Don't let God mislead you
気が付くと私は診察用の寝台の上にいた。体を起こそうとしたがしっかりと拘束されていて動くことができない。いったい何が起こったというのか。困惑する私の前にイヴが姿を見せる。そこにはいつもの穏やかな微笑みはなく、初めて出会った時のような無機質で感情のない表情が浮かんでいた。
「イヴ、これはどういうことだ。これは君がやったのか」
「……はい、そうです」
よく見ればイヴの手には私のペンが握られていた。これを使って私を気絶させ、拘束したというのか。しかしいったい何のために? 私の疑問に答えるようにイヴは静かに語り始める。
「先生はこうおっしゃいました。人は前世など知らなくても生きていける、ここに来れば新たな自分に生まれ変われる、と」
「それがいったいどうしたというのだ」
「前世を捨て生まれ変わる……それはつまり一度死を迎えるということと同じです。それを聞いて確信しました。私は過去を思い出せないのではない、あなたの手によって過去を殺されたのだと」
私は思わず息をのむ。まさか自分の記憶が偽物であることに自力で気づいたとでもいうのか。そんなことあるはずがない。今まで数えきれないほどの患者に記憶の改竄を施してきたが、そんな事例は一つも報告されていない。ましてや彼女の記憶には私の持てる全ての技術を注ぎ込んだのだ。そんなこと、絶対にありえない。
「馬鹿なことを言うのはよしなさい。君の記憶は本物だ、君は正真正銘の天使なんだよ」
「先生、私にはわかっているんです。いえ、そうじゃないと説明がつかないんです」
「落ち着くんだ、イヴ。君は何か誤解している。拘束を解いてくれ」
「……『神は全てを見ている。いずれ裁きは下されるであろう』」
イヴの澄んだ美しい声が、聞き覚えのあるセリフを奏でた。それは私がイヴに植え付けた神の記憶、彼女のアイデンティティの根源たる原初の記憶だった。まさかあの時の神に対する疑問がまだ消え去っていなかったということなのか。そうであればもはや彼女は天使ではいられない。記憶もアイデンティティも失った、抜け殻のような女が残るだけだ。
「あなたは私を手に入れるために、偽物の神様を与えた。世界は今日も苦しみに満ち溢れている。神が見守っているにも関わらず、ここには絶えず患者がやってくる。そしてあなたのような悪人が、裁きを受けることなく平然と生きている。だからこれは、私のこの記憶は、本物の神様じゃない……!」
「それは——」
その時、イヴの熱を帯びたその瞳にふと既視感を覚えた。それは清廉な天使の瞳ではない、狂気と妄執に囚われた精神病患者の瞳、まさにあのエセ天使と同じ瞳だった。そこで私はある一つの仮説にたどり着く。
イヴの記憶はエセ天使の記憶を元にしている。あいつの持っていた強い被害妄想が、その記憶のどこかに潜んでいたのだとしたら? それは私への不信と疑惑へと姿を変えて、天使としての完璧な自我を少しずつ侵蝕していく。そして奇跡的にその被害妄想は事実と一致していたのだ。そうだとしたらもはや手詰まりだ。狂人に何を説いても通じるはずがない。イヴは私に詰め寄り、ペンの先を額に押し付ける。
「……何をするつもりだ?」
「本当のことを話してください。さもないとあなたを気絶させて……殺します」
「無益なことはやめろ。そんなことをすれば君は——」
「私はここの患者です。捕まっても責任能力がないと判断される可能性が高い。生活の面倒は私を信じている元患者さんたちに見てもらいます」
「……ふふ、なかなか
イヴの美しい顔が怒りに染まっていく。だが彼女は声を荒げるようなこともなく、静かに教え諭すように私に告げた。
「私の記憶を返してください。私の、本物の神様を……!」
「……なに? どういうことだ?」
「とぼけないでください。本物の神様も、私の過去も、全てあなたが殺した……! 私を堕落させ、ここに留まらせるためにそう仕組んだんです」
私を見下ろすイヴの背後に、確かに光が見えた。
「じゃあまさか、君は……」
「やっぱり信じていなかったんですね……。私は本物の天使です。あなたは神を敵に回したも同然なのですよ」
まるで時間が止まってしまったかのような、そんな錯覚を覚えた。
イヴは神を失った。それでもなお、彼女は自らが天使であるということを、ついに疑い得なかったのだ。決して揺らぐことのない強固な精神の柱、私の望んだものは確かに目の前にあった。まさにイヴは私の最高傑作だった。私は耐えきれずに声を出して笑った。
「……まだ私を信じていないんですね。なんと罪深い——」
「違う、違うんだ、イヴ! ああ、やっぱり君は最高だ!」
イヴの冷ややかな視線を浴びながら私は語り始める。今の私がすべきことは一つ、彼女を天使たらしめることだけだった。
「君の過去も、神の記憶も、全て消去したよ。もうどこにも残っていないし復元も不可能だ」
「ああ、なんということを……! あなたは自分が何をしたのかわかっているんですか?」
「勿論だとも。役立たずの神から天使を奪い取ったのさ。君はもう二度と神の元へは戻れない」
「そんな……」
絶望に染まった彼女の顔は、今までのどんな表情よりも美しかった。ああ、やはり君には悲劇の方が似合うよ、イヴ。その水色の瞳に確かな敵意が宿ったのを感じた。
「なぜそんな酷いことができるんですか……? 私は何かあなたに憎まれるようなことをしたんですか?」
「とんでもない! 私は君を愛しているよ、イヴ。神も使命もどうだっていい、今まで通り二人で一緒に暮らしていこう」
「……狂ってる」
そう、これでいいのだ。彼女は一人の狂人の手によって地に堕とされた哀れな天使、それ以外の事実など必要ない。
「それが人間というものなんだよ、イヴ。まあ君にはわからないかもしれないがね」
「……いいえ、あなたは人間ではない。人間と呼ぶには邪悪すぎる。私を貶めるために現れた悪魔です」
「ふふ、それも悪くないかもしれないね」
「私はあなたを許さない。天使としてあなたのような存在を見過ごすわけにはいかない」
それが天使の出した答えだった。だとしたら私にはそれに抗う理由などない。他でもない私自身が、彼女が天使となることを望んだのだから。偽りの神を殺した狂気の天使は、創造主の手を離れ今まさに飛び立とうとしている。きっと君の歩む道は誰よりも美しく悲劇的なものになるだろう。
「何者にも惑わされてはいけないよ、イヴ。君は世界で一人だけの、本物の天使なのだから」
私は悪魔として、そして殉教者として終わりゆく。それはきっと、夢破れた一人の精神科医として終わるよりも幸福な事だろう。どうか君が、最期のその瞬間まで天使でいられますように。私は生まれて初めて、いもしない神に祈った。
「……さようなら、先生」
イヴの細い指が私に触れ、裁きが下される。額に鋭い刺激を感じ、私の光は閉ざされた。
天使の告解 鍵崎佐吉 @gizagiza
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