那須くんゆるさない

香久山 ゆみ

那須くんゆるさない

 私は那須くんを許さない。

 結婚して、私が妊娠して出産してなお、娘が二歳になる時まで、ずっと子供は尻の穴から生まれてくるのだと思っていたらしい。妊娠中の私がトイレで大をする度に、一緒に赤ん坊が出てきてしまうのではないかと、気が気じゃなかったという。どうりでトイレによくついてくると思った。那須くんは阿呆だ。

 那須くんはミカン泥棒だ。小学生の時に私有地のミカンを盗んで、こっぴどく怒られた。落ち込む那須くんに、「ナスくんのくせにミカンなんて食べるからだよ」と言って励ますも、当の那須くんはキョトンとするだけで、渾身の冗談を理解してもらえなかった私はずいぶん恥ずかしかった。(隣の家庭菜園では茄子が栽培されていたのだ!)

 高校生の時、辛うじて入学した学校で悪い友達ができた。補導されたのは一度や二度ではないし、がっつり警察のお世話にもなっている。見掛ける度に頭髪はマッキンキンに染まり、眉毛もなくなり、悪い噂しか聞かない。けれど、時々近所で会うと、「よお」とあのいつもの懐こい顔で笑い掛けてきた。

 那須くんの仲間がクスリで捕まったと聞いた時、さすがに那須くんに言った。

「もうあの人達と付き合うのはやめなよ」

「けど、俺にはもうあいつらしかいない」

 あまりにも情けない顔で言うものだから、悲しくなった。

「私がいるよ」

 那須くんは目を真ん丸にして驚いた。

「お前、本気で俺のそばにいてくれんの」

 私はぶんぶん首を振って頷いた。久々に那須くんの笑顔を見た。

 それで那須くんは、私のために悪い遊びからすっぱり足を洗った。

「あいつらとは会ってないし、もう会わない」

 私は那須くんの言葉をただ信じるよりなかった。一度だけ大怪我をして帰ってきたことがあった。いつもお喋りな那須くんが、その日だけは一言も発さなかった。だからその怪我の理由を私は知らない。ただ祈るように那須くんの言葉を信じた。私の初めては全部那須くんだった。那須くんは私が初めてではなかったけれど。

 だから。

「約束する。絶対お前を泣かせたりしないから、ずっと一緒にいてくれ」

 真っ直ぐなプロポーズを受けて、私達は夫婦になった。

 約束を違わず那須くんは真面目に働き、どれだけ残業が続いても休日には家族を遊びに連れて行ってくれた。お前達の笑顔がいちばん回復するんだと言って。そんな那須くんだから、私も安心していられた。外でどんなことがあったって、彼が守ってくれると信じていたから。

 なのに、こんな形で約束を破るなんて。いちばんひどい。

「パパ、ミカンだよー」

 幼い娘が那須くんの前にミカンを置く。けれど那須くんは見向きもしない。口を開こうともしない。そうだ、だって那須くんは本当はミカンが嫌いなのだもの。

 小学生の時、熱を出した幼馴染が欲しがるので近所に生るミカンをもいだ那須くん。それで叱られたのだから、ミカンはトラウマだろう。幼馴染にしたって、自分のせいで好きな男の子がひどい目にあったのだ。以来、大好きなミカンが苦手になった。結婚してそれを知った那須くんは驚いていた。あんなに大好きだったのに?! って。

「なんだよ、俺ミカンに目覚めたのに食べられないのかよ」

 さめざめと言うものだから、仕方なく十数年ぶりにミカンを買ってきた。那須くんは私の目の前で、うまいうまいと言って食べた。それで私も久方振りにミカンを頬張った。美味しい。私がもぐもぐ食べ始めると、那須くんは嬉しそうに笑った。先程までのうまいうまいと言いながら苦虫を噛み潰したような顔ではなく、本当に嬉しそうな笑顔で。

 つわりがひどい時には私が所望するままにミカンを買ってきてくれた。あの時果たせなかった約束を今果たしていると言って、嫌な顔一つせず笑顔を向けた。

「お前が元気ない時にはいつでもミカン食べさせてやるからな」

 私の血を引いたのか娘もまたミカン好きになった。自分が好きなものはパパも好きに違いない。娘はしょっちゅう那須くんにミカンをプレゼントした。小さな手から受取る度にうまいうまいと言って食べるものだから、娘は那須くんもミカン好きだと信じて疑わない。

「パーパ?」

 ミカンを受取らない那須くんに娘が首を傾げる。

「ママぁ。パパ、起きないねえ?」

 小さな後頭部が那須くんの顔を覗き込む。那須くんがあの笑顔を向けてくれることはもうないのだ。唇を噛むも私の頬に涙が一筋流れた。嘘つき。嘘つき嘘つき。泣かさないって言ったのに。ずっと一緒にいるって言ったのに。いつでも私にミカンを渡すと約束したのに。那須くんはもう目覚めることはない。

「はいっ」

 その時、目の前にミカンが差し出された。小さな手の主を見つめると、大きな瞳で真っ直ぐ私を見つめる。

「パパが、ママにあげるって」

「……え?」

「前にパパと約束したの。ママが元気ない時は、わたしがママにミカンあげるって」

 娘がにこっと笑顔を向ける。あなたに似た笑顔を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

那須くんゆるさない 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ