good bye .

星雫々

深夜2時、メロウ。




「なァ、お前、何座?」





 代々木公園駅から徒歩5分のこのマンションに住み始めてからちょうど1年経つ。


ペット可の千代田線沿線ならどこでも良くて、

3ヶ月もすればこの場所からは引っ越ししても良いだなんて思っていたのに、その割に気づけばズルズルと季節は秋を迎え冬を越し、春を通り過ぎた。


若者の多く集う街とは言えどこのエリアは閑静で、小田急線で新宿まで6分の立地は自分にとって都合も良い。



わざわざ今からこの部屋のものを片付けて、引っ越しするほどかという自問自答の末此処に住み着いている。

 




 「無視すんなバカ」

 「...ぁ、ごめ、なんて?」

 「せーざ」

 「...私の?」

 「お前以外誰がいんだよ」

 




 星座も知らないし、誕生日も知らない。だけど黒子の位置と愛用の香水は知っている。お腹の左側、耳の裏側。甘くて重い、中毒性の高いバニラ。それには煙草とスパイスみたいな辛さが立ち込めて、思わず陶酔で噎せかえりそうになる。鼻腔に受け入れると心臓が溶けるみたいに体内へと巡って、少しばかり呼吸が乱れる心地になる。



私は貴方を真似して煙草にまで手を出して、箱から一本抜き出してから咥えたら火をつける前に反対側から唇で奪われた。目を伏せた時の長い睫毛は下へと伸びる。


一瞬近付いた衝動で香った、その首筋に仕込まれたその香水は戸籍みたいなもので、どんな細やかな個人情報より貴方の存在意義になる気がする。流し込んだお酒の苦味が混ざると一層センシュアルで、それから時折哀しくなる。貴方が此処から消えてしまえば、この香りも共に消えてしまうのだということ。





 「水瓶座」

 「ふぅん」

 「...そっちは?」

 「同じ」

 「...そっか」






 本当はもっと、じゃあ何月何日生まれなのかとか、そういったことも訊ねたいと思った。だけど、人には知ってはいけないことがある。此処に戻ってくるまで何処にいるのかとか、そのバニラに混ざった気味悪いローズの香りは一体どこで纏ってきたのかとか。でも結局夜中の2時には戻ってくる。だからいいやって、私は貴方を拾いあげた時から割り切ることを覚えた。



 



「ねえ、そんなこと聞くの珍しいね」

「流星群らしい」


 




流星群。そんな不条理な――ロマンチストの定型文みたいな現象を気にするだなんて不思議におもえたし、同時に怖くもなった。都会でも星は見えるけど、それらは掴めやしないし、飲み込むことも纏うことも出来ない。飼っているペルシャ猫は優雅にも窓の外を見つめている。貴方は猫を抱き寄せて三角座りした懐に収めた。猫は体を丸め、あたかも可愛らしく、飼い主の私には見せないような甘い表情をしていた。





 「...見えた?」




 

 窓から上を覗き始めた背中に声を掛けたけど、「んー」としか返っては来なかった。返って、と表現こそしたが、本当は帰って、の漢字が相応しいのかもしれない。この人の魂はいつもどこかへと漂流していて、此処に帰っては来ない。表裏一体、私の見ている姿はツクリモノなんじゃないかと思ってしまう。


なのにちゃんと、香りだけはムンとした空気に紛れて漂ってくる。エアコンを付けていても窓を開けてしまえばその冷風は台無しになってしまうように、迎え入れることで全てが壊れてゆく。貴方はもうここには居ないのかもしれない。だけど、その匂いだけは私を雁字搦めにしている。








 ×××




 去年の冬、代々木公園の歩道橋から何かを見下ろしている貴方を見つけた。それが出会いだった。


ぼんやりと眺める姿があまりに嘘みたいに美しく、まるで絵画を傍観するように凝視してしまった私に気が付いた貴方はゆっくりと此方に首を捻った。


真夜中、街灯さえひとつ切れてしまっていたものの、それでも貴方という存在は余りに綺麗な輪郭を描いていた。世の中には句読点で表せない感情があるのだと知って、なぜか瞳に涙が溜まったので慌てて視線を遠くへ放り、そして私は一言も口をきいていないのに「ウチ、来る?」とだけ一言呟いた。問いかけではなく、独り言かのように。今考えても何故そんな言葉がスラスラと出てきたのか分からない。


 別に煩悩が働いたとかそんなんじゃなく、ただ私は同情した。野良猫みたいな瞳をしていたから。多分、貴方も私に同じ感情を抱いた。ただそれだけ。私は貴方を同情で拾ったし、貴方も私を情で捕らえた。ただ、それだけのこと。


 



 「もう寝よう」





 そう私が呟くと、猫はサラサラの長い毛を靡かせながら布団へと潜り込んできた。先程まで抱かれていたからか、バニラの甘い匂いが毛に染み込んでいた。猫はそこで移り香の恩恵を受けられることを知ってか知らずか、私ではなくそちらの腕の中へいつも滑り込んだ。嫋やかな仕草は貴方とよく似ている。

 


 貴方が手を伸ばした先に在るのが私じゃないなら、別にもうどこで何をしていたって存じ上げた事じゃない。いっそ野垂れ死んでいようが、どうぞご勝手に。富ヶ谷まで向かう景色も、真昼間の微睡みも、それらは私が棄てられないものだった。





 「ねえ」

 「...ン?」

 「最後にさ」

 「...」

 「それが欲しい」





 キッチンで氷がひとつ溶けたお酒を飲み干した横顔に呼びかけ、何度もカバンの中で割れたと嘆いた香水瓶を指差すと、貴方は困ったように笑った。貴方が困ったのは初めてだった。契りが無い関係に別れは訪れない。だからここまでおざなりだったはずなのに、もう明日が無いと気がついてしまった私は、自然とその一言を掛けてしまって後悔した。と、同時に、貴方が困った事実が呑気に嬉しくもあった。私が貴方の瞳を曇らせたから。出会わなければ良かったが、それが不利にもあたらない。







 ×××



 ひとりで歩く代々木公園からの道は、普段と何も変わらなかった。こんな時って寂しいだとか、物足りないだとか、そんな言葉を投げかけるのがお決まりってものじゃないかと自嘲気味に自問自答するが答えは変わらない。


貴方と肩を並べて歩いたこともなければ、「何か買って帰ろうか?」なんて浮かれ同棲じみた会話なんかもメッセージアプリに表示された試しもないからかもしれない。だけど、首筋に、髪の毛に、そして猫に。あらゆる場所に残された貴方の匂いで十分だった。悔しいけれど、満たされていた。

 

 熱帯夜、湿るシーツ、籠る熱、カーテンを揺らすエアコンの風、タバコ、燻らすバニラ、飲み干したブランデー。濡れた髪、グラスの汗に擬態した涙、遺された金属の鍵、溶け落ちた氷。あの日は水瓶座流星群だった。AM2:00の残り香。



×

 

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