No one is looking at you

 それからは私はイヴを密かに監視することにした。彼女に何かしらの変化が起こった時、即座に対応できるようにするためだ。彼女は一人でいる時はずっと知識の収集をしているようだった。ただ以前とは違って、彼女の興味はより幅広い物事に対して向けられるようになっていた。それがどういった心情の変化によるものなのかはわからない。しかしそれはあまり良い変化だとは思えなかった。

 彼女が神の存在を否定するに至った時、同時に彼女の天使としてのアイデンティティも崩壊することになる。そうなってしまってはまた一からやり直しだ。どうにかしてそのような事態は防がなければならない。しかしこの段階で再び彼女の記憶を編集するのもいささか性急なように思える。私は思案を重ね、一つの対応策を考え付いた。信仰とは即ちマジョリティの妄想だ。強度が足りないのであれば信者を増やしてやればいい。私はさっそくその計画を実行に移すことにした。

 現代においても精神病患者は数多く存在し、その治療は決して容易とは言えない状況が続いている。むしろ電子ドラッグなどの新たな脅威によって、人々の精神衛生は前時代よりも悪化しているとさえ言える。私のクリニックには他の医師たちが匙を投げるような重症患者ばかりがやってくるが、それでも患者が絶えることはない。だから治療の対価として、彼らの中の幾人かに役立ってもらうことにした。

 彼らの記憶を消去し新たな記憶を植え付ける際に少し細工をする。彼らの過去に「天使の奇跡」の記憶を植え付けるのだ。つまり記憶を失う前のイヴに出会い、なんらかの超常的な力によって救われた、と信じ込ませる。そうすることで彼らはイヴの信者として生まれ変わり、彼女のアイデンティティを外的に支える存在になる。もし彼らが天使を信仰していると周囲にばれても、元が重度の精神病患者なのだから再発を疑われるだけで済む。まさか彼らを治療した私が仕組んだことだとは誰も思わないだろう。新たな偽の記憶のデータを創るのは簡単なことではないが、イヴに植え付けた記憶と違い今回は単純なものでいい。私はイヴの監視映像と音声データを組み合わせていくつかの記憶を創り、それを密かに患者たちにインストールした。

 現実のイヴには特殊な力など何も備わっていない。しかし記憶の中でならどんな奇跡だって起こせるのだ。偽りの奇跡が彼女を天使として完璧なものにしてくれる。そうすれば自ずと彼女の抱えている疑問も解消されるだろう。人間は自分を疑い続けたまま生きていけるほど強い生き物ではないのだから。


 治療を終え別人として生まれ変わった患者たちは、イヴを見ると皆一様に感激し涙を流した。最初はイヴも戸惑った様子だったが、事情を聞き自らの失われた過去について知ると、目を輝かせて彼らの話に聞き入った。人間には自分にとって都合のいい情報を信じようとするバイアスが常に存在している。ましてやそれが自らのアイデンティティに関わるものだったならなおさらだ。こうして更生した患者たちは静かで敬虔な信徒として生きていくことになる。

 思えばイヴに足りていなかったのはこういった社会的な承認であった。自我というのは自己を取り巻く環境との関係性の中で培われていくものだ。自らが天使であるということを社会的に認められた時、ようやく彼女のアイデンティティは揺るがぬものとなる。ごく限られたコミュニティの中だけではあるが、今の彼女は個人を超えて集団による支持を得たのだ。自らを天使だと信じ、そして他者からも天使として崇められる存在、それはまさに天使と呼ぶほかないだろう。多少の紆余曲折はあったが、これで私の天使はついに完成した。


 それ以降イヴの状態は安定し、悩みを口にするようなこともなくなった。少し名残惜しくもあるが、まあ致し方ないことだろう。また一人治療を終えて一息ついていた私にイヴがコーヒーを淹れてくれる。

「先生、お疲れさまでした」

「ああ、ありがとう」

「……先生は本当にすごい方です。私だけでなく、どんな患者さんもあっというまに治してしまう。まるで奇跡を見ているみたいです」

「はは、君にそう言ってもらえると嬉しいね。だけど天使の起こす本物の奇跡に比べれば大したことはないさ」

「でも私には到底そんなことはできませんよ。……人の心というのは複雑です。私にはとても理解できる気がしません」

 確かにあの患者たちの様子を見ていればそう思うのも無理はない。私だって彼らの妄想や狂気を完璧に理解したうえで治療に望んでいるわけではないのだ。むしろそういった従来のカウンセリング主体の精神療法を乗り越えるために生み出されたのが記憶編集技術だ。精神疾患における対処療法として、薬剤よりも遥かに確実でなおかつ副作用も少ない。だからこそ多少の倫理的批判がありながらも、こうして多くの患者がここに連れて来られている。

「別に理解する必要などないさ。ここに来れば彼らは新しい自分に生まれ変わることができる。前世など知らなくても人は生きていけるのと同じだよ」

「……きっと先生は前世も素晴らしい方だったんでしょうね」

 イヴはそう言って静かに微笑みを浮かべる。どれだけ凡愚どもに批判されようとも、私の側には天使がいて、こうして私を見返りのない優しさで包み込んでくれる。そしてこのイヴという生きた天使が、記憶編集技術の新たな地平を切り開く導き手となるのだ。記憶の改竄によって人は人以外のものにすら生まれ変わることができる。かつて多くの権力者たちが自らを神格化し、その肥大しきった自我を優越感と支配欲で満たそうとしてきた。しかしこの技術が確立されれば、絶大な権力などなくとも誰もが神に近しい存在になることができるのだ。もはや自分の生きる理由や存在意義などというものに頭を悩ませる必要もない。自らの望む人生をデザインして、その記憶をまるごとインストールすることだって不可能ではなくなる日が来るだろう。そしてその時、人々の上に立つ新たな創造主となるのはこの私だ。

「先生」

 イヴの呼びかけに私は笑顔で振り返る。次の瞬間、何か鋭い刺激を額に感じて私の視界は閉ざされた。

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