珈琲 w/ You

常陸乃ひかる

寂しい夜はごめんだ

 生え抜きの田舎暮らしが続くと思っていた。

 否。続けたいと思っていた、が正解かもしれない。


 駅前はもう、彼が生まれた六十年前とはまるで風景が違ってしまった。

 けれど風の匂いは変わらず、今日も明日も、そよそよと人々の情緒を操り、その景観こそが、彼の記憶そのものだった。子供が大人に成長する過程で背伸びをするように、この町も変貌を遂げようと必死にもがいているのだと思い、肺腑はいふが痒くなる。

 小学校の教員として、また校長として長く教職に携わり、定年を迎えた七里しちり洋七ようしちは、海に愛された名前とは裏腹に、海のない田舎町で育った。

 子供たちにはよく、

『やらないための言い訳より、やるための言い訳を探してごらん』

 と説いていた。熱意のある反面、妥協も上手な教員だった。

 この町は元々、栄えている地域ではなかった。主要の路線はあるとはいえ、資産価値のない家が点在しているだけの町だ。ベッドタウンと言えば聞こえは良いが、バブルの時に買った土地へと、くたびれたサラリーマンが寝に帰るだけの町と言い換えれば、一気に哀愁ラビリンスである。

 若者は都市部へ流入し、残ったのはだいたい高齢者。つまり、近所の高齢者はだいたい友達、Yeah!


 ある時、町はスマートシティ化を掲げ、都市再生が始まった。情弱が食いつきそうなていの良いSDGsを口実に、莫大な金と、大量の人間を動かした。賛否はあるが、期には必ず口だけの反対派が湧くもので――

 洋七は再開発が行き届かない地元の片隅で、波風を立てないように余生を過ごそうと思った。天下あまくだり先もあったが、それを断ったのは妻との時間を増やすため。色々な意味で賑やかになり始めた町を、ゆっくり眺めるのも愉快だったから。

 だが、第二の人生が始まったばかりの春。妻が病気で急逝きゅうせいしてしまったのだ。その日のうちに葬儀屋と、次の日には親戚、知人と――悲しむ暇なんて与えられず、人との接触を強いられた。代わる代わる上っ面の弔辞をもらい、洋七は理性の片隅に残った人間性だけで体を動かした。

 けれど、それは荼毘だびすまで。日常に戻り、いつもの時間に起床してみても、体が言うことを聞いてくれないのだ。住宅街のスズメが、そこのけそこのけと、起こそうとしてくれていてもだ。

 ようやく布団から這い出たのは、もうスズメも居なくなった昼前。子供を持たない洋七は、居間で『この余生は独りぼっちなんだ』と溜息を漏らした。

 トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、洗濯をして、新聞を読んで、昼食を作って、昼寝して、買い物に行って、夕飯を作って、風呂を焚いて、布団に入って――


 ひとりで過ごす一日は寂しいというより、ただただ大変だった。

 アレもコレもソレも自分でしなくてはいけない、長いようで短い一日。それだけ妻の存在が大きかったのだと、初七日しょなのかを過ぎてようやく知った。


 トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、新聞を読んで、昼食を作って、昼寝して、買い物に行って、風呂を焚いて、布団に入って――


 数日が経つと、生活感が欠けてゆく感覚を味わった。けれど、あくまで『感覚』に過ぎず、大量のピースがひとつなくなったところで、すぐには気づけない。二十二時半に寝るのと、二十二時四十分に寝るのとでは、そこまで大差がないように、些細な不具合を探すのが後回しになるのだ。


 トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、昼食を作って、買い物に行って、風呂を焚いて、布団に入って――


 新聞の束を回収業者に出し、トイレットペーパーと交換してもらった。初めて自分で行った雑務を機に、意味もなく取り続けていた紙媒体を解約した。溜飲が下がった反面、ほんの少しだけ物寂しさを覚えた。ひとつの時代が終わりを迎えたという憐憫である。


 トーストを焼いて、コーヒーを淹れて、昼食を作って、布団に入って――


 独りで過ごす一軒家が、終身刑を言い渡された囚人の檻とも錯覚する。過去と現在をつなぐ鎖は、心に巣食うネキリムシによって蝕まれているのだ。存在の有無さえ曖昧なレガシーとともに、洋七の生活からは生気が失われていった。やってもやらなくても、なにも変わらないではないか?


 コーヒーを淹れて、布団に入って――


 ほうら、コーヒー星人なんて名前の怪物が、児童向けのアニメに敵役として出てきそうだ。洋七は、数十年前に生徒と話した談笑を思い出した。

 遠い思い出は鮮明に、昨日の記憶は朧げに。これが老化なのだろうか? いや、老化とはいかに? あす、それがわかるだろうか?


 コーヒーを淹れて――淹れて――?

 そういえば、洋七は若い頃からコーヒーが生き甲斐だった。同じように、妻は洋七が淹れたコーヒーを喜んで飲んでくれた。今朝もドリップしながら、飲んでくれる人はもう居ないのだと咳きこんだ。今思うと自分のためではなく、妻のためにコーヒー豆を挽いていたのかもしれない。失われた肌感によって、新たな発見をするのは皮肉か、散文に酔う独りよがりか。


 今日はなにをしよう? コーヒーを淹れなくても、良いのだろうか?

 そうか、飲まなくても死ぬわけではない。人間はコーヒーを飲まなくても、生きてゆけるのだ。定年を迎えて、ようやく知った新事実である。


 ――ん。

 無意味に積み重なってゆく怠惰な心は、部屋の隅のホコリのようだ。

 洋七は不意に、自室で忘れ去られていた本を手に取った。いつ買ったかも覚えていない、一冊の小説には薄くホコリが積もっている。それを掌で払うと、椅子に座ってペラペラと始めた。

 ――老眼鏡をかけ、ゆっくりと読み進めてゆく。ふと水を飲もうとして、机上のグラスに手を伸ばした。が、距離感のズレによって腕がグラスに触れてしまい、倒れたそれの周りを水浸しにした。

 両眼の画像処理装置がもうダメになっているのかもしれない。人間もパソコンのように、グラフィックボードを買い直せたらどれだけ楽か。

「あぁ……そうじ……ぞうきん? はあ、どこだ……」

 洋七は、『声』のない生活に限界を感じていた。

 心の奥底で、人に逢いたいと願っていたのだ。

「あ……いや、会わなくては……」

 回らなくなった秒針を見つめ続けていた彼は、その体たらくが、あまりにも見すぼらしくて、同じ六十代には顔向けできないと悔いた。

 悔いて、悔いすぎて――彼は新たな旅路を決意した。己への言い訳をやめようと思ったのではない。


『やらないための言い訳より、やるための言い訳を探してごらん』


 言い訳の仕方を変えようと立ち上がったのだ。

 熱意と妥協を乗りこなしていた教員が、こんなところでくすぶっていると、いつか本当に燻製になってしまいそうだった。しかも渋いだけの燻製に。

「なにを変えれば良い? 僕は、まずなにを――」

 目に映ったのは、水がポタポタと垂れる机上の隅。何年も機種変更していないスマートフォンだった。洋七は無心でストレージをあさり、大事な画像データをすべてSDカードに移すと、それをアンマウントした。

 ほどなく妻が使っていた部屋へ移動し、彼女が若い頃から大事にしていた一体のぬいぐるみを手に取った。果たして誰にもらったのだか、熊のような犬のフォルムで、何十年も謎めいて鎮座している奴だ。

 そいつの背中にはファスナーがついていて、小物入れとしても使える。よく妻は、『洋七BOX』なんて言って、ふたりの思い出を隠していた。

 洋七は――中になにが入っているかは確認せず、そこにSDカードを入れると、そっと元の場所へ戻した。

 思い出が詰まったデータとは、いったんお別れである。

 もしかしたら、また戻ってくるかもしれない。が、今は――


「せっかくなら、コーヒーや本が好きな人とつながりたい。SNSのような承認欲求ではなく、純粋に趣味や考えを共有できるような。それでなくても町は、スマート化とともに本屋がほぼゼロの状態。紙媒体はネットで購入し、あとは電子書籍で済ませる時代だ。いっそ本屋を作ってしまう? いや……僕の蓄えにも限界はある」

 洋七が延々と考えあぐねていると、陽が沈んでいることに気づいた。夕飯と風呂を済ませ、自室でゆっくりしていても、次から次へとアイディアが湧いてくるので、布団に入ったあともなかなか入眠できなかった。

 これは困ったと、洋七は布団から出てジャケットを引っかけると、何年ぶりか――深夜の散歩に出た。そこは人もネコも居ない、月明かりの下。静かな夜気が流れる町の片隅は、わかりやすく心身を鎮めてくれる。ぐちゃぐちゃになったアイディアを整頓したい時は、体を動かすのが一番である。

 洋七は浮かれて、学生時代に戻ったかのように町内を歩き回った。その昔、妻とデートした変わらない道を。――結果、翌々日になって筋肉痛がやってきた。

「高齢者 一日遅れ ガタが来る 筋肉痛が 癖になりけり」

 それでも表情には笑顔が戻りつつあった。

 洋七が導き出した答えは――


 数年後。

 春風に釣られるようにが、今日も店を訪れてくれた。

「なあ、マスター? そういえば、どうしてこの店を開こうと思ったんだい?」

 窓辺に座る女性もそのひとりで、頬杖を突きながら何気ない話題を洋七に持ちかけてきた。ワイシャツの上にエプロンをし、マスクをつけた洋七は、

「そうですね、『人に逢うための言い訳』を探していたんです。その答えは、こうして家の一室を改装し、古民家風の喫茶をオープンしてしまうことだった」

 数年前の自分を思い出しながら、それでもって穏やかな笑みを返した。 

「すごい解釈だねえ。まあ人間は、『変わらなくても良い言い訳』を無意識に探し続けてしまう。マスターの見た目が若いのも、向上心あってこそかな。ふふっ」

 洋七は現在、小さな喫茶店を経営している。

 コーヒーを楽しむのはもちろんだが、壁三面には大きな本棚を設置し、訪れた人が誰でも自由に本を読み、会話を楽しみ、なにより――カジュアルな空間を提供しようと思ったのだ。

 儲けよりも優先したいものがあったからこそ、こういう営業形態を選んだ。結果、ここには世代を超える謎めいた邂逅かいこうが生まれるようになった。

 ちなみにオープン日は、某月の七日――仏滅だった。なんともアンラッキーな日だが、それを払拭するくらいの達成感が今はある。


 ――今日は珍しく、席が埋まっている。

「マスターは誠実な人だよ、本当に。ふふっ」

 窓辺に座るのは、小柄な引きこもりデスペラード。

 自由人の、安藤あんどうあん

 存在感は強いのに、実体がないような感覚を味わう。謎の女性である。


「杏さんはどんなへきがあります? 一日中、裸で雨に打たれるとか? ちっちゃくて可愛いから、排水溝にハマって、ただ水の流れに虐められるとかもアリですね」

 隣には、ゆるふわ系妄想族。

 女子高生の、緑川みどりかわ三葉みつば

 杏いわく『この店で一番ぶっ飛んでいる客』だとか。


「あ、安藤さんが風邪引いちゃいますよねえ……。か、かわいそ……あ、えと、さすがのオレも、そんな話は書かないんですよねえ……」

 真ん中の席には、時代を吹き抜けるウェブ作家。

 赤メガネの痩身童顔おじさん、尾張乃おわりのヤミ。

 一見すると怪しい若者だが、根は良い人である。文豪を目指して今日も、この喫茶店で執筆をしている――要するに生粋の変人だ。


「そうだマスター、俺こないだ新刊買ったっすよ。女心ってーのは繊細っすねえ」

 本棚側、右端の席には若き溶接職人。

 筋骨隆々の、五島ごとう悟郎ごろう

 先週まで再開発地区で行われていた、大型商業施設の建設に携わってた青年で、過去を吹っきるために、苦手だったコーヒーと読書を克服した。今はどちらにもハマってしまい、恋愛小説マスターを目指しているとか、いないとか。

 今週には地元に戻るようなので、まずは彼女を作ってほしいものである。


「うむ、やはりこの珈琲は町でもトップクラスだ、広めたい……。あのマスター? ここの移転の件……および事業拡大の件なんですが……」

 右から二番目の席には、寡黙な企業戦士。

 都市開発プロジェクトマネージャーの、水無月みなづき道男みちお

 仕事熱心だが、その熱心が玉にきずで――

「では、ラッキーハウスの横にでも移転しますか?」

「マスタっ――な、なんでそれを……」

「僕は町の生え抜きですよ? 水無月さんより、町のこと知ってるかも?」

「マスターぁ……か、勘弁してくださいよお」

「なぁんて、嘘ですよ。水無月さんとは、ここのお客様として、そして同じ仲間として――末永く付き合いたいんです。今の関係を大事にできませんでしょうか」

「……そう、ですね。今は……個人的に楽しむことにします」

 道男の誘致を丁重に断るのも、もう慣れっこになってしまった。


 ――ふと気配を感じた洋七は、「おや。ちょっと失礼」と言い残し、家の勝手口へ向かった。そこにちょこんと座っていたのは、家出系エサねだりキャット――黒猫の四治郎よじろうくんだった。

 いずこから脱走してきては、勝手口でミャーミャー鳴いて、洋七にエサをねだってくる。飼い主が心配しているだろうに――と思いつつ、物欲しそうな表情にいつも悩殺される。首輪のタグから年齢、性別、名前、連絡先は把握しているので、騒ぐようなことではない。昭和から生きている洋七にとって、ネコの脱走程度はなんの問題にもならなかった。


 この生活は、決して妻を忘れるための言い訳ではない。

 自分を立ち直らせてくれた、エニグマティックな出逢いに笑顔を向け、悔いのない余生を歩いてゆくのが、上辺では語りきれない弔辞である。

 あなたと一緒にコーヒーを飲みたい。

 それは、この店へ訪れた人への想いあるのだから。


                                   了

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