オレの前で泣くな

@MeiBen

オレの前で泣くな



入社してすぐに配属された部署にその人はいた。


部署は設計部門で、先輩は当時たぶん10年目ぐらいだった。年齢は35歳ぐらい。背格好は平均的な日本人という感じ。身長は170cmよりも少し高い。体型は少し痩せ型。昔はもっと太っていたのかもしれない。制服がかなりダボついていた。古くてヨレヨレだったからかもしれない。いつも無精ひげを生やしていた。周りの人から嫌われているというわけではないけど、少し孤立している印象を受けた。


同じ部署だったけど、最初の頃は先輩とはほとんど話すことはなかった。関わるようになったのは3年目になってからだ。私は先輩と同じプロジェクトにアサインされた。3年目になって、ある程度経験を積んだ私は少し自信がついていた。今から振り返ると、分不相応に偉そうだったと思う。当時の私には自信過剰という言葉がふさわしかった。だから、あの失敗も必然だったと思う。設計の一部分が私の担当として任された。私は自分一人の力でやり切ろうとして、誰にも相談せずに設計を進めた。そして、それで上手く行っていた。試作でも問題なし。評価は順調に進み、製品リリース前の最後の審査を受ける段階となった。そこで設計ミスが発覚した。


工場から連絡を受けた。高温条件で数日使用した後に、製品から焦げた匂いとともに大量の異物が出るとのこと。私は確認に行くように指示された。

「どうせ組み立てか何かをミスしてるに違いない」

そう思っていた。けど違った。状況を正確に把握すればするほど、それは明確になった。私が担当した部分の設計ミスだった。


それから私はたくさんの人に謝罪した。プロジェクトが遅延することになったのは確定だった。簡単に修正できる見込みはなかった。色々な部分に影響を与えることは必至だった。評価もやり直さなければならない。私のせいだった。


それから毎日、残業した。規定の勤務時間は超えてしまうから、勤務時間を偽って申請した。私は必死だった。でもダメだった。私は勤務中に倒れて、医務室に運ばれた。医務室の先生から、次の日は休むように言い渡された。課長からも命令された。私は全部に押しつぶされそうだった。いや、もうつぶれていたと思う。


一日休んで、次の日に出社すると、課長から担当者の交代を告げられた。先輩が私の設計修正を担当することになった。反論したかった。でも、もうできなかった。これ以上何も言う資格は無いと思った。


先輩は設計室のパソコンの前に座っていた。私は先輩の元に行って謝罪した。先輩は私を睨んだ。そして言った。

「無駄なことすんな」

低い声で先輩は続ける。

「謝罪したところで、お前のせいでオレが余計な仕事をせなあかんのは変わりないんや」

さらに声が低くなる。

「やから無駄なことすんな、苛つくわ」


それから私は全く別の仕事にアサインされた。先輩が担当するようになってから、問題は一気に収束していった。プロジェクトの遅延は最低限で済んだ。しばらくは落ち込んでいたけど、周りの人はみんな優しく接してくれた。そのおかげで、私はだんだんと立ち直ることができた。


先輩とはなかなか話すきっかけが掴めなかったけど、数ヶ月経った後に、ようやく私は先輩にお礼を言う事ができた。


先輩はいつも部品センターの裏でタバコを吸っていた。指定された喫煙場所ではなかったけど、人目につかない場所で、使ってるのは先輩だけだった。先輩がタバコを吸いに行くのは、いつも16時頃。私は

先輩の後をこっそりついて行った。先輩がタバコに火をつけ終わるのを待ってから、先輩の傍に行った。先輩が怪訝そうな顔でこちらを見る。

「ありがとうございました」

ごめんなさいと言いそうになったけど、前に先輩に怒られたのを思い出して、ぐっとこらえた。

「はい?何?」

急な展開に先輩は戸惑っているようだった。たぶん、先輩はほとんど覚えていなかったのだと思う。

「私の設計ミスを修正していただいてありがとうございました。先輩のおかげでプロジェクトの遅延も最低限で済んだと思います。本当にありがとうございました」

私は頭を下げた。

先輩は何も言わなかった。

頭を上げて、先輩の顔を恐る恐る覗く。

先輩は目を細めてこちらを見ていた。

「無駄なことすんなよ。お前にお礼を言われたって何も得せえへんのやから」

先輩は言った。

「やから無駄なことすんな」

そう言ってから、先輩はポケットからタバコの箱を取り出すと、私に差し出した。

「ほら、お前も吸えよ」

私は慌てて断った。

「なんやそれ。タバコ吸いに来たんとちゃうんか」

先輩はタバコを吸い込んでから、ふ~と煙を吐いた。

「最近の若い奴らタバコ吸わんよな〜。まあ、ええことやけどな。でも、他に何に頼っとるんやろって思うわ」

先輩が滔々と話し始める。

「どないなん?最近の若者さん」

先輩が私の方を見て、笑いかけながら言った。


それから私は度々、先輩の喫煙場所に行って先輩と話すようになった。後で知ったことだが、私が倒れたときに医務室に運んでくれたのも先輩だった。結局私は先輩にお礼を言わなかった。



それから、ある日のこと。会社からの帰り道で、バイク事故の現場に遭遇した。眼の前でバイクと車が衝突して、バイクの運転手が吹き飛ばされた。辺りにはバイクの破片が散らばっている。車の運転手も慌てて出てきた。バイクの運転手が道路の真ん中でうめき声をあげている。辺りにはたくさんの人がいたが、ざわついているだけで誰も何もしなかった。私も何かしないといけないと思ったけど、何をすべきか分からず途方にくれていた。

その時、一人の男性が私の横を通り抜けて、倒れて呻いているバイクの運転手の元に向かっていった。その人が誰なのか一瞬で分かった。先輩だったからだ。私もすぐに先輩の後についていった。バイクの運転手を間近で見たところ、プロテクターをつけていたおかげで重大な怪我はしていないように見えた。先輩は車の運転手に手を貸すように言って、二人でバイクの運転手を抱えて近くの歩道まで運んだ。先輩が運転手を抱えるとき、運転手が大声で呻いた。その時、先輩が言った。

「うるせえ!呻くな、黙っとけ!」

また、周りの人がざわつく。運転手は相変わらず呻いていた。バイクの運転手を歩道まで運んだ後、先輩は私に救急車を呼ぶように指示した。私は急いで119に電話した。先輩は車の運転手に何かを指示していた。その後、車の運転手はすぐに車に乗り込んで、交通の邪魔にならない場所に車を停めた。先輩は倒れたバイクを起こして、近くの歩道まで運んだ。そして、大きな破片だけ回収して、車が通行できる状態になった。先輩は私に救急車が来るまで怪我人についておけと言った。

「何もせんでええから、傍におったれ」

先輩はそう言うと、車の運転手の元に言って、何かを話していた。私は先輩の指示に従い、怪我人の傍についた。バイクの運転手は相変わらずうめき声をあげている。間もなく救急車が来て怪我人は運ばれていった。警察もやってきて、事情聴取を受けた。私が必死で質問に答えている横で、先輩は面倒くさそうに適当に答えていた。


帰り際に車の運転手が歩み寄ってきて、お礼を言われた。自分一人ではどうしてよいか分からなかったと言われた。一緒に居てくれて本当に助かったと言われた。お礼なら先輩に、と言おうとしたが、先輩はもう居なかった。


半年後、私は部門異動することになった。異動先の課長はとても陰湿な人だった。仕事の内容は厳しいものではなかった。でも前の部門とは大きく内容の違う仕事だったせいで、私は新人同様だった。

私は、色んな人に仕事のやり方を聞きながら進めようとした。でも、課長がやめろと言ってきた。

「お前の教育に割く余裕は誰にもない。自分で考えてやれ」

仕方なく、私は自分なりに考えて仕事した。でも、それで上手くできるはずもない。また、課長に罵倒される。部署の全員に聞こえるように大声で言われた。定例の報告会では、私の報告は飛ばされた。時間の無駄だと言われた。また別の日には、なぜ報告しなかったと言われた。報連相もできないのかと、一年目の新人の方がよっぽど使えると言われた。


どんどん職場に行くのが嫌になった。だからこそ先輩の喫煙場所に行きたかったけど、それすらもできなかった。席を立つと何を言われるか分からない。そんな感じだった。トイレの時間と回数も数えられていたと思う。でも、耐えた。しばらくすると、ある程度、やり方が分かってきた。無視されたり、罵倒されることにも慣れてきた。大丈夫だと思っていた。でも、駄目だった。ご飯が食べられなくなった。夜眠れなくなった。どんどん駄目になっていった。心も体も駄目になっていった。


限界が来た。

私は先輩の喫煙場所に行った。

先輩がいた。


「よお、久しぶりやな」

先輩が私に笑いかける。

先輩の顔を見ただけだ。

それだけだ。

でも気づけば、私は泣いていた。

「何や?どないしたんや?」

先輩の戸惑う声が聞こえた。

私は話した。全部話した。でも抑えるべきだった。先輩はずっと黙って話を聞いてくれた。私が話し終えると、俯いてる私に先輩は言った。

「泣いたって解決せえへんやろ、無駄なことすんな」

私は顔をあげて先輩の顔を見た。

先輩は私を睨みつけていた。前にも見た表情。そして、今までで一番低い声で言った。

「オレの前で泣くな、苛つくわ」

先輩はタバコの火を消して、私の横を歩き去っていった。


私はしばらく一歩も動けなかった。先輩に見放された。その事実を受け入れられずにいた。部署に帰っても、また罵倒を受けるだけだ。私はもうそのまま帰宅してしまった。


土日を挟んだ次の週。

罵詈雑言を受けることを覚悟して出社したところ、課長が来ていなかった。それから一週間経っても課長は来なかった。部長から課長の異動が通知された。後任が決まるまでしばらくは、部長自身が課を管理するとのことだった。


事の詳細を知ることができたのは、もっと後だった。当時の主任から詳細を聞いた。


あの日。

私が先輩と話したあの日。

先輩が課長のデスクに行って、課長に罵詈雑言を浴びせた。課長はそれを聞いて激昂し、二人は取っ組み合いの喧嘩になった。会社に残っていた主任や部長などが二人を抑えた。課長は先輩を殴ったのを理由に出勤停止を受けた。事情聴取を受けた主任とその場に残っていた他の課員から、課長の課員への対応の問題が明るみに出て、課長は別の部署に異動が決まった。結局は当時の主任が新たな課長となった。


これがことの顛末。

でも、一番大事なことが抜けている。

あれから先輩に会えていない。

いつもの喫煙場所にも先輩は居なかった。

先輩の部署に行っても、やっぱり居なかった。

先輩はもう会社に居なかった。

あの事件の後で、先輩は会社を辞めたらしい。

自分の意志なのか、会社の命令なのかは分からない。

先輩の行動について、みんなああだこうだ言っていた。

でもそんなことはどうでもいい。

先輩の行動がみんなからどう評価されているかなんてどうでもいい。

私のせいなんだ。

私が先輩の前で泣いたからなんだ。



先輩

今度は泣きません

だからもう一度会いたいです

「ごめんなさい」も「ありがとう」も言いません

だからもう一度だけ

どうかお願いです

もう一度だけ



終わり

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