The Room Tour Filming

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The Room Tour Filming


 彼が居たことによる彩りは、日常の中に確かにあって、迷惑だという感情すらも、私の支えになっていた。

 鬱陶しい、いなくなってくれないか。口ではそう零すくせに、消えないで、と、その背中に願っていた。


 細い身体に繋がる糸は、切れたらもう、手繰れなくて。

 何も知らない、知ろうとしないまま、不確かな関係に委ねていたんだ。


「じゃーん。ここが私、屋敷くるみのマイホームです!」


 アパートの一室で、私はおどけた調子で語り出す。右手に持つスマホの画面に表示されているのは、赤い録画ボタン。

 私は、最近視聴した動画投稿者の口調を真似て話す。家の中には誰もいない。私は、画面の奥の視聴者に向けて話しているのだ。


「早速だけど、紹介していくね。まずはここ、玄関から」


 カメラの中に、小さな玄関が映し出される。出勤用のパンプスにブーツ、気合の入ったピンクのハイヒールなどが、三和土の上に丁寧に並んでいる。

 動画を回しながら、私は声の聞こえない相手との会話を続けてゆく。


「え? 一足分空いている? 目敏いなー。ここにはね、少し前まで彼の靴がありました。脱ぎ散らかすから、いつも私が整えてあげていたの」


 私より背の高い彼の靴は、やっぱり私よりも大きかった。彼は部屋の整頓に無頓着で、私が丁寧に暮らしている部屋をすぐに散らかした。私はその度に怒って、「次に言っても直さない場合は、出て行ってもらうからね」って、呆れ声をぶつけていた。


「ここがシューズボックス、数足程度なら入ります。廊下を歩くと、左側がキッチンです。あはは、やっぱり狭い? 仕方ないよ、月8万5千円の1L D Kだから」


 顔や声のない人との会話を続けながら、私のカメラは見慣れたキッチンへ侵入する。時刻は間もなく、午後7時になる。

 先程まで夕飯を作っていたこともあり、キッチンには家庭的な香りが充満していた。


「いい匂い! 画面越しでは伝わりませんよね。残念です」


 私は匂いの元、2口コンロの右側に置かれた鍋の蓋を取ると、中身がよく見えるようにカメラを近づけた。


「じゃーん、今日のご飯はビーフシチューです! やっぱり冬は暖かいものがいいよね。彼も大好物なの。喜んでくれるかな? って、もういないんでしたね」


 自重気味に笑い、私はその場に立ち尽くした。鍋に入ったシチューをスマホの画面越しにただじっと見つめ、動くことができない。言葉も生気も、鍋の中に吸い取られてしまったのだろうか。


「……何やってんだろ、私」


 虚無感に包まれた私の耳に、強い雨の音が聞こえてくる。外は雨なのだろうか。いや、実際には降っていないことを私は知っている。しかし雨音は、私の脳内で鳴り続けて止まない。

 この耳鳴りも、いつものこと。


 ほら、じきにチャイムが鳴る――。



 /////-/



 8月某日、その日は激しい雨が降っていた。アパートの室内は暑くじめじめしており、強い雨が窓の桟を叩く音が断続的鳴っていた。


 前触れなくインターホンが鳴る。動画を観ながら仕事終わりのささやかな夕食を作っていた私は、玄関まで向かった。


「はいはーい」


 少しの警戒心もなく開けた扉の先にいたのは、彼だった。


「嘘……、彰?」


 彼――犬飼彰とは、大学時代に3年間付き合っていたが、就職と同時に疎遠になり、恋人関係も自然消滅してしまった。それ以来、一度も連絡を取っていなかったし、彼からも音沙汰はなかった。それなのに――。


「ど、どうしたの突然、何か、用?」


 アパートの廊下に立つ彰は、傘がないのかずぶ濡れで、肩に大きな黒い鞄を下げていた。長い前髪が雨に濡れて目元を覆い、表情を隠している。


「……雨宿り、させてほしい」

「そんな、急に言われても……。大体、なんでわざわざ私の家に来たの? 雨宿りなら、他にいくらでもあるのに」

「無理なら、別にいい」


 屋根のないアパートの欄干は、雨晒しになっている。踵を返した彼の細い背中に、気づけば私は声をかけていた。


「ねえ、雨が止むまでなら……いいけど」


 彼は、私の呼び声で振り向いた。髪の隙間から覗く右目が、私を捉える。


「ありがとう……助かる」


 こうして、私は彼を家に招き入れてしまった。


 奇妙な同居生活は、それから半年続いた。結論から言って、彼は雨が止んでも家を出ていかなかったのだ。


「雨、とっくに止んでいるよ。いい加減出て行ってよ」

「……まだ、降ってるから」


 私が何度追い出そうとしても、決まってこう返される。しかも彰は生活用品を何も持っていなかったので、私の物を勝手に借りていた。


「じゃああの大きな鞄には、何が入っているのよ」


 そんな事を尋ねた次の日、会社から帰宅すると、ただでさえ狭い部屋の一角に、新聞紙が敷き詰められていた。


「もー、また何勝手に使っているの。ここは私の家なんだからね」


 新聞紙の上には画材が散らばっており、中央には書きかけのキャンバスが鎮座していた。そこに淡い色彩で描かれているのは、小さな薄紅色の花だった。


「……なんだろう、桜?」

「そう、冬桜」


 声がした洗面所では、彰が石鹸の上で筆を滑らせていた。


「ちょっと、その石鹸私の洗顔用のやつ! それに居間の絵、油絵でしょ。絵の具流して詰まったりしない?」

「絵の具は拭き取ったから流していない。くるみの石鹸か……、俺も使っていい?」

「いい訳ないでしょ!」

「……今度買ってくる」


 彼は面倒臭そうに言って、頭を掻いていた。



//-////



「これが、少し前までの話。……え? 結局桜の絵は完成したのかって?」


 私は虚ろな目で、スマホ画面に流れるはずのないコメントを眺めていた。そのままリビングに視線を移す。小さなアトリエは、今はもうなく、絵の具の染みのような痕跡すらない。


「完成したよ。綺麗な桜が咲いていた」


 私はスマホの画面をリビングに向けた。そこにあったはずのキャンバスを画面越しに睨む。


「綺麗だね、って言っても、彰は何も言わなかった。でもね、しばらく経ってから急に言った言葉があるの」

 冬空に小さな花が咲いている。そんな絵から顔を上げて、彼は呟いた。


「雨が、止んだ」


 だからとっくに止んでいる、いつの話をしているのって、私は笑って身支度をしていた。

 そうだ、今日の夕飯は彰の好きなビーフシチューにしてあげよう。何のために描いていたのかは分からないが、作品が完成して、きっと彰も喜んでいるだろう。


「……そうしたら彼は、次の日には私の前から消えちゃった。綺麗さっぱり。折角シチューの材料も買って来たのにね」


 彼の荷物も全てなくなっていて、私の家に彼が居た事は、長い幻みたいだった。


「彼の痕跡を消したくなくて、靴の位置も、別々にした歯磨き粉も、……あげたはずの石鹸も全部、そのまま。なんでだろう、まだ好きなのかな? でも、連絡を取ろうとは思わないんだよね」


 私はゆっくりと立ち上がり、家中を撮影して周った。リビング、トイレに小さなお風呂場、どこにでも彰はいるし、もうどこにもいなかった。

 最後にもう一度玄関に戻り、カメラが扉の内側を映す。今日は一日中いい天気だった。きっとこの扉を開ければ、綺麗な夜空が広がっているだろう。星の一つでも見えるかもしれない。


「これで、ルームツアーは終わり。どうもありがとうございました」


 録画の停止ボタンを押し、配信者の真似事を終えた私の口から、ため息が溢れる。

 

 彼がいなくなったあの日から、私の中では、雨が休む事なく降っていた。降り続けて止まない雨の中で、私は今日も、チャイムが鳴るのを待っている。

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