7日前の牛乳

稲荷竜

白き精霊

「初めまして。私はあなたが賞味期限から7日間冷蔵庫に放置し続けた牛乳の精です。早く捨ててください」


 最近は精霊が賞味期限タイマーをやってくれるのか。たまげたなあ。

 たぶん幻覚だと思う。何せ今日が徹夜7日目だ。


 というのも楽園に住んでいた俺はある日唐突にそこを追われてしまい、今は地獄の修羅場に配属になっているのだ。

 その楽園の名は『在宅ワーク』と言い、地獄の名は『職場』で、修羅場を現代風に言うと『修羅場』になる。

 久々の対面あいさつではりきりすぎちゃった営業のしわ寄せを食らっている今、幻覚ぐらい見るのもうなずけるスケジュールだった。エナドリで意識をつないでいるが、自分が起きてるのか寝てるのかどころか、生きてるのか死んでるのかさえわからない。


 真っ白いふわふわした掌サイズの、そして奇妙なにおいがする美少女が空中に浮遊しながら賞味期限が7日過ぎた牛乳の悲哀を語っている。

 が、なんにも頭に入ってこない……俺の認知能力はいちじるしく落ちていて、頭の中に浮かぶのは『かわいい』『ふわふわ』というポメラニアンを初めて見た幼児ぐらいの語彙だけだった。


 長い時間をかけてとにかく『さっさと処分しねぇと爆発して冷蔵庫を酷い目に遭わすぞ』という内容を極めておしとやかに語っているだけだと理解した俺は、家に帰れるスケジュールではなかったのもあって、こう言った。


「7日置いた牛乳、それは実質、ヨーグルトでは?」

「牛乳の精として断言しましょう。7日ただ放置した牛乳は、ヨーグルトにはなりません」

「しかしそこをどうにかするのが、精霊というものなのではないだろうか」


 自分で自分の言っていることがよくわからなくなってきたが、とにかく俺はなにかを言い続けた。

 なにを言ったかは覚えていない。頭はまともに働かず、こうして虚空に話しかけている間にも、俺の指はずっとキーボードを叩き続けている。もはや手癖でしか仕事をしていない。あとから大量の問題が見つかるかもしれないが、とりあえず完成品の体裁を整えたものを作り上げないといけないのだ。あとのことは他の連中と未来の自分に任せた。


 牛乳の精はしばらく俺と議論らしきことをしていたのだが、だんだんほだされていったのか、最後には「なるほど」とうなずいた。


「私は賞味期限を7日過ぎた牛乳の精霊。つまり、実質ヨーグルトだったのですね」

「そうだ。頼んだぞヨーグルト。俺の腸内細菌の未来はお前の双肩にかかってるんだ」


 どういうことなんだ? わからない。もう自分で自分がなにを言っているのかさえ判断する力がない。


 とにかく牛乳の精は納得した様子で消え去り、俺は仕事を仕上げてようやく帰宅を許された。


 冷蔵庫を開けたら牛乳が爆発して大惨事になっていたが、見なかったことにして寝た。


 あの牛乳の精はその後一度も見ない。あれは幻だったのか、それとも俺が牛乳を買わなくなったから見なくなったのかわからないし、『牛乳って爆発する?』というのを今度調べようと思ったまま、いざ調べようとすると別なことに脳を支配されてなんか調べられていないので、真相は白き闇の中にあり続けている━━

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7日前の牛乳 稲荷竜 @Ryu_Inari

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