Be suspicious of everyone ;doubt God

 それはまさに福音だった。私の目の前には天使がいた。私が創りだした、この世で最も気高く美しい存在。

「……信じるよ。君が嘘をつくとは思えない」

「先生……ありがとうございます」

 イヴは私に自分の記憶を語ってくれた。現世に降り立ち、人々の幸福のために人知れず努力と献身を重ねてきたこと。しかしその途上で悪意に満ちた人間たちに捕らわれてしまったこと。その大筋自体はエセ天使の妄想とそう変わらないが、イヴにはそれ以外の記憶が一切ない。つまり彼女にとってはその記憶こそが唯一無二の真実なのであり、それは私が植え付けた記憶と寸分違わぬものだった。常識との矛盾に直面し、それを克服してなお、少しもその形を変えることなく天使の記憶は彼女の中に息づいている。当初の想定をはるかに上回る最高の結果だ。私は満ち足りた気持ちで天使の告解を聞き届けた。


 こうしてイヴは天使として新たな生涯を歩み始めた。ただ公的な彼女の立場は重度の精神障害を抱えた身元不明人のままだ。しかるべき手続きをすれば彼女が社会復帰を果たし一市民として生きていくことも可能だが、私はようやく手に入れた至高の存在をそう易々と手放す気はなかった。また彼女の方も外の世界への憧れなどは特に抱いていないようだった。考えてみれば、憧れとは自分より優れたもの、自分にはないものに対して抱く感情だ。天使である彼女に足りないものなど何もない。そういった感情が欠落しているのは、むしろイヴが天使として完璧であることの証明だった。そこで私はイヴに対して一つの提案をした。

「イヴ、ここで私の助手として働いてくれないだろうか」

「先生の助手? ……でも、私に務まるでしょうか」

「問題はないさ。そう難しい仕事はないし……それに君の使のこともあるだろう?」

「……! はい、そうですね。私でよければお手伝いさせてください」

 イヴには天使として世の人々を救い助けるという使命がある、ということになっている。崇高な目標があり、それを達成することで幸福感と自己肯定感を得る。それもまた健全な精神を保つためには必要なことだ。実際のところ助手などいなくても問題はないが、そうしておけば何かと都合がいい。こうしてイヴは私の患者でありながら助手でもあるという奇妙な立場に落ち着くことになった。


 美しい天使と共に過ごす日常。それは今までの人生が霞んでしまうほどの素晴らしい体験だった。イヴの声を聴き、その微笑みを見るだけで、私は柔らかな幸福に包まれた。どんな時も彼女の優雅さと穏和な表情が崩れることはなく、あのいかれた患者たちに接しているときでさえそれは変わらなかった。

「先生、どうしてあの人たちはあんな風になってしまったんでしょうか」

「それが人間というものなんだよ。心というのは繊細で脆弱な粘土細工のようなものだ。小さな衝撃や異物によって簡単にその形は歪んでしまう。だからその形を整えなおす陶芸家が必要なんだ」

「それが先生のお仕事、ということですね」

「その通りだよ、イヴ」

 そして君こそがまさに私の最高傑作なんだよ、イヴ。

 彼女の聖性が損なわれることはなかったが、ここで働き始めてからいくつかの変化も見られた。それは欲望の萌芽だ。自我が安定していくにつれて、少しずつ彼女自身の趣味嗜好が表れ始めたのだ。彼女は天使であると同時に生きた人間でもある。そういった傾向が見られることもまた自然なことだ。そしてその傾向が特に顕著に表れたのが知識欲だった。彼女は神や天使に関する宗教的な知識や、人間という存在、とりわけ精神的な活動や心の構造などを知りたがった。おそらく彼女は自らの欠けた記憶、本来存在しないはずの天使として生きた過去を取り戻そうとしているのだろう。私は彼女に自由に学習できる環境を与えて経過を見守ることにした。天使である彼女がこの世界を知り、そしてどんな答えを出すのか、ということに興味を抱いたからだ。彼女は私の手伝いをする傍ら、様々な情報を貪欲に学んでいった。


「先生は神様を信じていますか?」

 ある日、イヴが私にそう問うた。結論から言えばその答えは否だ。一神教的な神にしろ、アニミズム的な神にしろ、そういった人間とは異なる超越的存在などいるはずがない。だが強いて言うのであれば、神は人間の心の中にいる、と捉えることもできる。我々にとっての現実など、所詮は幻想の上に成り立った不確かなものでしかない。神がいると信じればその人間の認識の上では神は実在するのであり、人間にとって主観的な認識とは絶対的なものだ。まさにそれを証明しているのがこのイヴなのである。ただ彼女の質問の意図だけは今一つ判然としなかった。私は慎重に言葉を選んでその問いに答えた。

「……ここに天使がいるということは、きっと神も存在するのだろうね。私にはそれがどんなものなのか想像することもできないが」

 それを聞くとイヴはどこか物憂げな表情を浮かべながら語りだす。

「実は私も神様のことはほとんど覚えていないんです。だから神様について知れば何か思い出せるかと思って……でも調べれば調べれるほどわからなくなってしまって」

 神とは何か、それは天使であっても、いや、天使であるからこそ容易に答えが出せることではないということか。私の持論ではイヴを満足させることはできないだろう。代わりに私は優しくイヴに語りかける。

「力になれなくてすまない。でも焦る必要はないんだよ。君が望む限りずっとここにいてくれていいんだ。その方が私も助かるからね」

「……ありがとうございます、先生」

 自らが天使である以上、普通の人間以上に神に対する疑問は無視できないものになる。彼女が既存のイメージから自分で記憶を捏造することも考えられたが、どうやらその段階には至っていないようだった。あまりこの状態が長く続くようなら、より明確な神のイメージを新たに植え付けることも検討しなくてはならない。私は思案を巡らせる。

 しかし私はそうやって思い悩むイヴの姿にもまた別の価値を見出し始めていた。確かに揺るがぬアイデンティティを持った強固な存在は美しい。だが本質的には彼女の美しさは凛々しさではなく儚さに類するものだ。天使として正しくあるためにはどうすればよいのか、そう逡巡する彼女のその愁いを帯びた横顔は、思わず時間の流れを忘れてしまうほどに私の心を満たしてくれる。

 ——まあそう急激な変化は起こらないだろう。このまましばらく様子を見よう。それが私の出した結論だった。

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