もし、ライオンに襲われたウサギが肉離れを起こしたら【春】【旅】【うさぎ】

kanegon

もし、ライオンに襲われたウサギが肉離れを起こしたら

 今は昔。

 とある春の穏やかな日に、ウサギが山で昼寝をしていた。空を舞うカラスの声ものんびりして聞こえる。

 ところが、たまたま通りかかったライオンに見つかって襲われた。危うく目を覚ましたウサギは慌ててぴょんぴょん飛び跳ねて逃走したが、急に激しい運動をしたため両方の後ろ足に激痛が走った。ウサギはそれ以上動けなくなり、その場にうずくまった。

 ウサギが動けなくなったのを見て、余裕の表情でライオンはウサギの前に立ちはだかった。タテガミの無いメスのライオンだった。

「ウサギ美味しいかの山、という文学的表現がある。確かに美味そうなウサギだが、人間に捕まってパイにされるよりは、百獣の王であるライオンの糧となる方が死の甲斐があるというものであろう」

 ウサギの鼻先でしゃべるライオンの吐息は、肉食獣らしい生臭さだった。

 ウサギは己の不運を呪った。

 こんな肝心な時に、肉離れを起こしてしまうとは。

 以前に偉い人が言っていた言葉に「ライオンに襲われたウサギが逃げる時に肉離れを起こすだろうか」というのがある。いざライオンに追われた時は、ウサギは万全の力を発揮して全力で逃げるものだ。

 だが今、ウサギは真実に気づいた。

 ウサギが肉離れを起こさない、というのは生存バイアスだ。ライオンから無事に逃げ切ったウサギは、結果だけを見たら肉離れなど起こさず万全の状態だったのだろう。

 すべてのウサギがライオンから逃げ切れるわけではない。捕まって食われたウサギたちの中には、逃げる最中に肉離れを発症して動けなくなった惨めな奴もいることだろう。

 それは、数分後の未来の自分の姿だ。

 ウサギは涙目になった。

 ウサギとて、普段から怠惰に過ごしていたわけではない。肉食獣に襲われた時に逃げ切れるように、日頃から草原を飛び跳ねて体を動かしていた。それでも肉離れになってしまったことは、ウサギの準備不足として責められるべきことなのだろうか。生存バイアスに基づいて、結果が伴わなかった失敗者を責める自己責任論は、単なるマッチョイズムであり、そういった考え方がはびこるとげとげしい風潮は改められるべきではないのか。

 両足の痛みと死への恐怖がウサギの心へと押し寄せる。

 まだ死にたくない。

 ウサギはオスであり、性欲が旺盛だった。どんな生き物でも、生命の危機に晒された時は、本能として子孫を残したいという思いが働き、性欲が高まるものなのだ。ライオンに食われそうな今この瞬間、メスのウサギとまぐわりたいと心から思った。こんなところで死ぬわけにはいかない。なんとかして窮地を脱出しなければ。

 こうなったら、なんとか適当に言いくるめて、食うのを思いとどまらせるしかない。

「ラ、ライオン様、ど、どうか俺を見逃してやってください。お、俺には、崇高な使命があるのです」

「ウサギごときが、何の使命があるというのかね」

「この世の生きとし生けるものは皆、殺し合いをしています。人間に至っては、他の動物を殺すだけに飽き足らず、肌の色だとか宗教の違いだとかを理由に人間同士でも殺し合いをしている始末です。あまりにも悲しい世の中ではありませんか。こんな世の中に、慈悲深さをもたらしたいという俺の思いがありまして、それで、天竺へ行って有り難いお経を入手してこようと思って旅をしております」

「天竺とな。随分と壮大な目標を持ったものだな」

「そ、そうです。俺の本当の旅はこれからなのですが、志を高く持っております」

「そうだったのか。それは知らなかった。そういうことならば邪魔して悪かった。天竺への道のりは遠かろう。こんなところで道草を食っている場合では無いはずだ。さあ、さっさと行きたまえ」

 ライオンはウサギの前を開けて道を譲ってくれた。

 ウサギは心の中だけでほくそ笑んだ。

 咄嗟の思いつきで出した口からの出任せを、まさかライオンがここまで素直に信じてくれるとは。お人好しのライオンが相手で良かった。この流れなら助かるかもしれない。

「どうしたのだウサギよ。早く行かぬか」

「そ、それが、ライオン様、足が肉離れを起こしてしまいまして、両足が激痛にさいなまれて歩くのも困難という状態なのです」

 ライオンは不快そうに顔をしかめた。

「なんだそれは。ウサギよ、いざ天竺へ旅立とうという時に肉離れで歩けないとは。準備が足りないのではないか」

「そ、そういうふうに言われますと、面目次第もございません」

「天竺は遠いぞ。いかに高い志を持っていようとも、それを達成するだけの体力と準備が足りていないのでは、達成など全く不可能の役立たずではないか。それに、こんな場所で足を痛めたからといって寝そべっていたのでは、カラスの群れに生きたまま啄まれて食われるだけだぞ。そうなるくらいなら、私の獲物になった方がマシではないかな」

 あれ。

 なんだろう、この会話の流れは。急にウサギにとって雲行きが怪しくなってきたではないか。

 こういう時こそ、機転を利かさなければ。

「お、お言葉ですがライオン様、俺は役立たずではありませんし、仮に役立たずであったとしても、それを理由に食い物にしていいということにはなりません。俺がこれから向かおうとしている天竺には、本生譚というのがございます。お釈迦様の前世の徳の高さを伝える物語で、ジャータカと呼ばれます。その中に、ウサギの施し、という逸話もございます」

 食われるか免れるかの瀬戸際だ。ウサギは震える声で物語を話した。



 むかしむかし、天竺にウサギとサルとカワウソとヤマイヌがいた。

 その四匹は、ある時、腹を空かせた婆羅門の僧侶に出会った。四匹は、その僧侶のために食料を集めてこよう、という話になった。

 サルとカワウソとヤマイヌはそれぞれ食料を調達してくることができた。が、ウサギだけは何も持ってくることができなかった。

「婆羅門のお坊様、わたくしは今からその焚火に飛び込みます。わたくしの肉が焼けたら、どうぞお召し上がりください」

 ウサギはそう言うと、自ら火の中に飛び込んだ。

 しかし、火は全く熱くなく、ウサギは毛の一本すら燃えなかった。

 どういうことかとウサギが戸惑っていると、僧侶が厳かに言った。

「ウサギよ、この私の婆羅門の僧侶というのは仮の姿で、実はインドラ神なのだ。ウサギよ、お主の徳の高さはしかと見届けたぞ。その徳を永久に人々の間に記念されるように」

 インドラ神は満月の表面にウサギの似姿を描き、四匹の動物たちに別れを告げて天へ帰って行った。

 月にはウサギが住んでいる、と言われるようになったのは、この時からである。



「ど、どうですかライオン様。徳の高さというのは、それ自体で讃えられるべきものなのです」

 ライオンは大きく頷きながらウサギの語りを聞いていた。

「ほうほう。ウサギよ、お主、なかなか興味深い話を知っているのだな」

 どうやら俺の語った内容に感銘を受けたようだ。これでまた形勢逆転か。

「その話なら私も知っているぞ。大学の文学部で『今昔物語集』を勉強したのだ。いずれの説話も『今は昔』で始まるから『今昔物語集』だ」

「え、ライオン様って、大卒だったんですか」

「それで、『今昔物語集』の天竺部には、『三獣、菩薩の道を修行し、ウサギが身を焼くこと』という逸話がある」

 今度は意外に高学歴だったライオンが語り始めた。



 今は昔、天竺にウサギとサルとキツネがいた。三獣は菩薩の道の修行をしていた。

 ある時、三獣はよぼよぼの老人に出会った。老人には身寄りも無く貧しく、食べ物にも困っていた。

 サルとキツネは老人のためにあれこれと食料を集めてきた。だがウサギは頑張って食料を探したものの、何も持ってくることができなかった。サルとキツネはウサギのことを無能と罵った。

「かくなる上は私の身体を焼いて食べてください」

 と言ってウサギは火の中に自ら飛び込んで焼け死んだ。

 それを見た老人が正体を現した。帝釈天、つまりインドラ神だったのだ。

 帝釈天はウサギが火の中に飛び込んだ姿を月の中に移し、広く一切の衆生に見せるために、月の中に留め置いた。



「どうだ、ウサギよ。他に何の役にも立たない無能であっても、最後には自らの肉で他者の腹を満たすことができる。まこと、天竺には有り難い物語があったものだな」

「へ、へぇ。ウサギの本生譚って、そういうバリエーションもあったんですね。そこまでは知りませんでした。さすが大卒ですね」

 また流れが変わってしまった。口先で誤魔化そうとしていたのに、相手のライオンが想定していた以上に高学歴だったため、小手先の誤魔化しが通用しなさそうだ。

「それにな。私は思い出したぞ。私は、別に腹は減っておらぬ」

「え、だったら別に俺を食べなくても」

「腹をすかせているのは、生まれたばかりの私の子どもたちなのだ」

「そ、それは、ご出産おめでとうございました」

「お主が殺生だらけの世を儚んで天竺へ有り難いお経を取りに行くというのは良い志だと思う。だが、お主が天竺取経から帰ってくる前に、私の子どもたちは食べさせてやらねば飢え死にしてしまう。かわいい子どもたちのためだ。潔く死んでくれ」

「いや、あの、その」

「肝心な時に肉離れになってしまって天竺へ行けなくなった己の準備不足を惜しむのだな」

 かくてウサギは、食欲旺盛なライオンの子どもたちにおいしくいただかれてしまった。大学で学んでいた文学の知識があったからこそ、狡猾なウサギの口車に乗せられずに、無事に子どもたちに食べ物を与えることができたという教訓だ。

 と、語り伝えているとのことである。

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