There's no room to refuse

 ゆっくりと少女が体を起こす。柔らかな薄茶の髪が無機質な照明を反射してわずかに揺れる。ただただ虚ろで焦点の定まらなかった瞳は、周囲を見渡したのちに私のことを捉えた。私を一人の人間としてしっかり認識している、確かな理性を感じさせる眼差しだった。

「おはよう、気分はどうだい?」

 私は微笑みを浮かべながら優しく少女に呼びかける。しばし間があって、少女は答えた。その容姿に相応しい透き通るような綺麗な声だった。

「あなたは……?」

「私の名はハイタニ。精神疾患の治療を専門とする医師だ」

「ハイタニ、さん……」

「ここは私のクリニックだよ。君は記憶を失っていて、ずっと治療を受けていたんだ」

「記憶を……そうなんですね」

 いくつか簡単な質問をしながら、私は慎重に少女の状態を確認していく。言語アーカイブの定着は成功、今のところコミュニケーション能力にも大きな問題は見られない。とりあえず第一段階は無事クリアできたようだ。私は興奮を抑えて、なるべく穏やかに少女に問いかける。

「それで、何か思い出したことはあるかい?」

「思い出したこと……」

 私は息をのんで少女の答えを待つ。彼女の言葉はまさに天使の言葉そのものだ。宗教家の空想から零れ落ちた教示めいたそれとはわけが違う。何のしがらみにも囚われていない、純真無垢な天使自身の言葉なのだ。しかし私の期待とは裏腹に少女はなかなか言葉を発しようとしない。

「どうしたのかな。……何か言いづらいことでも?」

「いえ……すみません、まだあまり頭の中がはっきりしていなくて」

「……そうか。確かに無理もない。何か思い出すまで、ここでゆっくり休むといい」

「はい……」

 私は落胆を隠しながらも状況を分析する。天使の記憶はうまく定着しなかった、ということだろうか。しかしその部分には細心の注意を払ったはずだ。今までの経験からしても記憶の植え付けに失敗した例はほとんどない。そうなると考えられる可能性は一つ。

 ——彼女は天使としての自覚がありながら意図的にそれを隠そうとしている。

「ああ、そうだ。一つ聞き忘れていたことがあった」

「なんでしょう?」

「自分の名前は覚えているかい?」

「……いいえ、わかりません」

「そうだろうね。……しかし名前がないというのも不便だ。あくまで便宜的なものだが……イヴ、という名前はどうだろうか? 嫌なら別の案を考えるが」

 少女は少し意外そうに瞬きをしたが、ややあってその表情を柔らかく崩した。まさに天使の微笑というに相応しい、美しい表情だった。

「はい、良い名前だと思います」

「そうか。ではこれからよろしく、イヴ」

 全て予想通り、というわけにはいかなかった。だが同時にこれは非常に興味深い事態でもある。私はすぐさま対応策を検討することにした。


 まず考えるべきは、なぜ彼女が自らが天使であるという事実を隠そうとしたかだ。私の創り上げた天使の記憶には矛盾や不整合は存在しない。そうであれば自ずと原因は他の部分にあることになる。思い当たるのは一緒にインストールした言語アーカイブと一般常識だ。おそらくは後者が何らかの予期せぬ影響を与えた結果、こういう事態を招いたのだろう。私はその部分を細かく分析していくことにする。

 この一般常識というのは他の記憶とはやや性質の異なるものだ。特定の人物から抽出したものではなく、複数人の技術者がゼロから創り出したもので、世間一般に広く普及している。昨今ではこういったデータを活用した即席学習も珍しいものではなくなりつつある。これがより専門的で高度な知識になってくると未だ世論の是非は別れるところであるが、既に技術的に可能になってしまっている以上、そういったものが世に出回るのも時間の問題だろう。

 このデータを細かく解析していくことで原因がはっきりした。「天使」という存在が言語アーカイブと連動し「非実在」として認識されるようになっていたのだ。彼女は今、自分が非実在であるという矛盾に直面して混乱しているというわけだ。まったくもって初歩的で単純なミスだった。逆に言えばその部分さえ修正してしまえば、彼女は自分が天使であるということを自明のこととして受け入れるだろう。

 そこで私はふと思いとどまる。修正するのは簡単だ。しかし人間の記憶とは揺れ動き常に形を変えるものでもある。手を加えずこのまま放置したとしたら、彼女はどうなるだろうか。もちろん精神の均衡が保てず自我崩壊に陥る可能性も大いにある。だがもし彼女が自力でその矛盾を解決しようとしたら? 常識という強力なバイアスに打ち勝った時、彼女のアイデンティティはまさに絶対的なものになるのではないか。

 ——神は乗り越えられる試練しか与えない。

 そんな一節をふと思い出した。私はあくまで理想を追求することにした。失敗したところで、またやり直せばいいだけの話なのだから。


 経過観察を兼ねて私は日に一度は必ずイヴとコミュニケーションを取った。彼女は口数は少なかったが、それは彼女の美しさを妨げるものではなかった。確かに天使が雄弁である必要はない。彼女はただそこにいるというだけで、絶対的な存在になり得るのだから。時折なにか物憂げな表情を見せることはあったが、イヴは実に落ち着いていて取り乱したりすることはなかった。私は頃合いを見計らってそっと彼女に語りかける。

「何か悩みがあるのなら、どんなことでもいい、私に相談してくれ。医師として可能な限り君に協力するよ」

「……ありがとうございます、先生」

 今のところイヴの精神状態は安定している。彼女は私が心血を注いで創り上げた完璧なアイデンティティを持っているのだ。常識という巨大な共同幻想にもしっかりと耐えうるだけの力を持っていた。私は卵から雛が孵るのを待つように、じっと時の経過に耐えた。そしてついにその瞬間は訪れた。

 いつもと同じように他愛のない話をして私が部屋を出ようとした時、イヴが私を呼び止めた。

「あの、先生にお話ししたいことがあるんです」

「……ああ、どんなことでも聞くよ」

 イヴの表情からは確かな決意が感じられた。今、私の与えた偽りの翼で彼女は羽ばたこうとしている。人は天使に生まれ変わることができるのか。その答えを私は聞いた。

「……信じていただけないかもしれません。でも先生にはちゃんとお伝えしておきたいんです。私は、本当は人間ではなく——」

 確かに光が見えた。人類の明日を照らす希望の光が。

「——神より遣わされし天使なんです」

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