恋のスタートライン

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恋のスタートライン

 知っているのはこの空だけ。

 この広い空の下で、少女と少年は共に走る。

 それが二人の絆だった。


 ◆


 放課後の誰もいなくなった校庭で、ノースリーブのランニングシャツと丈の短いランニングパンツ姿の少女が一人走っていた。

 元気な印象がする黒髪の少女だ。

 セミロングの髪、細い眉毛にぱっちりとした瞳。

 少し日に焼けた肌。

 背丈は150cmくらい。

 痩せ型ではあるが胸もそれなりにある。

 少女の名前は倉本くらもと恵理えりと言った。

 陸上部に所属している中学一年生だ。

 彼女は今、グラウンドの端にあるトラックコースを走っているところであった。

 今日の練習メニューをこなしている最中なのだ。

 彼女の走るフォームは綺麗で無駄がない。

 だが、その表情にはどこか苦しそうな色が浮かんでいた。

 なぜなら、時期外れのインフルエンザに感染したことで二週間程部活を休んでしまったからだ。

 ようやく部活に出られるようになったのだが、まだ本調子ではないのだ。

(もう少し……)

 あと三周。

 それだけすれば今日の練習メニューは全て終わる。

 だからもうちょっと頑張ろう。

 そう思ってさらにペースを上げた時である。

 目の前が真っ暗になった。

 いや違う。

 それは目眩ではなくて……。

 次の瞬間、世界がぐるりと回転した。

 そして、気がつくとそこは見慣れない部屋だった。

 どうやら自分はベッドの上にいるらしい。

 白い天井が見える。

 しかし、ここはどこだろう?

「気が付いた?」

 呼びかけられて恵理は、ビックリしたように上半身を起こすと、そこには保険医の小菅こすげ久美くみがいた。

「先生……」

 恵理は呟くように言った。

 それから周りを見回す。するとそこは保健室だと分かった。

 それよりも自分がなぜ、ここに寝ていたのかが分からなかった。

 確か部活が終わっても自主練習で、一人で走っていたはずだ。

「倉本さん。あなた校庭で倒れていたのよ。どう、気分は悪くない?」

 栄里の言葉を聞いて思い出した。

「はい。大丈夫です」

「そう。良かったわね。一人で帰れる? 家に連絡しようか?」

 久美の提案に対して恵理は首を横に振った。

「いえ。両親は仕事でいつも遅いので……。大丈夫です。一人で帰れますから」

 恵理は問題はないと答えた。

 それを聞いた久美だったが、不安は拭えないようだ。

「なら。彼に送ってもらいなさい。いいわよね」

 そう言って彼女は部屋の片隅を見た。

 そこに一人の男子生徒の姿があった。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名前を佐京さきょう光希こうきと言った。

 恵理は、その顔を見て驚く。

 同じクラスメイトであったからだ。

「佐京くん。どうして?」

 恵理が分からないでいると、久美が説明する。

「彼が、貴方を見つけて運んでくれたのよ」

 そう言われてもピンと来ない。

 クラスメイトではあるが接点のない二人なのだ。特別親しいわけじゃない。

 むしろ、どちらかと言えば苦手なタイプだと思っていた。

 そんな彼が自分を介抱してくれたという。

 それが信じられなくて、思わずまじまじと見つめてしまう。

「大丈夫? 倉本さん。倒れているのを見つけた時は、ビックリしたよ」

 光希は優しく微笑んだ。

 その笑顔は、まるで花のように愛らしく見えた。

 その表情を見ると、心の奥底にあった警戒感が消えていく。

 代わりに不思議な気持ちになる。

「あ、ありがとう……」

 お礼を言うと光希は照れたように頭を掻いた。

 そして、二人は並んで保健室を出た。

 廊下には誰もいない。窓から見える空には夕焼けが広がっていた。

 学校を出て二人で歩き出す。

 会話はなかった。

 沈黙が続く中、恵理は隣を歩く光希の横顔をチラリと見た。

 その視線に気付いたのか、光希はこちらを見る。

 目が合うと彼は笑った。

「倉本さん、どうして部活が終わった後も練習をしていたの?」

 突然、質問をされて戸惑う。

 まさか、倒れた原因を聞かれているとは思わなかったからだ。

 恵理は一瞬、言葉に詰まるが、正直に答えた。

 インフルエンザで長期の間休んでいたことで、体力を取り戻す為に自主練習で走り込みをしていたことを説明した。

「そうだったね。二週間も休んでいれば、取り戻したいと思うよね」

 納得したような表情をする光希。

「そういう佐京くんは、どうして学校に居たの?」

 今度は逆に恵理が聞いてみた。

 すると、光希は少し恥ずかしそうな仕草をした。

「僕も自主練習かな」

 その答えに恵理は疑問を持つ。なぜなら光希は帰宅部だからだ。

「……あれ。佐京くんって、部活に入ってたかしら?」

 すると彼は苦笑いを浮かべながら言った。

「僕のは、武術ウーシュー(中国武術)。ナンバの練習をしていたんだ」

「ナンバ?」

 恵理は首を傾げた。


 【ナンバ】

 ナンバとは、江戸時代以前の日本人の歩き方と、そこから発展した飛脚や武術家の高度な身のこなしまでの含んだものを称する。

 現在、我々が普段無意識に行なっている、腕と足を互い違いに振って歩く。この歩き方は、日本に浸透して100年ちょっとしか経っていない。明治の文明開化の時代、富国強兵策と連動して学校や軍隊に西洋流の行進が採用されたことで広まったものだ。

 江戸時代までの日本人はどんな歩き方をしていたのか。重心を低くし、上体を腰に乗せて、腕をほとんど振らずに歩いていた。腕を振っても、右足と右手、左足と左手を一緒に出していた。

 ナンバ歩きは合理的だとされている。

 「捻らない」「踏ん張らない」「強く蹴らない」ことを基本にしているからだ。

 捻らないから、着物を着ても着崩れることはなかった。

 また、身体に負担がかからず、動きに無駄がなかったため疲れず、江戸時代の飛脚には1日に200kmも300kmも走る強者がいたと伝えられる。

 ナンバ歩きの特長を陸上競技に活かしたのが、世界陸上パリ大会2003年、男子200mの銅メダリストになった末續慎吾選手。

 日本人初の短距離種目におけるメダリスト。

 黒人選手が上位を独占する短距離界にあって、「東洋人には無理」と言われた快挙を成し遂げた背景には、ナンバ走りがあったと、末續は語っている。


「……凄い。そんな技術があるなんて知らなかった」

 恵理は、ふと思った。

 彼女が体力を取り戻したいのは、一週間後に迫った対抗リレーで勝ちたいからだ。

 しかし、今の自分ではスタミナを失っている。

 ナンバを自分の走りに取り入れることで、疲労を少なくして走れるのではと思った。

 藁をも掴む思いで、ダメ元で頼んでみようと考えた。

「佐京くん。私にもできる? もし迷惑じゃなかったら私に教えてくれないかしら」

 そう言って、光希の顔を見た。

 光希は、恵理の真剣な眼差しに驚いた様子だった。

 だが、すぐに表情を和らげて言う。

 その笑顔はとても眩しく見えた。

 夕陽のせいだろうか。

 その笑顔に見惚れてしまった恵理は頬が熱くなるのを感じた。

「僕は人に教える程、功が成っていないけど……。倉本さんが僕でいいなら」

 そう言って光希は快諾してくれた。

 恵理は嬉しかった。


 ◆


 こうして、二人の秘密の特訓が始まった。

 まずは、基本的なことから始めた。

 光希は、恵理に姿勢と足の動かし方を指導していく。

 ナンバ走りの本質は「右(左)足で地面を蹴るときには上体(腰から肩まで)の右(左)半身を前に倒し、右(左)足を前に運ぶときには右(左)半身を後ろにそらす動き」だ。

 ナンバ走りは体を捻らない走りであると言われるが、実際には上体のブレは今までの走りに比べて前後に大きくぶれる。

 特に腹部から両肩にかけての上半身は足の運動に合わせて大きく前後する。

 ここがポイントだ。

 最初は、ぎこちない動きだったが、徐々に慣れてきたようだ。

 指導時に光希は恵理の肩に、腰にさり気なく手を触れる。

 恵理は、ドキリとした。

 光希の手は少し冷たく柔らかかった。

「いい倉本さん、ナンバはね……」

 光希は恵理の両肩に手を添えて、横並びになって言葉をかける。恵理の瞳を見つめ返した。

 彼の瞳を見る限り、そこに下心を感じない。真剣な面持ちは、まるで武術を教える師匠のような表情であった。

 光希は恵理の耳元に口を近づけた。

 吐息が耳にかかってくすぐったい。

 光希の声が聞こえてくる。

 その声は、とても心地よかった。

 胸の奥が締め付けられるような感覚が襲ってきた。

 この感情は何だろう。

 今まで感じたことのない不思議な気持ちが溢れてくる。

 恵理は、鼓動が早くなるのを感じていた。

 そして、光希の言葉を聞いていくうちに、その正体が分かった。

 光希に対する想いが強くなっていく。

 恵理の心は光希に惹かれていた。

 二日、三日と過ごした。

 恵理と光希は一緒に校庭を、ナンバを用いて走る。

 二人並んで走る姿は、さながら恋人同士のように映ったかもしれない。

 放課後の誰もいない学校のグラウンドを走る二人は、どこか幻想的だ。

 空は茜色に染まり、夕暮れ時になっていた。

 部活動の生徒達は既に帰宅しており、グランドは静寂に包まれている。恵理は、走ることに集中しながらも、時折、隣にいる光希の横顔を見た。

 光希は涼しい顔をして走っている。

 自分だけが意識しているようで、なんだか悔しくなった。

 少しだけ意地悪をしたくなる。

 恵理は、スピードを上げてみる。

 しかし、それに気付いたのか、光希は速度を上げた。

 結局、二人で競う形になった。

 恵理の方が先にゴールした。

 光希は息を切らせながら、恵理に言う。

「僕が倉本さんに勝てる訳ないでしょ。意地が悪いな」

 そう言いつつも光希は、微笑んでいた。

 その笑顔が、また魅力的に見えた。

 もっと見ていたいと思った。

 そこに、一人の少女が姿を見せた。

「光希!」

 ショートヘアの少女。

 気さくなボーイッシュな雰囲気は、さわやかな印象がある。

 青空を見上げ時に感じる、その快いさまは清々しく、それが明度となって輝いている。

 見方によっては童心を持った男の子のような様子もあるが、イタズラっぽく笑った時に覗く八重歯は、子猫のような愛らしさがある。

 やんちゃで元気な様子が魅力的な少女であった。

 名前を日下くさか由貴ゆきと言った。

「由貴……」

 光希は身構えるような口調で言った。

 恵理は由貴を知っていた。クラスメイトだからだ。

「いつまで経っても来へんから探してみれば、こんなところにおったとはな」

 由貴の言葉に光希は気づく。

「あれ? 今日だっけ」

「当たり前や。ウチとの約束忘れて、光希はいつから陸上部になったんや。さっさと支度しい。前回の組手は、負けを認めてやるけど、今回は絶対にウチが勝つからな」

 由貴は唾を飛ばしてまくし立てる。

 光希は苦笑いを浮かべる。

 恵理は察する。どうも二人の話の内容から察するに、光希と由貴は武術ウーシューの稽古仲間らしい。

 しかも、ただの仲間ではないようだ。

 その証拠に、二人は名前で呼び合っていた。恵理がそのことを尋ねる前に、光希が口を開いた。

「ごめん倉本さん。今日は由貴と組手の約束をしてたんだった。また明日、練習に付き合うから」

 光希は手を合わせて謝った。

「倉本さん光希との練習は、今度にしてや。ま、生きて帰れたやけどな。じゃあ、さよなら~」

 光希の隣に経つ由貴は、恵理に向かって、ひらひらと手を振って、二人はその場を去っていった。

 恵理は、その後ろ姿を眺める。

「がさつな娘……」

 そんな言葉が漏れてしまった。

 恵理は胸がチクリとするのを感じた。

 それは嫉妬であった。

 恵理は自分の気持を自覚していた。

 自分の気持ちが恋だと理解する。

 同時に、光希が別の女の子と一緒にいる姿を見て、胸が苦しくなる。

 恵理は、光希がいなくなった後、一人で走り続けた。

 先ほどまで、光希が隣にいたことが嘘のように思える。無性に寂しさを感じるのであった。

 光希が自分以外の女子と話しているのを見て、嫌な気持ちになる。

 自分が独占したいと思う。

 光希に特別な感情を抱いているのだ。

 この気持ちは抑えられない。

「先にゴールするんじゃなかった……。名前で呼べてないけど。私の方が好きなんだから……」

 恵理は、誰にも聞こえない声で呟いた。

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