肉を喰らう
青海老ハルヤ
肉を喰らう
そこは、驚くほど想像通りの監獄だった。その小さな部屋には、汲み取り式のトイレとカビ臭い無地の2段ベッドだけが哀愁をまとってそこにあった。そして、太い鉄柵が廊下と部屋を隔てており、これも鉄柵がはめ込まれた小さな窓から、わずかばかりの光と冬の外気が直接入ってきているだけだった。
下のベッドには1人のアメリカ人の男が座っていた。僕と同じ囚人服であるオレンジのジャージを着ている彼は、まるでそこにいるために存在するかと錯覚するほど、その部屋によく似合っていた。そのまま骨のように弱々しい手足と、青白く痩せこけた顔に着いた長い髭は、緑に変色したコンクリートの壁と同調して揺れていた。
「俺はジョンだ。君は?」と彼は英語で聞いてきた。「僕はショウタ。日本とアメリカ人のハーフだよ」
「日本か、いいな。俺も一度行ったことがあるんだ。特別好きという訳でもないが、もう一度行きたいくらいには好きだぜ」
「ありがとう、母も喜ぶよ」
そんな会話が2つ3つ続いたけれど、もうよく覚えていない。その後ジョンは立ち上がって、骨の浮きでた左手の指で床に転がっていたアルミ製の皿を手に取った。僕の目の前に右手の1本指を立てて言う。
「ショウタ。ここのルールについて説明しておく。まず、何をしてここにぶち込まれたかは言わないでくれ。今後を快適に過ごすためだ。いいな」
「分かった」
僕が頷くとジョンはもう1本指を上げた。そして皿を持ち上げ、僕の目の前で振った。
「これが最も重要なことだ――昼の12時きっかりに貰えるこの皿1杯の豆のスープが俺ら2人のブレックファストで、ランチで、ディナーだ。だから、このスープをLDBと言う。LDBは必ず平等に分けることだ。いいな」
レコードの円盤ほどに大きく、またホットケーキ3枚が優に入る深い皿ではあったが、さすがにジョンが言うほどたくさん入るようには見えなかった。僕1人でさえ3食分にはならないだろう。
「これだけ? 他には無いのかい?」
そう聞くと、ジョンはニヤリと笑った。
「これは受け売りなんだがな……肉だ。自分の肉。自分の筋肉。それを喰らって生きる」
「なんだって!?」
思わず僕が目を剥くと「あー違う違う」とジョンはさらに口角が上がった。どうやら僕の反応がお気に召したらしい。
「喰う、っていうのは口からの話じゃないんだよ、ショウタ。要するに、今まで蓄えてきた筋肉と脂肪を体が吸収してエネルギーにするのさ。世界で最も簡単な料理だよ」
ジョンはやはり不敵に笑った。
LDBを平等に分けるのは、想像以上に難しいことだった。パンや肉ならばだいたいの大きさで分けることが出来る。が、豆のスープは、何かで区切ろうとしても、僅かな隙間からスルスルと逃げて言ってしまう。オマケに豆の数も同じにしないと平等でないから、毎回必ず数えなければならない。
もうジョンは長いことここにいるらしく、「相棒」と呼ばれる2人1組のお相手を、何度か見送ってきたと言う。――天国に行けるような人は、ここにはいない。そういうことだ。
「お前は死ぬぞ」ジョンは言った。
「俺は生き延びる。最後まで生き延びて、いつかここから出るんだ」
「ここから出て何がしたいんだい?」
僕が聞くと、ジョンはまた不敵な顔をして笑った。何度か見るうちに、これがジョンのスタンダードであることが分かってきた。
「肉を食いたい。本物の、な」
それは、僕らにはなかなか難しい夢だった。まずここから出ることは一生できないだろう。外に出る時はもう肉など食うことが出来ない身体になっているはずだ。でも、とても輝かしく崇高な夢のように僕は思えた。
そのような夢があってさえ、ジョンはできるだけLDBを平等に分けようと努めていた。普通、お互いスープを分ける時は、僅かに自分が少なくなる事すらないように、もしくはちょっとでも自分の分を増やすために、極限まで集中する。誰もがそうなっていくんだ、とジョンは言った。
「でもそれだと疲れるだろ? 若いやつ、あとから入ってきたヤツのほうが有利すぎるんだ。それだと俺は不利だしな。だから交換条件だ。俺は本当に平等に分ける。ショウタ。その分休んでいてくれ。取り分けたあとで調べてくれても構わない。だから、完全に平等で分けることを理解してくれ。それに、その分気楽にしていた方が、多分体力を使わないぜ」
そう言ってスープを綺麗に取り分けるのだ。拾ってきた同じ大きさの缶に、同じだけスープが入っているのを見ると、僕はジョンに尊敬の気持ちが芽生えた。もちろん全く警戒しないことはないが、だんだんと僕はジョンの平等を信じていった。しかし、ジョンは裏切る素振りさえ見せないのだ。たまに抜き打ちで本気で調べて見ても、必ず豆の数は同じで、缶の中のスープの高さも同じだった。
LDBはそこまで美味しくなかったが、冬が明け雪が溶ける春になって、仕事が課せられるようになるとそれは一変した。仕事の内容は山の開墾だった。ジョンと僕は他のどこよりも仲が良かったから、早い者勝ちの、良い道具の確保もいつも1番で、仕事を終わらせるのも人一倍早かった。模範囚になることは、唯一の希望である特赦の条件でもあったから、僕らは必死に働いた。そんな日の仕事帰りのLDBは殊更に美味かった。
「ショウタ! お前ほど今まで気があったやつは外にもいなかったぜ。他の奴ら、日本人はだから嫌いなんだ、なんとか、言ってるがな。俺はお前が大好きだぜ! 仕事の意味だけじゃなくな」
「ありがとう、ジョン。僕もだよ。色んなことを教えて貰えて本当に助かったし、とてもいい監獄ライフを過ごせているのはジョンのおかげだ。ありがとう」
そんなことを寝る前に、2段ベッドの上と下で言い合うのだ。普通に考えれば随分と小っ恥ずかしいことをしていたが、上から聞こえるジョンの声は、仕事の疲れを癒してくれるようだった。僕らは最高の相棒だった。模範囚になるのは、そう遅くはなかった。
模範囚は、仕事で貰える僅かなお金を使って、他の囚人たちよりも早く月一の売店を利用できる。先の丸まった羽根ペン、黒だけのインク、小さなチョコレート……その中で、僕らはいつも本とチョコレートを買った。本は2人で買えば随分と楽しみが増えたし、チョコレートは僕らを天国に連れていくほどに美味しかった。LDBは3つの味があり、ローテーションで回っていくが、それでも味は飽きてしまいがちだ。だから、チョコレートは栄養補給とともに、僕らにとって必要な食べ物だった。
僕は「ピーターラビットのおはなし」が好きだった。イギリスで何年か前に出版された絵本で、いつもは1ヶ月の暇を潰すためにいつも分厚い本を買っていたが、それを売店の隅に見つけた時ばかりはこの絵本を手に取らざるを得なかった。そのお話はとても優しかった。内容は、監獄で読ませて大丈夫なのか? とも思ったけれど、逃走犯が惨殺されたところを何度も見ている僕らは、逃げ出す気はさらさらなかった。僕らは何度もこのお話に体を預けて、ゆっくりと暇を楽しんだ。とてもいい日々だったと思う。
ジョンの「肉を喰らう」の意味が分かってきたのは6月に差し掛かる頃だった。雨が降った次の日、水溜まりの中を覗き込むと、僕は思わず尻もちを着いてしまった。知らない人間がそこにいた。顔は痩せこけ、骨が浮き出で、目がギョロついたスケルトンのような人間だった。手を見ると、あの日のジョンのように骨だけになっているようだった。僕だと言うことを受け入れられなかった。
「どうした」というジョンの顔を見ると、僕は気づいていなかったけれど、出会った時よりも酷く痩せこけ、風が吹いたら飛んでいってしまうように思えた。その日は初めて僕らは仕事を残業した。
「どうした」監獄に帰ってきてからジョンは再び僕に尋ねた。下を向くと、半ズボンから骨が出て、皮が必死に骨どうしを繋ぎ止めているのが見えた。
「いや……痩せたな、と思って」
僕が正直に言うと、「そうだな」とジョンも言った。もう僕と同じ時期に監獄に来た数人にも、餓死者が出始めていた。ジョンはもう最古参だった。
「僕も……死ぬのかな」
ジョンは答えなかった。LDBは砂の味がした。
ジョンが死んだ。あまりにも唐突だった。餓死ではない。仕事中、他の班が誤って倒した倒木の下敷きになったのだ。骨だけになったジョンが耐えられるはずもなかった。上半身と下半身で真っ二つに別れたジョンの虚ろな目は、遠くの空を見ていた。
それから1週間と2日後、特赦が出た。戦争が終わったらしい。連合国の勝利だと言う。殺人鬼にしては随分と早い解放に、一部の人間はいい顔をしなかったが、僕はまた誰か殺す気にはなれなかった。
その後軍に入った僕は、牛の肉を食うたびに思い出すのだ。ジョンの平等に分けた、あとLDBの味を。世界一簡単な、あの料理を。
肉を喰らう 青海老ハルヤ @ebichiri99
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