夜はごめんだ
生え抜きの田舎暮らしが続くと思っていた。
否。続けたいと思っていた、が正解かもしれない。
駅前はもう、彼が生まれた六十年前とはまるで風景が違ってしまった。
けれど風の匂いは変わらず、今日も明日も、そよそよと人々の情緒を操り、その景観こそが、彼の記憶そのものだった。子供が大人に成長する過程で背伸びをするように、この町も変貌を遂げようと必死にもがいているのだと思い、
小学校の教員として、また校長として長く教職に携わり、定年を迎えた
子供たちにはよく、
『やらないための言い訳より、やるための言い訳を探してごらん』
と説いていた。熱意のある反面、妥協も上手な教員だった。
この町は元々、栄えている地域ではなかった。主要の路線はあるとはいえ、資産価値のない家が点在しているだけの町だ。ベッドタウンと言えば聞こえは良いが、バブルの時に買った土地へと、くたびれたサラリーマンが寝に帰るだけの町と言い換えれば、一気に哀愁ラビリンスである。
若者は都市部へ流入し、残ったのはだいたい高齢者。つまり、近所の高齢者はだいたい友達、Yeah!
ある時、町はスマートシティ化を掲げ、都市再生が始まった。情弱が食いつきそうな
洋七は再開発が行き届かない地元の片隅で、波風を立てないように余生を過ごそうと思った。
だが、第二の人生が始まったばかりの春。妻が病気で
けれど、それは
ようやく布団から這い出たのは、もうスズメも居なくなった昼前。子供を持たない洋七は、居間で『この余生は独りぼっちなんだ』と溜息を漏らした。
トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、洗濯をして、新聞を読んで、昼食を作って、昼寝して、買い物に行って、夕飯を作って、風呂を焚いて、布団に入って――
ひとりで過ごす一日は寂しいというより、ただただ大変だった。
アレもコレもソレも自分でしなくてはいけない、長いようで短い一日。それだけ妻の存在が大きかったのだと、
トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、新聞を読んで、昼食を作って、昼寝して、買い物に行って、風呂を焚いて、布団に入って――
数日が経つと、生活感が欠けてゆく感覚を味わった。けれど、あくまで『感覚』に過ぎず、大量のピースがひとつなくなったところで、すぐには気づけない。二十二時半に寝るのと、二十二時四十分に寝るのとでは、そこまで大差がないように、些細な不具合を探すのが後回しになるのだ。
トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、昼食を作って、買い物に行って、風呂を焚いて、布団に入って――
新聞の束を回収業者に出し、トイレットペーパーと交換してもらった。初めて自分で行った雑務を機に、意味もなく取り続けていた紙媒体を解約した。溜飲が下がった反面、ほんの少しだけ物寂しさを覚えた。ひとつの時代が終わりを迎えたという憐憫である。
トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、昼食を作って、布団に入って――
独りで過ごす一軒家が、終身刑を言い渡された囚人の檻とも錯覚する。過去と現在をつなぐ鎖は、心に巣食うネキリムシによって蝕まれているのだ。存在の有無さえ曖昧なレガシーとともに、洋七の生活からは生気が失われていった。やってもやらなくても、なにも変わらないではないか?
コーヒーを淹れて、布団に入って――
ほうら、コーヒー星人なんて名前の怪物が、児童向けのアニメに敵役として出てきそうだ。洋七は、数十年前に生徒と話した談笑を思い出した。
遠い思い出は鮮明に、昨日の記憶は朧げに。これが老化なのだろうか? いや、老化とはいかに? あす、それがわかるだろうか?
コーヒーを淹れて――淹れて――?
そういえば、洋七は若い頃からコーヒーが生き甲斐だった。同じように、妻は洋七が淹れたコーヒーを喜んで飲んでくれた。今朝もドリップしながら、飲んでくれる人はもう居ないのだと咳きこんだ。今思うと自分のためではなく、妻のためにコーヒー豆を挽いていたのかもしれない。失われた肌感によって、新たな発見をするのは皮肉か、散文に酔う独りよがりか。
今日はなにをしよう? コーヒーを淹れなくても、良いのだろうか?
そうか、飲まなくても死ぬわけではない。人間はコーヒーを飲まなくても、生きてゆけるのだ。定年を迎えて、ようやく知った新事実である。
――ん。
無意味に積み重なってゆく怠惰な心は、部屋の隅のホコリのようだ。
洋七は不意に、自室で忘れ去られていた本を手に取った。いつ買ったかも覚えていない、一冊の小説には薄くホコリが積もっている。それを掌で払うと、椅子に座ってペラペラと始めた。
――老眼鏡をかけ、ゆっくりと読み進めてゆく。ふと水を飲もうとして、机上のグラスに手を伸ばした。が、距離感のズレによって腕がグラスに触れてしまい、倒れたそれの周りを水浸しにした。
両眼の画像処理装置がもうダメになっているのかもしれない。人間もパソコンのように、グラフィックボードを買い直せたらどれだけ楽か。
「あぁ……そうじ……ぞうきん? はあ、どこだ……」
洋七は、『声』のない生活に限界を感じていた。
心の奥底で、人に逢いたいと願っていたのだ。
「あ……いや、会わなくては……」
回らなくなった秒針を見つめ続けていた彼は、その体たらくが、あまりにも見すぼらしくて、同じ六十代には顔向けできないと悔いた。
悔いて、悔いすぎて――彼は新たな旅路を決意した。己への言い訳をやめようと思ったのではない。
『やらないための言い訳より、やるための言い訳を探してごらん』
言い訳の仕方を変えようと立ち上がったのだ。
熱意と妥協を乗りこなしていた教員が、こんなところで
「なにを変えれば良い? 僕は、まずなにを――」
目に映ったのは、水がポタポタと垂れる机上の隅。何年も機種変更していないスマートフォンだった。洋七は無心でストレージをあさり、大事な画像データをすべてSDカードに移すと、それをアンマウントした。
ほどなく妻が使っていた部屋へ移動し、彼女が若い頃から大事にしていた一体のぬいぐるみを手に取った。果たして誰にもらったのだか、熊のような犬のフォルムで、何十年も謎めいて鎮座している奴だ。
そいつの背中にはファスナーがついていて、小物入れとしても使える。よく妻は、『洋七BOX』なんて言って、ふたりの思い出を隠していた。
洋七は――中になにが入っているかは確認せず、そこにSDカードを入れると、そっと元の場所へ戻した。
思い出が詰まったデータとは、いったんお別れである。
もしかしたら、また戻ってくるかもしれない。が、今は――
「せっかくなら、コーヒーや本が好きな人とつながりたい。SNSのような承認欲求ではなく、純粋に趣味や考えを共有できるような。それでなくても町は、スマート化とともに本屋がほぼゼロの状態。紙媒体はネットで購入し、あとは電子書籍で済ませる時代だ。いっそ本屋を作ってしまう? いや……僕の蓄えにも限界はある」
洋七が延々と考えあぐねていると、陽が沈んでいることに気づいた。夕飯と風呂を済ませ、自室でゆっくりしていても、次から次へとアイディアが湧いてくるので、布団に入ったあともなかなか入眠できなかった。
これは困ったと、洋七は布団から出てジャケットを引っかけると、何年ぶりか――深夜の散歩に出た。そこは人もネコも居ない、月明かりの下。静かな夜気が流れる町の片隅は、わかりやすく心身を鎮めてくれる。ぐちゃぐちゃになったアイディアを整頓したい時は、体を動かすのが一番である。
洋七は浮かれて、学生時代に戻ったかのように町内を歩き回った。その昔、妻とデートした変わらない道を。――結果、翌々日になって筋肉痛がやってきた。
「高齢者 一日遅れ ガタが来る 筋肉痛が 癖になりけり」
それでも表情には笑顔が戻りつつあった。
洋七が導き出した答えは――
数年後。
春風に釣られるように常連客が、今日も店を訪れてくれた。
「なあ、マスター? そういえば、どうしてこの店を開こうと思ったんだい?」
窓辺に座る女性もそのひとりで、頬杖を突きながら何気ない話題を洋七に持ちかけてきた。ワイシャツの上にエプロンをし、マスクをつけた洋七は、
「そうですね、『人に逢うための言い訳』を探していたんです。その答えは、こうして家の一室を改装し、古民家風の喫茶をオープンしてしまうことだった」
数年前の自分を思い出しながら、それでもって穏やかな笑みを返した。
「すごい解釈だねえ。まあ人間は、『変わらなくても良い言い訳』を無意識に探し続けてしまう。マスターの見た目が若いのも、向上心あってこそかな。ふふっ」
洋七は現在、小さな喫茶店を経営している。
コーヒーを楽しむのはもちろんだが、壁三面には大きな本棚を設置し、訪れた人が誰でも自由に本を読み、会話を楽しみ、なにより――人に逢えるカジュアルな空間を提供しようと思ったのだ。
儲けよりも優先したいものがあったからこそ、こういう営業形態を選んだ。結果、ここには世代を超える謎めいた
ちなみにオープン日は、某月の七日――仏滅だった。なんともアンラッキーな日だが、それを払拭するくらいの達成感が今はある。
――今日は珍しく、席が埋まっている。
「マスターは誠実な人だよ、本当に。ふふっ」
窓辺に座るのは、小柄な引きこもりデスペラード。
自由人の、
存在感は強いのに、実体がないような感覚を味わう。謎の女性である。
「杏さんはどんな
隣には、ゆるふわ系妄想族。
女子高生の、
杏いわく『この店で一番ぶっ飛んでいる客』だとか。
「あ、安藤さんが風邪引いちゃいますよねえ……。か、かわいそ……あ、えと、さすがのオレも、そんな話は書かないんですよねえ……」
真ん中の席には、時代を吹き抜けるウェブ作家。
赤メガネの痩身童顔おじさん、
一見すると怪しい若者だが、根は良い人である。文豪を目指して今日も、この喫茶店で執筆をしている――要するに生粋の変人だ。
「そうだマスター、俺こないだ新刊買ったっすよ。女心ってーのは繊細っすねえ」
本棚側、右端の席には若き溶接職人。
筋骨隆々の、
先週まで再開発地区で行われていた、大型商業施設の建設に携わってた青年で、過去を吹っきるために、苦手だったコーヒーと読書を克服した。今はどちらにもハマってしまい、恋愛小説マスターを目指しているとか、いないとか。
今週には地元に戻るようなので、まずは彼女を作ってほしいものである。
「うむ、やはりこの珈琲は町でもトップクラスだ、広めたい……。あのマスター? ここの移転の件……および事業拡大の件なんですが……」
右から二番目の席には、寡黙な企業戦士。
都市開発プロジェクトマネージャーの、
仕事熱心だが、その熱心が玉に
「では、ラッキーハウスの横にでも移転しますか?」
「マスタっ――な、なんでそれを……」
「僕は町の生え抜きですよ? 水無月さんより、町のこと知ってるかも?」
「マスターぁ……か、勘弁してくださいよお」
「なぁんて、嘘ですよ。水無月さんとは、ここのお客様として、そして同じ仲間として――末永く付き合いたいんです。今の関係を大事にできませんでしょうか」
「……そう、ですね。今は……個人的に楽しむことにします」
道男の誘致を丁重に断るのも、もう慣れっこになってしまった。
――ふと気配を感じた洋七は、「おや。ちょっと失礼」と言い残し、家の勝手口へ向かった。そこにちょこんと座っていたのは、家出系エサねだりキャット――黒猫の
いずこから脱走してきては、勝手口でミャーミャー鳴いて、洋七にエサをねだってくる。飼い主が心配しているだろうに――と思いつつ、物欲しそうな表情にいつも悩殺される。首輪のタグから年齢、性別、名前、連絡先は把握しているので、騒ぐようなことではない。昭和から生きている洋七にとって、ネコの脱走程度はなんの問題にもならなかった。
この生活は、決して妻を忘れるための言い訳ではない。
自分を立ち直らせてくれた、エニグマティックな出逢いに笑顔を向け、悔いのない余生を歩いてゆくのが、上辺では語りきれない弔辞である。
あなたと一緒にコーヒーを飲みたい。
それは、この店へ訪れた人への想いでもあるのだから。
了
珈琲 w/ You 常陸乃ひかる @consan123
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